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2017年6月15日 (木)

こころ4

 出世という言葉は古い言葉です。元々の意味は仏教用語で、俗世間の煩悩(ぼんのう)から解脱(げだつ)し悟る。悟りの内容を指した。しかし最近では高い身分を得て、世間に名が知れる。簡単にいうと成功ということ。
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 つまり上司に不実、部下に冷淡、ひとり非情に風を読む……そうしないと出世しない。少なくともマキャベリはそう言う。明治の初めこの時、日本はインドや中国やロシアを出し抜いた。東洋にありながら植民地にならず、まあまあ白人世界の仲間入りに成功したかに見えます……明治の初めは、その上昇志向の中にありました。
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 だが明治から大正やがて昭和へ、風は止まります。そういった時代にあっては、仏陀の出世ではなく、ライバルを出し抜く意味が大きくなる。昨日も子育てに失敗してノイローゼになって、どうやら心中を試みたらしい男があります。
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 漱石がなぜ小説家になったか? 留学はしたものの教官、大学勤めが無理とまで考えた。それで作家になります。漱石が死んだ時、夫人に葬式は出せるのか? 旧友、中村是公は夫人に聞いたそうです。その時、中村は満鉄の総裁で給料は当然、漱石より高かった。
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 同じ頃にドイツに留学した鴎外は医学で名を成し、文章は片手間に過ぎなかった。鴎外にはその後もその方面で、浮名を流してます。今でこそ漱石は、その鴎外より一葉より、格上に扱われます。それはごく最近の事で、ちょっと前まで違った。恋愛も色事も不得意といっていい。
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 漱石は止まろうとする風の中に焦燥感を持っています。熊本でも東京でも大学構内、学生の間では漱石よりハーンの方に人気があった。「三四郎」で「偉大なる暗闇」と呼ばれる広田先生は、そういった事々をこぼす漱石が出てくる。「それから」以降に高等遊民と表現される無職者は、そういう意味で漱石自身が書いた自画像、敗者の像です。
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 そうすると「こころ」もまた高等遊民の続きであり、敗者の苦渋を吐露しまくる。本当は私も、もっと出世したかったト、では出世がどういう物か、漱石はどう思っていたか。同じ後期3部作でも彼岸過迄、行人を読めば参考になります。
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「彼岸過迄」で漱石は自分を出すのは嫌だ。他人を例に明治社会と人間を書きたいと思う。「三四郎」には心中話のモデルがあって、それがそうでした。「行人」は自信たっぷりな自画像を書きます。その後ですから逆に自信のまるでない、弱気の自画像を書き直す。
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 そういう意味で後期三部作は、前期三部作をほぼ、なぞっていく。ゆったりと書きたい物を書いて見え、意識と無意識の間にテーマを広げ、日本社会に意味をなす、漱石は明治社会に貢献する人間像を模索します。
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 漱石の本名は金之助です。漱石はいつも金という物を意識した。朝日に入社する時は編集長とじゃ嫌だ、社長と契約を交わす……そう言ったそうです。 もう例は上げませんが終始一貫、お金がからむと厳しくなる。むろん現代では普通の事ですがね。
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 テーマには恋愛と死、金銭と成功……クリスチャンでもないのにキリスト教的に生きなければならなくなる、日本の運命が予知されています。「こころ」は仏文学の「赤と黒」より、金と恋の両方に成果を求めるディズニー・アニメの世界に近いでしょう。
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 ひとつに意識次元と無意識次元を1次元的に管理した所からの破たんが出た。別な管理というと何だが、考え直す必要がある。「こころ」は宗教や哲学、あるいは道徳が過剰に個人に介入した悲劇と取れない事もない。漱石はこころ以降に別な展開を試みます。(終)

2017年6月 2日 (金)

こころ3

 我は我が咎を知る。わが罪は常にわが前にあり……別れ際に美祢子は三四郎にそうつぶやく。恋愛では相手の都合をも差し置いて、自分の都合を優先します。
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 都合が出来たから、美祢子はもう三四郎と付き合わない。先生も都合が出来たから静、奥さんとは最後まで付き合わない。2つの小説はこの点で同じ構造になっています。
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 その共通項目はどこから来たか。西洋から来たので、もともと日本にはそんな決りも裏切りもなかった。もっというとこれはキリスト教の決りでしょう。日本では人が死ぬ話は縁起が悪いからしない……それが日本式、日本のもともとの決りです。
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 だが日本も神道だけでは間に合わないので、まずは仏教を輸入しました。それでも間に合わないと西洋を輸入したのが明治期です。純日本で間に合わすか、仏教で間に合わすか……漱石は見合いで結婚を決めます。
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 見合いは別に悪くはないが、鴎外はドイツで「舞姫」に当たる恋愛事件を起こします。この恋愛はまとまらないのですが……漱石はそういう具体的な経験なしに恋愛を書いたト私は思います。
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 自分が死ぬ前に、自分の死んだ先を考える。死後への指示を書いて残しておく。それは西洋式で遺書という体裁になります。西洋式とはいっても書くのは日本人で、本当は日本式に馴染む。死ぬ間際まで見極めがつかない。それどころか時間切れに終わってしまう。
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 後世の都合でカタがつく。恋愛も同じで、なかなかカタかつかない事情がある、まあそんなものです。恋愛に向いてる人は10人に1.2人もあるでしょうか? あなた自分でどう思っていますか。私hataに言わせると恋愛に向かない人が、見えを張って恋愛に挑んでいるように見えます。
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 お釈迦さんは絶食で悟りを開いたものの、死にかけます。通りがかりの女性が彼の命をすくいます。もう悟りを開いた釈迦としては死んでもよかったが、女性は自分の母乳で粥を作って食べさせる。それで生き返ります。意味深長ですが、そういう訳で死は性衝動とセットになってます。
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 キリスト教はそこを意識した宗教で、近代からはフロイトが無意識を問題にします。「こころ」が「舞姫」より優れる理由は、ここにあります。先生は生きてる奥さんより、死んだKに執着する。奥さんを置いて自殺するとは、そういう事です。Kと競ったのは、お嬢さんが大事ではなく、競うKが大事だった……ト先生は気が付いた。

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 この症状は統合失調症のせいか、同性愛のせいでの結論かは、私hataも分かりません。そういう事があったとして、一般にこういう結論になるとは今も思えない。そういう意味では「こころ」の結論は、いつも納得できない。一般には……
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 熊本日日新聞が熊本震災から一年後の作文を募集し、その選考結果を3作品ほどにまとめ発表しています。若い夫婦と赤ちゃん、その祖父母、あるいは友達の関係絆とのまとめ方です。端的にいって、私も地震では死に損ないました。死に損なって感じる生きる衝動は、性と思う。
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 先生と奥さんの間には子供がない。漱石と鏡子夫人の間はちがう。「こころ」では一人称で人物と読者は対になる。つまり漱石と読者は主観の語りでユーモアなしに進行します。それは当時の小説の極限と限界を見せます。
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 若い先生と死ぬ前の先生は同一人物にも関わらず、統一できなくなっている。先生とお嬢さんの関係は、先生と静とで食い違う。違いを微妙で小さいとみるか大きな隔たりと見るか……原因は性は本能であり無意識、意識は知識であり言葉で操作できる……その辺にありましょう。(続く)

2017年5月29日 (月)

こころ2

 もしオレが死んだら、誰が静の面倒を見るか? 書いてはないが、先生の疑問はそういう事ではないでしょうか。この疑問の後で私の父が死に、母の面倒を誰が見るのかトいう疑問に受け継がれます。

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 私hataに言わせれば、母を父から受け継ぎたいとの願望は、先生から奥さんを受け継ぎたいとの願望に変形しています。「坊ちゃん」を長編化した「三四郎」の続きとして「こころ」読むなら必然そうなります。

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 自殺願望のあった先生は、天皇に殉死した乃木希典に習って、時代に殉死する決意をします……先の昭和天皇が亡くなり、今の平成天皇が退位の意向を示されると、私にも殉死の意味が判るような気がします。

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 時代は大きく変わって行った明治の末が、判る気がします。熊本の街並みは震災によって変わります。熊本はむろん復興はするでしょうが、復興後の熊本は私が子供の頃から慣れ親しんだ熊本ではない。明確にくっきりと時代が変わり、むかしは終結しました。

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 若い時に大切には思わなかった昭和や平成の元号に、私の思いはまつわりついて行く。自分の生きた時代が終わったという、感傷というか感慨を禁じえません。壊されていくビルの中から、60年間一度も思う事がなかった記憶が、意味もなく立ち上ります。

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 私が最初に「こころ」を読んだのは20才前半でした。見知らぬ女性を見ると体のどこかスイッチが入るような性衝動を、こうも明快に理論づけた漱石はスゴいと思いました。だが当時の女性は、そう思わなかったようです。確かに性衝動は見かけただけでは入らない……場合もある。

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 漱石は無意識の行為を意識下のように書きます。誰でも異性の前に、同性と恋愛するか……違うでしょう。女性の衝動スイッチはもう少しゆっくりと入るもので、同性愛もいわゆる同性愛と「こころ」の描写とは違う。多分ここで漱石と寺田寅彦との関係がモデルになっています。

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 他にも同性愛くさい相手としては子規があり、中村是公があるが、どちらも漱石の年下ではない。参考にはなるが年下のモデルを置かないと、先生私の関係は書き辛いでしょう。木曜会関係の誰でもいいが、親友っぽい共感の深かったモデルを探すと寅彦が、一番くさい。

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 同性愛といっても三島さんと美輪さんといった関係かどうかは分からない。美輪さんは二人でダンスを踊ったという。漱石は子規に俳句を教わったが、ダンスを踊った記載はどこにもない。寅彦とも俳句での交流です。ここでの内容解釈はいわゆる親友と考えた方が無難です。

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 では恋愛とは? 先生がいう恋愛は罪とはどういう意味でしょう。(続く)

2017年5月26日 (金)

こころ 本

 私と先生に年齢差はあるが、隔たるほどの気持ちの差はない。「猫」のように先生は名無しで、私もまたそうなのです。「こころ」仕掛けに、大きな変化はないように見えます。
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 先生に外人の、英語に堪能なインテリの目印をつける。赤シャツで英国帰りの印をつけたように……漱石は前と同じ方法を使います。鎌倉の海水浴場の沖で、二人は同じように愉快になります。
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 私流に理屈をつければスイマーズ・ハイです。言ってしまえば私は先生と、それで心安い仲になる。それを丁寧に、悪く言えば回りくどく進行させます。私は友人に呼ばれ鎌倉に行く。友人は都合で帰り、無聊を囲った私は先生に目をつける。
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 この先生は統合失調症なのか同性愛なのか? 甘えるのが下手なだけか、友情を育むのに失敗したのか? どちらにしても先生の精神的な危機は、やがて私にも押し寄せそうに見える……私の友人は家族に呼び出され、私を置いて帰ったようにネ。
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 漱石は生まれるとすぐ養育費を付けて外に出され、長男次男が無くなると呼び戻されます。夏目家の正家族でなく猫のようなスペアとして……その辺の不条理感が話に滲み出します。家族が身障者になると、たとえば長男が身障者になると、家族は次男をだんだん長男扱いにしていく。
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 奥さんが亡くなると父は長女に奥さん役を振っていく。実質で次女が長女のように先に嫁に行き、長女は嫁に行かず後家のように、ずっと家を取り仕切り続ける。個人個人に平等な権利があるのでなく、家の都合が優先されると、ついそういう事も起きます。
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 漱石は身障者だったのか? そうではないが似たようなモノでした。ひとり後妻の子だったし、産まれた日も縁起が悪かった。写真に伝わるハンサムな顔は、あれは修正された写真で鼻に痘痕の痕があった。背も低く160cm「菫ほどの小さき人に生まれたし」の句を詠みます。
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 ややもすると自閉的になる。先生の奥さん、静は少し酒でもと提案してます。漱石は下戸でした。それでしるこが好き、ジャムが好き、ピーナッツが好き……食いすぎる傾向にあります。坊ちゃんでは蕎麦を食い過ぎるシーンを書いてます。食べた時だけハイになるんです。
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 「猫」とかユーモア小説だった頃はギャグを決める快感もあったが「こころ」では書く快感はどうか? 漱石は熊本では散歩をしています。熊本市内から小浜まで歩くのだから散歩の域を超えてる。若い頃はランナーズ・ハイ、歩く快感でバランスを取ったと思われます。
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 だが歩かないで食べるだけ食べれば、どうなるか? 熊本震災後、日に2度、炊き出しが出て2カ月以上、人によって違いますがじわじわ太る事になります。私もプールや筋トレは出来なくなって、食べるだけ食べました。
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 東京での漱石はバイオリンの練習とか絵ハガキを描いたりはしますが……ランナーズ・ハイまでも歩くことは、もう出来ない。そういう意味で漱石は大患後、急激に老いたと思われる。そうでなくとも健康を損ない死を意識すると、本書のように楽しい場面は少なくなる。続く。

2017年5月24日 (水)

漱石後期三部作

Kokoro

 漱石の小説では二人の男が出てくる。二人の女性も出てくる。だが、この二人は元々、ひとりの男でありひとりの女性です。
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 「坊ちゃん」に出て来る坊ちゃんと赤シャツは、もともとは同一人物と私は証明しました。坊ちゃんに出て来る清は、もしかしてマドンナと同一人物かもしれません。
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 「三四郎」に出て来る里見美祢子は、三四郎が風邪をひくと、野々宮よし子を差し向けます。よし子は手ぶらではない。見舞いのみかんを剥いて三四郎に食べさせます。
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 「三四郎」の序章とも言うべき、初めの方に、汽車で相乗りになった女に三四郎は手が出せない。小説の終わり方に漱石は手を出す必要がないベッドシーンを書いた訳です。そう読まなくては面白くないでしょう。
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 三四郎に影響された森鴎外は、似たような青春小説を書き、発禁処分を食らいます。そういう時代でした。漱石は「修善寺の大患」で死の淵をさまよう。その小説に変化はあったか?
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 釈迦は断食して死の淵を覗きます。そして悟りを開く。悟りというと何だか広過ぎて分かりませんが、気が付くという事です。悟るとは生きる上での気付きです。私も11才で病死寸前までになります。
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 幸い死にませんが、何かいう権利くらいあるでしょう。それで漱石文学からユーモアが姿を消します。ぎりぎりの書きたい書いて置かなければ、いつまたあの世に招集されるか? 漱石はそういう思いに至ります。
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 もはや蚤よけのまじないとか、みかんを食べてベッドシーンの代わりとかバカバカしくて出来なくなる。さりとて危ないことを書けば発禁処分の現実が見えます。それで書かれたのが彼岸過迄、行人、こころの後期三部作です。
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 中でも「こころ」は自分でも気に入ったようで、単行本化について漱石は装丁まで自分でやります。命がけの漱石は何を書き、何を伝えようとしたか……気になるところですが、今パソコンでは「こころ」は買わなくてもよく、青空文庫で読めます。
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 また老眼が進んだ方にyoutubeには朗読版があります。いやもっと善玉悪玉に分けてもらわなくては分からない、そういう若い方に向けてアニメ化もあります。youtubeで下記「青い文学」で検索して下さい。
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Aoi Bungaku Capítulo 8 - Kokoro 前後編

2017年3月25日 (土)

トクホの嘘

Tokuho

 週刊新潮3月30日号の記事が「トクホの大嘘」を出した。何十億何百億個の生きている乳酸菌よりも「腸内で増える菌の方が……」と画像の言も取っている。(情報源、秋津壽男院長)

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 最初から多数の菌が生きている、増える必要はない飲料やサプリはある。だがそれで生きてる菌と言えるか? 私は怪しむ。菌は増えるのが生きる証で、増えないのは死を意味する……しないか?

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 私はヨーグルティアの利用者で増やして飲む派で、増やさないでは気持ちの収まりが悪い。半額処分のヨーグルトをさらに4分割して冷凍保存、さらに増やす。見られたようなコメントに畏れ入る。

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 秋津院長はどんな医師か? ヨーグルトのバーゲン、半額処置をご存じなら、あまり気取られた、世間知らずの医師ではないのだろう。世界は広がるようで狭い。意外に医者はパソコンが不得意だったりする。

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 スーパーや100均を知らなかったりする。トクホという法制度と、病院保険所といった行政側と、商店消費といった3者がかみ合っていない。法と会社の2局間テキトーななれ合い……かなりの嘘のつきあいが行われる。嘘つきは、ひとりだけではない。

2017年2月27日 (月)

信仰 DIY4

Tinmoku

 失礼ながら遠藤周作さんは圧倒的な秀才という訳ではない。医学部をめざしたが通れずに文学部に行った方です。その「沈黙」が再映画化でまた話題になっている。
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 ポルトガルの宣教師ロドリゴは師フェレイラを追いかけるように九州にくるが、日本は宣教どころの状況ではなかった。長崎奉行井上越後守は日本を守るため、信者、宣教師共々の信仰を捨てさせようとしていた。
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 ロドリゴはフェレイラの消息を知る。師の棄教とは? 棄教か殉教か? インテリと無知、信念と退廃の間に形而上学の意味と価値を問う。遠藤文学は信仰とは何をどうする事かト問う。
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 遠藤としては医学部に価値があり文学部にはない。そのような問いかけではないか。(安倍公房氏にも似た問題が)沈黙は一時、カトリックでは禁書とされ、関係筋では読まれなかった。それでか、遠藤はアカデミー文学候補となる。むろん今は違う。
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 私はアスペルガーのケがあって、成績の一部優秀、大半劣悪だった。また健常児から障害児になった体験もあり、その辺のイメージは似ているというか重なり……興味津々。むろん同じではない。
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 遠藤はロドリゴをキチジローを予め違う存在として描く。ロドリゴが転んでキチジローになるとは考えてない。健常者が障害者になる、あるいは障害者が健常者に回帰する。そんな事はないのだろうか?
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 ある部分で「ジキルとハイド」よろしくつながってないか? 私はやがて健常者にもどるのは無理と考えるようになる。実際にそうなる事は少ないが、誰もが障害者になる。可能性を含む、ただ高齢の場合はそう言わない。
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 多くの中途障害者は外身と中身をすっきり分けて考える。私はそうはいかない。障害者や弱者の立場だから気づき、思考や行動に反映する部分があるからです。外と中は混然とする。
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 熊本に地震があった。古い建物は倒れ、倒れないまでも壊れかけた。すると簡単に地震前には戻れない。戻ったとしても微細な部分では違う。様相は変わり、厳密には地震前の熊本ではない。
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 気が付くと熊本は身障者になっていた。そうでなければ熊本は老いていた。私が子供の頃から見慣れた熊本は何処にもなかった。数年いや数十年があっという間に流れ去ったように変貌していた。
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 転び変節した人は死ぬ訳ではない。変節してはいけないト言っても、そうせざる得ない時もある。変節と転びは違うかも知れないが、転びと障害も違うかもしれないが……
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 篠田正浩版「沈黙」は現在入手困難だが、youtubeには出ている。

2017年2月 4日 (土)

信仰DIY

Snep

 神は存在するか? そんな難しいことは分からない。私は子供の頃に障害者になった。障害児になった時、もう少し違う運命に変わりたいと思ったが、これについては変わらなかった。

 

 サンタクロースは、クリスマスに私の靴下におもちゃを入れ忘れ、次の年もその次の年にも忘れた。つまり幸運な子供にしかサンタはやって来ない。サンタは確かに存在するか? 詳しいことは知らない。

 

 信じる人の前で無神論を述べるほど、私は野暮ではない。幸福な人より不幸な人に、少し余計に親切でいたい。不幸が外側から見て分ればの話ですが……無作法は好きではない

 

 ちょっとした流儀にすぎない、それを偽善という人もある。確かに自己満足かもしれない。決まりとかつじつまとか、人にどうこうは言われたくない。つまり私の勝手です。

 

 メーテルリンクの青い鳥を文庫本で読んだ時に「一番ふこうな者になっているわ。そうすれば探すでしょう?」と女性が男にいう。男女は前世の恋人です。次の世に行っても別れ別れになりたくない。

 

 青い鳥は童話のように思われますが、大人が読んでも解らない例えが一杯ある。幸福と不幸について難解な問答も含まれます。ただ、この部分はキリスト教の夫婦が基本なのでしょう。

 

 不幸な印、意味深長なセリフですが大筋とのつながりはない。障害部位は上肢より下肢が目立ち、目より耳が軽い。平等という事もなく納得も出来づらく、互いに話合っても理解はいきません。

 

 仏教では出家といって家庭を捨てます。奥さん子供、両親のいる家を捨て修行する。釈迦は悟りを開きます。修行とは何か、いろいろの意味はありますが死に近づく。

 

 家庭は楽でしょ、そうではなく辛い思いを好んでする。釈迦は断食をやっている時に悟りが開けた。そういう風に言われます……別に釈迦に重ねる気はないのですが、私の一番長い入院は2年半になります。

 

 その間は家庭を離れました。基本的に一人です。股関節を切り刻んだりギブスに入ったり、考えようによっては死に近くなる。辛いので患者間では私に信仰を勧める人もあります。

 

 信仰、教えとは釈迦やキリストに聞いた事です。つまり本を読み呪文を唱える。そんなまだるい事をしないでも、似たような体験をするんだから、同じとはいかないまでも何分の一かでよい。直に悟れないものか。

 

ふとどきな考えかもしれません。つまり「 D.I.Y.」Do It Yourself(ドゥ イット ユアセルフ)で、「自身でやる」の意味。「DIY」の宗教版ですね。そう私などは思いました。この項、続く。

2017年1月17日 (火)

そこのみにて光輝く 映画

Sokono

 映画「そこのみにて光輝く」を見ます。書かなかったが、今、映画はyoutubeや近隣国のネットに行けば無料で見られるのも……まあ物によりですが……こんなにいい映画とつゆ知らず。
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 不良画質で見てしまったト後悔してます。これはDVDで見たかった。芥川候補の純文学を原作として、アート系の映画で、1970年前後に在りがちな陰鬱な雰囲気がいい。
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 今、現実はあの時代にまた似て来た。ズルいヤツは小賢しく、弱いヤツからくすねる。小賢しい奴には上がいて、そのまた上もいる。おぞましく吐気のする連鎖は……どこまでも続く。あの時代と今が似てきた訳でなく、これは変わらなかったか?
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 池脇千鶴さんは、壮絶な汚れ役に挑み、この仕上がりに敬意を表します。考えてみれば宮崎あおいさんなら何とかなるが、池脇さんの活躍できる場所は、ほぼ閉ざされた。
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 TVドラマはむろん、映画さえこういう作品は、ほぼ作れない状況です。この手の話で前回、見たのはDVDで「共喰い」でした。大島渚風のタッチはヒヤッと心に凍みました。
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 どこか違う場所で生き直せば、少し違う生き方も開ける気がしました。小さな町で小さな利権に群がるより……思いました。でも大きな町では大きな利権を争ってネ。まあ、よくある話です。
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 何のことはない利権の取り合い絞り合い。「そこのみ」の原作は佐藤泰志さんで、この方は自殺されまして再評価の流れから、ここに映画化された。佐藤さんは3度か芥川賞候補になって、結局取れなかった。
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 42才で自殺、妻子があるのになぜ? 今さら理由は確定できないが芥川賞もあるのではないか……トいわれてます。ただ私は取ったら道が開けたとは思いません。暗いもん、自分で切り開かないと開けません。
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 原作は少し構造が入り組んでいるのか? もう少しで長谷川伸の時代劇みたいな話になる。洋画のたとえば「ドライブ」とか「ナイトクローラー」とか「マネーモンスター」とか、娯楽化も出来るのに……
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「共喰い」もそうだが大人になれない。それで現実から卒業できない。一種の子供である自分が可愛い。そういう人たちに、もう飽きたいうか。選考委員も、それで話芸の人に上げたりしてますネ。
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 同情で賞を上げても駄目な人はダメ、前例がいっぱいあって、そういう判断が含まれる。気がしますねえ。そういう私もDVD借りてきて、これもう一回見るか? ううん、微妙です。
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 芥川、直木賞を辞退した作家には高木卓、山本周五郎がそれぞれある。以来同賞については貰う意志を聞いてから上げることになったそうな……上げるにいらない。上げないのに欲しい。どちらも人騒がせではあります。

2017年1月11日 (水)

登山ばなし

Ebe

 ビギナーとベテランの違いはあるか、分ける線はどこか? 高齢登山も勿論かかわります。登山にいうクライマーズ・ハイはサスペンス小説の題にもなりました。
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 ランナーズ・ハイ、スイマーズ・ハイときてのクライマーズ・ハイのハイは他のハイと同じものか……ここに決定証拠はない。小説の中では悠木記者が「クライマーズ・ハイは本当にあるのか」と末次に聞きます。
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 あると答える。末次は登山によって障害を負い、登山をリタイヤしたベテランです。ベテランあるいはプロと言う言い方で、その道の判断力を誇る人は存在するものです。
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 ベテランは危うい状況に判断を下せるが、ビギナーあるいはアマでは判断できない。私が今書いたいこの一文、ワンセンテンスを、ほとんどの人は疑いなく賛成される。そうだろうト思われます。
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 ビギナーは山頂を目前に興奮し、吹雪く現状に続行の決意をする。よくある状況です。それを止め下山の判断をするベテラン……やはりベテランは偉い……何事もベテランのいう事が正しい。
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 思いがちです。これが違うのではないか? エベレストという映画を観ます。世界最高峰エベレストに登ろうとする人には、さすがにビギナーはいない。登山料金もかさみ、ひと財産と言われる。
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 これに具体的な数値は示されないが、山になぜ登ろうとするか。古典的な命題も論議になります。これにも変わった答えが出る。エベレストに登れば一生自慢になるトいうのです。
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 エベレストに登って帰ってくれば何も残らない。支払いのクレジットが残る……いや、その事実は見えない宝石とも、名刺にも書けない肩書とも、そして何より死ぬまでの自信になる。
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 いえ私はエベレストにも富士にも登りませんが、ここの気持ちは少し分かります。水泳で今2000弱、去年は3000泳ぎました。スピード遅いのでスポーツじゃない、リハビリです。
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 そう申し上げるが驚かれます。「何というにしろケタが違う」いえ私は毎回100m増やしただけで、特別な訓練と思っていない。体付きも普通と違うのでそういう話になりがち。
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 脱線しました。つまりエベレストは地位と名誉を誇示する、その代わりの履歴書になる。となると、つまんないコトするよりエベレストを目指した方がいい訳です。賢い判断でしょ……少なくとも映画の中では。
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 その賢い人たちが何をするか? それが映画の見所になる。登山家たちはベテランですが、自前では行けない。みんなで案内人を雇う。いえ逆で、案内人が登山家を集め案内する。
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 早い話、観光ツアーでして99%の安全で請け負う。じゃあ後の1%のリスクはどうするか? たとえば前年に目の手術をしたのを言わなかった。そういう人いるんです。途中で目の具合が……
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 別な人で「俺もいい歳だ。登山も最後になるだろう」そういう人もいるんです。そうすると案内人のいうことは聞かない。金を払っているのは自分との考えがあるんです。
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 そうすると、ビギナーとベテランの違いはあるか、分ける線はどこか? 怪しくなってきます。むしろ訳知りなだけに始末に悪い。「もう10mだろ。登らせてくれ」
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 クライマーズ・ハイというのは高揚感というか興奮で判断ができなくなる事をいう。俺はベテランだから、本人だけが冷静のつもり、誰が見ても冷静でない。
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 興奮は脳内に生じるエンドルフィンの働きであって、経験の数や、修養を積んだ積まないの違いではない。医学というか科学というか分かっている。ベテランだからこそ陥る穴もありうる事になります。