アニメ・漫画 Feed

2015年1月12日 (月)

オタクな葛藤

Otaku

 言葉はありふれるが意味は変化する。意味は付加わり又かすれ薄れる。昔、ばんから今おたく、投げやりに見えるのは外側で、意味を荒く捕らえると乱暴者にされます。

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 言葉の内外をよく測定しなければ。オタク青年のフィギャーを扱う手つきを見ていて、芥川の肘を付いた写真を思い出した。掌をほおに当て……俗に虫歯のポーズというヤツで「私は芸術家です」の証明写真です。昔、海外で流行りました。

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 並外れて小汚く見えるオタク青年の服も、ある意味の証明服であるような……高椅子の上であぐらをかいた太宰治のカフェでの写真も、自らポーズを取って「写せ」とカメラマンに注文をつけた……ト写真家側に聞いてます。

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 純文学なんていうがオタクの元祖のような所がある。奇妙に見えても見掛けほどは奇妙でない。屈託した衒いがのぞく場合もある。「風立ちぬ」ではのっぽの堀越も、ちんちくりんの黒田さんも、どちらも宮崎監督がモデルです。

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  動機はむろん屈託したナルシズムという奴でしょう。あれで十分、自己主張ですからこう書いても悪口にはなりません……もっと上げます? ユーゴーのレ・ミゼラブルで、ジャンバル・ジャンが大男なのはユーゴーが小男だった反映です。

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 芥川龍之介は「3丁目の夕日」でもパロディ化されてます。書きたがりの癖に書けないって矛盾してます。元ネタを用意したと言われる。あ、太宰治もそうでした。漱石も2作ほど……比較すると宮崎監督は立派な部類に入ります。

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 カッコイイことはカッコ悪いこと、モテたいとはモテたくないこと……電車男でも証明がありましたネ。英雄的な行為をすれば本人は満足できるけど、周囲には多少なりとも迷惑で、社会において相手にも誰にも影響のない行為はないです。

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 たとえば私が目立つスーツ着れば、隣に立つ人のジャケットは地味になる。まして作業着を着る人をおとしめる……おとしめるまでは、ないか? 目立つ兄弟姉妹には深刻な問題って言います。そんな自己演出は、もしその場に演出家がいたら迷惑せんばんでしょう。

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 自分をある意味で埋没させ、だがある意味で充足させる。大きな不満もなく極端な満足も望まず、自分をバランスさせるって難しい。でもそれが社会生活という事で、ほころびは端的には太宰状になりましょうネ。

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 純文学という形態はゲームに変わった。酒やタバコは体をこわし、高くつく事が明確になった。その無理がはっきりした以上、こだわる必要はないんです。非合法の怪しいハーブは論外で……そうすると合法で安価な行き先はゲームになります。

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 町でなく街にしあれば、目立たぬよう埋もれていたい。裏返しの願望というか、かなり強烈な自己主張に違いない。「風立ちぬ」を観た後、結婚願望がわいて来て困るそうな、ええ男も女も……元祖オタクって芥川や太宰ではなく、女性だったんだ。

2015年1月 8日 (木)

さあ生きようではないか

Zero

 夢と現実の間に扉をつけて好きに行き来したら……トいうアイデアは誰でも思いつく。問題は現在が過去になり切るまでは、自在な素材にはならない。夢の素材は記憶であって、知らない風景やまだ見ぬ物質では自由にならない。

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 タレントと引退した政治家の間に自分が居ると思ったら、私は早朝、ラジオを聞いていた。何か話そうとしても枕に口を押さえられ動けない。タレントは何か言えよと目配せするが、私は何もいえない。スタジオにいる夢かと思えば、間抜けにもイアホンの中の放送だった。

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 夢を操作しようとするが、ひどい近眼では飛行機乗りにはなれない。アニメは堀越次郎の夢ではなく、宮崎駿監督の夢なのです。屋根に停めた自分の飛行機で、車庫から車を出すように夜に飛んだら……まあ、飛行機を持つのは断念し、私なら車かバイクで手を打ちますが。

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 純粋な夢はただ夢に過ぎない。他人を轢くか自分をブチ当てるか? 監督は飛行機乗りになれずにアニメーターになった。飛行機への夢は少年の頃に挫折したからだ。少年は挫折して青年になる。青年は挫折して中年になり、中年は挫折しても何にもなれない……その先にあるは老いであり死でしかない。

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 監督は70代であるため「風立ちぬ」に本当の死は描かれない。つまり死はまだ先にあるので、そこに扉を取り付ける事ができない。奈緒子はサナトリウム、結核療養所に扉をつけ、下宿の部屋で結婚してしまう。部屋代は誰が払うのか、家主に結核は染らないのか……

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 死と隣り合わせになったアニメに細部はない。私は結核でもないのに療養所(サナ)にいた事があって、ここはウソと笑ってしまう。町の病院では治療費が足りず、田舎のサナに回された。それで入院費は足りたが、代わりに結核を染されます。今でいう院内感染でして、普通の病院でインフルが流行るのと同じです。

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 当時から判っていたがルーズにしたので、この部分は半分は作り話です。今は事実とデータが厳しくなっていて、院内からはコンビニへも買物なんかも、出ちゃいけないんで……厳し過ぎて面白くない? そういう意味ではフィクション化はどんどん難しくなってます。

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 ここに無理がある。宮崎駿監督はデータを尊重する作風で、認識は確か。だから大目に見ろという人は多いだろうけど。私など持病の治療は進んだが、結核感染では体力を落とした口です。そこを考えると昔は良かったなんて、吞気は言えない。

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 宮崎駿監督はカプロニ伯爵に憧れ、貴族になったつもりでしょう。しかし用もないのに高価な乗物に乗る夢は、乗せる夢も含め、私と関係がない。生きるために食わねばならず、明日を見届けるため動かない身体を引きずる行為にどこにも美はない。むろん余分なカネも知識さえ私にはない。 

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「ハヤブサの取付け金具一個で、その娘の家なら一月暮らせるよ。貧乏な国が飛行機を持ちたがる。それでオレ達は仕事が出来る。矛盾だ。ドイツの飛行機会社に支払う金額で、日本中の子供たちに天丼とシベリア(菓子)を食わせても、まだオツリが来る。これも矛盾だ」そういうセリフがあります。

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「風立ちぬ」に出てくる飛行機(画面)はポスターにも描かれるが、ユンカースで、ゼロ戦とは主翼が違う。作ってすぐのゼロ戦はむろん新型だが、たちまち旧型機になり、敗戦近くには敵機には勝てなくなる。その整備をやった人に、直にサナで聞きました。敵機のエンジン音と比べ、こんなボロでは、思ったそうです。

●風立ちぬ予告 https://www.youtube.com/watch?v=a3PBiLDXawU

●本編 http://www.animewow.tv/watch-kaze-tachinu-movie ここでの視聴は簡単ではない。怪しいCMの間をぬう操作は間違うと……自己責任で。

2014年2月 1日 (土)

進撃の巨人

Singei死んだ後を「草葉の陰」という。《草の葉の下の意から》墓の下。不在。この世の不在をあの世という。前に「千の風になって」という歌が流行ったが、風になるも同じ意味になります。

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風も空虚をいい、不在、何もない存在をいう。ない事は言わなくていいが、実際はそうもいかない。骨や体も土に埋めるだけでは治まらず、その上に石を置きます。また木の下に埋めたら、その木を見上げ、木と木の上の、森の上を吹く風を思います。

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「進撃の巨人」の最初に主人公エレンが泣きます。お母さんが亡くなるからです。泣く涙を強調する為か、エレンの目はとても大きい。人の死は涙に彩られる。中でも悲しいのは母の死で、誰でもお父さんのより悲しかったと言います。

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私は自分の死がもっと悲しいと思うが、自分の死には滅多に立ち会いません。 そういう訳で、一般的に母の死が、一番悲しいことになります。そういう訳で母の死は生はんかでは納得できない。

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納得したくない……死は逆に生きる動機付けになります。母親が病気で死ぬと、病気を解明する医師になりたくなり、病人を看護する看護師になりたい。そう思うようになった話を聞きます。

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死のために生きるとは妙に思えますが、そう思うとはっきりします。生きている感覚は当り前すぎ、何のために生きているか、判らなくなっている。自覚がない。本来、何があり何がなくなったか?

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自分が生まれる前から当り前にいた親が死ぬと、自分の先行も見えなくなる。何時か死ぬ現実に、今さらのように思い当たる。母親の死は、生きる意味へ深い実感を伴うようです。

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この実感は深くはあるが一時のモノであり、常々にはない。新しい生や可能性、たとえば死は子供が生まれると帳消しになる。だが、進撃の巨人では物語が本来の前には流れない。母の死でエレンの心は止まります。

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心がこり固まり固定化します。むろん恨みと復讐は、有り得るが前向きではない。国文学でいえば川端康成にあたる。川端文学では若くして別れた母のイメージがくり返し出てくる。母をおいて他は手につかないらしい。それは伊豆の踊り子だったり山の音だったり……

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 たとえば婚活でも恋愛でもして結婚して、ふと気がつくと妻は、母と似ている……そういう話を聞きます。その女性の足の裏でもいいから、死に別れた母にもう一度、出会えたらめでたい。

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たとえ妻に母の面影を見れなくとも、娘に面影をみたりもします。それはもともとの明日です。昨日に拘らなければ見えただろう明日、物の見方が広がり前向きに生きれば、そういう出会い再会はあったト思うのです。もし拘らなければ……

2013年7月 5日 (金)

モンスター 

 Kaibutu連続TVアニメと単発ドラマが「MONSTER」と「怪物」同じタイトルです。子供時代に不幸にも衝撃的なを体験するとトラウマから非人間的な怪物に育つ……コトもある。そういった解釈内容の物語であります。

 

もう名前も上げないが、この内容での物語は幾らもあり珍しくない。この奇譚に、若い視聴者は飲み込まれるらしい。つまり自分もまた物語のような、非人間的な怪物との認識に至る、らしい……今、親子の年齢差は30才弱だろうか?

 

同じ事柄の意味合いが30年前と今では大きく違います。たとえば保育園の意味と役割、学びと遊びの構造が違う。ママやパパの単語と同時に、幼児は意味のないトーク術を身につける。つまり保育園では隣の幼児と、毎日意味のない会話をするらしい。

 

MONSTERの舞台は東西ドイツ、および欧州で日本ではない。なぜなのか? 私は隣のベッドの年長患者に戦中の話を聞く体験をしたが、そういう舞台では生なまし過ぎるト思う。何が真実か? 議論もあるようで……物語の基本を納得する。

 

親子が本当でないと、子供の情感は安定しない。そう言えばそのような、あるいはそうでもないような……決定的な客観情報はない。ただ病院は、都会の一般病院での短期入院と長期入院、たとえばサナトリウムでのそれは訳が違う。

 

後者では例外なく、患者は家族が恋しくなる。つまり郷愁にかられます。デ、どちらのモンスターにもそれはない。家族がなく郷愁がなく、家庭もない。簡単にいうとモンスターの登場人物は、ほぼそれで出来上がる。

 

介護する人とされる人では、同じ事柄を分かつのだが、その感想は違う。介護された身障者は「自分が健常者だったら介護するだろうか?」と考える。つまり介護しないのではないか? トいう側に寄る感想に重点がかかる。

 

親子といえども体験の意味が大きく違う時がある。断絶が起こる。これは他者との隔絶を意味する。「断絶」は井上陽水の最初のアルバムタイトルです。陽水付近で起こった隔絶はその後も次第に断絶の傷を深める……のではないか?

 

保育園に通う子が奇怪な幼児語を話しても、お母さんは意に介さない……とまでは言わないが重視しない。つまり明日も子供を保育園に連れて行く。そうしないと仕事にも何もならない。疑問を持った所で何の得るところもない。

 

私も身体を使わない範囲で介護はします。気を回しお節介をやく事がある。損得でいえば、損な役回りを担うこともある。一旦、身につくと習慣や癖のようなモノで、今風でないと判っているが止められない。今の子供たちはそうではない。

 

孤立あるいは断絶したと感じるモンスターたちは、知らない国の孤児院や、ありもしない施設、そしてまた超能力にからめて話をするのが好きなのだろう。

 ●怪物 http://www.gooddrama.net/japanese-drama/kaibutsu

2013年6月28日 (金)

浦沢直樹さん

Plwto浦沢直樹さんの「PLWTO」を読みます。1~2巻は、前に買って少し読んだが深い関心が持てず、それぎりのマンガです。鉄腕アトムが、手塚作品が原作ト聞いた。アトムが主人公ではなく、アトムで脇だった刑事ロボットが主人公。

 

つまりアトムへのオマージュ……小説への物はあります。マンガが小説へのオマージュはある。たとえば大島弓子さんの「綿の国星」は漱石の「我輩」へのオマージュ。和歌でいう本歌取りに当たり、盗作とは言わない。

 

芥川龍之介が「鼻」でデビューします。鼻も古典へのオマージュ。知らないで漱石は激賞したらしいが、ネタに詰まると芥川作品は停滞を始める。それはいいとして、PLWTOで最初に問題になるのは、ロボット殺しということ。

 

芥川の場合、死を前に回想を試みます。つまり主体的には生きられない。目的を持って生きるのが苦手で、それまでを回想するので手一杯。原作を下書きとして使うことで、いわば先読みをする。

 

ロボットも主体的には生きられない。主人や社会からの使命によってのみ動ける。つまり浦沢さんにも似た悩みがある……のではないか? ここまでは勘で判るんですが、マンガでそういうテーマを解決できた試しはない。

 

人を殺せば人殺しだがロボットを壊せば、ロボット殺しではないか? そういうテーマです……面白いですねえ。ロボットはパーツで組み替えることが出来ます。実際はともかく、本作ではロボットにも限界があって、疲労する事になっています。

 

私は身障者です。医師の診断間違いから治療が遅れ、完全回復しない。そういう結果を抱えます……それは一部が壊れた人間とも読めます。障害という現実と何やら似ている。一脈通じるものがある……ように思う。

 

……で、この古本を読みかけた端から紙が落ちる。本には先の読者があり、しおり代わりに挟み込む。浦沢直樹原作アニメ「MONSTER」の宣伝ハガキです。先の読者は浦沢さんにご執心だったらしい。

 

「PLWTO」は面白いがマンガを読むのは高くついてイケナイ。これは8巻本でまだ630円が必要、何だか知らないが、MONSTERでもいいかあ。アニメ化されたのなら例によって、youtubeあたりにある可能性が……ネットを当たるトあります。

 

MONSTERは、PLWTOの前作で殺人の問題も含まれるだろう……いい加減! 観てみよう。で、ちょっと観ると狙いはたがわず、病院が舞台で医師が主人公です。全部見ると長いけど、テーマとして私に合ってるかも知れません。

 ●MONSTER アニメ本編 http://www.youtube.com/watch?v=LSltdQp7FPA

2010年6月15日 (火)

うんばば中尾さん

Nakao

うんばば中尾さんのDJを久しぶりに聞きます。(FM791金曜AM7~10朝ッパラ)今週はTVドラマの主題歌を集めるらしい。「サインはV」というのは見てないので何とも言えないが、女子向けのスポ根だった。

スポ根マンガや子供TVでは特殊技が実際にもあるらしく描かれました。ありえない事は半ば判り、しかし、あるらしく観ていた。これはサンタクロースの存在に似ています。

中尾さんのDJは、意識のここを昔に逆転させて聞かなければならない。今さらバカバカしいと思ってはいけません。サンタクロースに半信半疑である頃は、ある人に長く、ある人に短く、またある人には全くないのです。

典型的なのをステロタイプとかステレオタイプという。勧善懲悪というのもそうですが、あの頃のお約束は少し裂けていました。「あしたのジョー」は別に正義の人でも、絶対の強者でもありません。

「太陽にほえろ」のマカロニやGパンは殉職してしまう。不完全なヒーローとして受け入れられました。「モチベーション3・0」を引っ張っていえばバージョンアップが深く静かに進んでいました。

「太陽にほえろ」には高橋恵子さんが出ていました。女性メンバーとして出た訳ではなかった。恋愛対象としては見ないというステロタイプのお約束がありました。太陽に裏番組があって「天下御免」というのです。

天下御免には中野良子さんが出ていて、中野さんは平賀源内役の山口崇さんが好きと設定してありました。他の人と一緒ではありますが、ドラマで二人は同棲しているんですね。

それだけの話ですが天下は、太陽の視聴率を一時抜きました。犯人刑事のおっかけっこだけより、私には好きで一緒にいる男女の方が面白い訳です。やたら強いだけの格闘技より、限界に向けて燃え尽きるボクサーの方がリアルです。

うんばば中尾さんはどうやら、そういうのは嫌いらしい。中尾さんはアニメ「火垂るの墓」は2度と観たくない発言をした事もあります。そのニュアンスがよく判りますので、私は笑った記憶があります。

子供に見せるアニメとして「火垂るの墓」は果たしてアリなのか……今も迷うところです。子供向けとしては、まずデズニー式のハッピーエンドを思うのです。

ただデズニーもあまりなステロタイプで、デズニー式から抜け出せなくなるのも困ります。固定観念で観ては、現実は面白くない。中尾さんは「サインはV」から学園ドラマの周辺に話題を移し、

「あれはいけません。ほら、ルルルルル、ルルル……(思い出して)高校教師! あ、っれはいけません」

強く言うんです。私は死ぬほど笑いました。人はそれぞれステロタイプがあるようです。そこからは容易に脱皮できない。確かに「火垂るの墓」と同じく「高校教師」は別格のドラマです。

どちらもそのジャンルを破っている。タイプの殻が破けています。高校教師は、このブログ6月2日に取り上げています。女性のステロタイプにも言及のはずでしたが、長くなったので、今日はこれまで。

2010年1月 8日 (金)

神童 まんが

Sindo3

神童の原作はマンガだが、さそうあきらさんは、ちばてつや賞などの賞を総ナメにしている。神童の重要なキーは、失敗すれば命を失う。主人公が背水の陣を引くところにあります。

ラブコメでよく前提なる。失敗して元々の気楽さ、あらかじめプレッシャーを除く訳ですが、これは良し悪しです。緊張はエネルギーなので、緊張を自分のものにすれば、実力以上の力も出せます。

緊張を敵視して避けようとするなら、力を伸ばすことは出来ない。ピンチに強い体質とはチャンスに変えられること。実力を伸ばす力こそが神童の力とも定義されます。そこに、さそうさんのメッセージがあります。

「おまえら大衆に、オレのピアノが判ってたまるか!」

映画では菊名和音、ワオが隣のオバサンにそう叫ぶシーンがあります。それは安全な立場に身を置いて、自らを裂こうとしない者への非難となります。

神童が賢くて大衆が愚かとの図式にはなっていない。神童うたを支えるのはワオであり、無論、うたに導かれてワオも伸びて行く。大衆蔑視ではなく、支えてくれない隣のオバサンに、ワオはイラだっています。誰かに支えられないとワオも自分を伸ばせないのです。

どんな人も、ただの人に過ぎない。さそうワールドでの神童の意味は、ピアノが綺麗に弾けるだけの、ただの人というに近い。それは私に現実の神童、辻井信行さんを彷彿とさせます。あの人は神童です。私も残念ながらそうではない、大衆です。

ただねえ。映画監督の萩生田宏治さんは鳴海璃子さんが神童のイメージにぴったりと言っています。う~ん、神童が判ってないのでは……私なら、たとえば山田花子さんをキャスティングしますが……

もっともそれではリアルすぎて映画に客が入らなくなる。映画「神童」は鳴海璃子、松山ケンイチをしても沢山は入らなかったようです。最初に書いたように物語が好かれなかった事もあるかも知れません。

うたのお父さんは有能な声楽家だったのですが、どうやら耳が悪くなったのを苦にして失踪、自殺が暗示されます。うたの耳鳴りもそのお父さん譲りと思われる。

聴力を失ったうたが、ワオと連弾しているシーンで映画は終ります。過酷な現実をうたなら、子は親の運命さえも乗り越えて行く。すごい、ハッピーエンドですねえ。それとも、そういう物語の終わりは大衆にはウケないのか?

2010年1月 7日 (木)

のだめカンタービレ ドラマ

Kon

最近ヒットした神童に似たドラマに「のだめカンタービレ」があって、マンガ原作、クラシック題材のモノです。のだめからクラシック全体がブームという人もあります。

なぜ、このようなクラシック題材が流行ったか? ポピュラーが廃れたからト私は思います。ポピュラーはあなたも私も同じ音楽を聴いて安心しましょ……みたいな所があります。

流行つまり一時的と思うのですが、私は私だけ、ただ一つとの感覚が私たちを覆ったのではないでしょうか? 天才は、選ばれてある恍惚と不安に満ちる事といいます。

人間としてめちゃくちゃな「のだめ」が、それでも何とかなって行く姿はめちゃくちゃな人に安心をもたらした。神童も言わば、もう一つの、のだめという印象にあります。

新春映画劇場に合わせ、真夜中にコーヒーとポップコーンを作ります。一人だけの正月も、淋しいという概念を剥がせば、麻薬のような楽しさに満ちています。

孤独な天才を主人公とすれば、必然的にクラシック音楽に行き着くと思います。神童のうたは天才の代償に、予感のように耳鳴りを聞くのです……すいません。私、天才ではありませんが、薬物性の耳鳴りを患っています……失礼しました。

身体障害、山本君のいわば性を封じた。お母さんの育て方というか、教育は虐待ではないのか? もし噂が事実とすれば……しかしこうも解釈できます。山本君に自立は不可能!

認識力を隠して悲しい障害者を演じた方が、むしろ無難ではないか? 映画のP・ニューマンよろしく、逆に型にはまった世間に、はったりかましてやろう。そういう身障者もいます。

同じ穴とはいいませんが狸と狐ほどの違いもない。のだめの上野樹里さんは、あれは演技が上手い。成海璃子さんは、どうやっているのか? 実際の、リアルな天才は辻井信行さんですよ。

これを指摘するとイメージが違うって怒る人がいます。何を根拠のイメージなのか、むしろ問い正したい。私の知っている山本君は、主観ですが辻井さんに似ています。

映画としては、私はのだめより神童が好きで、それはここに書いてきたリアリティによります。のだめのコメディカルな成立には、どうもポピュラーな解釈が入り込んで感じられる。

いかん、ドアをたたく、深夜の来訪者……いえあれは犬です。隣のクロスケがポプコーンを炒る匂いを嗅ぎつけて来るようになりましてネ。奴もポプコーンに目がないのです。

2009年9月24日 (木)

FREEDOM アニメ

Photo アニメ「FREEDOM」を最後まで見ます。絵から大友作品のように思っていたら、大友克洋さんはデザインだけで内容は高松聡さんによるという……大友降板という説もあり、そうすると私は何とも言えません。

アキラの超能力戦争はどうなる事かと単行本を毎回、読んでいた記憶が蘇りました。アキラは最終巻を読み終えてガックリしました。超能力戦争の向こうには何もなかった。まるっきり予測しないではなかったので失望ではありません(笑)

限界の向こうへの関心は誰にでもあるのでしょう。しかし向こうには必ず向こう側があるかというと、そうもいかない。能力に限界があるように超能力にも限界がある。具体的には言えないけれど、超えられない壁として、その時に限界が存在します。

アキラの大半は空飛ぶバイクを使ったチェイスであり、3つ巴の争奪戦のサスペンスだった。それ自体が大友さんの書きたい事でもある。そこに気がつくとドラマはタネの見えた手品のように色あせます。FREEDOMが二番煎じと言われる原因でもあります。

アキラの飛ぶバイクはFREEDOMではビークルと言われ、これは空は飛びません。FREEDOMでは中古のスペースシャトルで、月と地球間を飛び交います。比較していいのか? 私も中古の高級カセットデッキを現役使用していますが、シャトルの中古はハードオフに出るかなあ?

中古で話をつなげば、最近LDで旧作をまとめて買いました。「ローマの休日」は趣味ではないけど再見用に買いました。が、怒りの葡萄は買わない。同格の名作だけど再見はしたくないのです。ニュアンスは判りますよね。

大昔の映画だけど「休日」は贅沢が前提になって「葡萄」は貧乏が前提になっている。今の日本では「休日」に近い夢は、見やすい。「葡萄」に心託すのは苦痛と思います。私も含め、みんな甘い夢を貪っているト、そういう事です。

中古のロケットで宇宙を駆け巡る夢って、どこか休日の味がする。高級カセットデッキが、今なお高音質なように。CDやMD、MP3と違う世界で多分、今後も追随してくる物はない。休日の夢の輪郭がデッキにもあります……しかし、それはお気楽な太平楽に過ぎません。

日本の熱帯化も毎年、鉄砲水とか大水が出ますよね? 水に漬かった家、裂けた道路、流される車、決まって老人が溺れたりしています。夢でスペースシャトルはコントロール出来ても、現実の熱帯化はコントロール出来ない。それどころか怒りの葡萄と考えたくもない。

FREEDOMはバブル前の企画で、この辺の矛盾に気がついていません。ただ休日は見たいけど葡萄は見たくない。FREEDOMだけが私たちの内的な矛盾を突いている訳ではありません。私たちは、いや私は……後は、この次にしましょうか。

2009年2月11日 (水)

手塚治虫週間

Marubuti

NHK-BSは手塚治虫週間です。21:00から2時間を越える放送。

文化系には強い渡辺あゆみ(旧姓、黒田)さんが鋭く迫ります。たるみも作らずに出演者やビデオを一気に見せるのは、まさに手腕であります。プロデュース兼任かな?

手塚ファンというより好き嫌いが判れて、いくら嫌いになっても無視は出来ない。いえ名前から無視でなく虫かも知れません。著作が多くて、ロクに休まなかったようです。大家になっても一線でなくては気が済まない。

やや、うっとしい所もあった。月刊「少年」が一番、好きだった記憶があります。私はマガジンやサンデーが出る前には鉄腕アトムを読んでいました。それがガロの出る頃にはCOMが出て、白土三平さんに対抗していたのですから……うっとしい(笑)

大友克洋さんの頃には、さすがにギブアップしたと聞いていますが本音かどうか? 手塚さんに似た、比較する人にはシェークスピアしかいません。私にはそうとしか考えられない。まず登場人物がことごとく死ぬ点が似ています。

作品の中では神であろうとした……読み手は主人公に共感します。読み手に共感がいった頃合を見計らって、主人公を殺すのですから主人公の運命、時代、時に目線が行きます。作者に視線がくるようにする訳です。かなりのナルシストでもあります。

夏目房之介さんが手塚さんの夢を分析して、これが重要と言います。(ウッキペディア)

「沼地の横で得体の知れないものがブルブル震えながらぼくを待っている。それをつかまえて自分の家へ連れてくる。逃げ出すと困るから雨戸を閉めて、ふすまを閉めて絶対に出られないようにして、ぼくと物体が向かいあったところでたいてい夢がさめてしまう(略)何だかわからないけどそいつがいつも変わるんです(略)女にもなるし、男にもなるし、化け物にもなる(略)常に動いているような楽しさみたいなものがある。動いているのが生きているのだという実感があるわけです(略)で、自分はどうかというと常にパッシブで常にそれを見て感じるとか受け入れるとかいう形で、それを見ているだけなんですが、相手は何かの形で次々に流動しているんです」

現実でこれは、何か判らない昆虫の蛹を持って帰った体験がある。卑近な例に代えて申し訳ないが、私の体験ではインタビューを取って帰る時に似ています。「書きたい書きたい、書こう書けない」トいわれた新聞記者氏がどこかにおられた。そういう感じでしょう。

手塚さんは描く事に取り付かれた。締め切りに追われ自分の結婚式に遅れて出たという。本当かどうかは知りません。実は私も取り付かれた事があってよく判ります……え、それは詩? それは小説? いえいえ私の場合は。病気でした、残念!