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2018年8月 1日 (水)

オウム真理教事件と「虹の階梯」

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 オウム真理教事件が話題になります。あの事件は何だったのか、よく判らないまま主要幹部は死刑にされた。麻原彰晃、松本智津夫が教祖になって、信者を出家させサティアンに受け入れた。仏教まがいの形は何だったのか?
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 1981年7月の出版、中沢新一著「虹の階梯」階梯とははしごの意味。著作は ラマ・ケツン・サンポ・リンポチェさんとの共著ということになっています。ラマというのはラマ教のラマで指導者、ほとんど中澤さんの著作に見える。
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チベットでの仏教の洗礼法に取材した。つまり取材先という方が正しいのではないか? ラマさんいうのはダライラマのラマと同じ意味ではないか? 麻原を尊師と読んだ言い方を連想させる。むろんラマさんを麻原と一緒いう意味ではない、
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 これによると修行は個人によらず教祖と弟子の関係性で行われる。本の表紙は二人が絡み合った図になります。よくよく見ないと分からない絵ですが服を着たまま抱き合った教祖と弟子、それはセックスに見えないこともない。信者が受け取るのは、悟り言うよりも神秘体験です。
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 日本ではお寺で、私たち信者は坊さんから一方的に教えてもらう。学校の教師と生徒に近い。それが二人三脚と言いますか、共同作業で境地を切り開くというのは、聞き始めです。この「虹の階梯」がオウムの始まり、ネタ本だったと言われます。
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 入信、出家の目的は悟りでなく、よくいえば教祖に体験を授けてもらう。取引要素が大きい、オウムでは体験を買う訳です。体験はひょっとするとセックスかもしれない。いかがわしい感じが私はします。障害者の私は、奇跡は信じません。むろん神秘体験も疑わしい。
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 持ち金を全部教祖に委ね、つまりお寺に寄付する。そして神秘体験を得たい。その気持ちは分からないではない。私は身障児になり元の健常児には戻らない。医師に言われました。この決定的体験は受け入れがたく、神に見放された感覚がある。どうしてもある。
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 人によっては自分ともあろうものが病気をしたとは受け入れがたい。不条理いう気持ちがあります。おそらく麻原もそういう気持ちだった。見えなくなっていく、そして父に盲学校に入れられる。それが納得できなかった。不条理といいますが、やがては不条理を感じる人の心にも付け込んだ。
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もっと軽い事例で、たとえば失恋します。20代で失恋をして痛手が固まります。(実例はシュルツの漫画チャーリーブラウン)また例えば地震があって混乱が受け入れられない。そういう方もあります。神秘体験をすれば、こんな不運な自分、不条理からも別れられる気がする。
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 父母に思うように愛されなかった麻原は、教団を通して父母への憎悪を増幅させた。不条理から自分だけ立ち直りたい、そういう人はいるもんです。私はその辺にオウムのリアリティを感じます。信者の内面に受け入れがたい現実、バブリーな日本いうか、そういう歪みもあるでしょう。
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トラウマになってしまう感覚、神に見放される感覚は違うが……いろんなことにあって自分の財産を叩いても、したい事とは何なのか? オウムの場合を研究されてよかった。少なくとも普通の仏教に入信したい人と。オウムに入信したい人とは違うようです。虹の階梯をざっと読むとそのような感じがします。

2018年5月13日 (日)

買物かご

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 本日も音声入力です。エアバッグのリコールに行きました。代車は出ましたがプールは昨日行ったので今日は行きません。どこへ行こうかと迷って本屋を梯子しました。新本には関心がうすく気になった本もない。
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 ドン・キホーテに寄ってコーヒーを買う。ワンダ「極」ブラックは400gが70円弱で出てます。つまみと言ってはなんですがリョーユーパンキャラメルトーストが同じく 70円強で出てます。これらをつまみ飲み、ゆるゆる BOOKOFF をはしごをするわけです。
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 一軒目のブックオフに行きます。 曽野綾子さんの本が出ておりました。書き出しを読むと、道徳いうか哲学いうか。キリスト教の影響か……法律や決まりではない。守られない物があるという主張です。
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 自分で守りたい意味ではない。他人に守って欲しい決りで、どちらかいうと昔の人は主張が小さく弱かった、今の人は書いたような道徳的な決まりを無視するいうか……それで分別です。「分」とも言われる。
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 私はこれを人権と思いました。南アフリカに何度も行かれ見聞されていますが、アパルトへルト、白人と黒人の分離政策を支持されてます。豊かな人と貧しい人が別れて住むことで平穏とされる。穏やかな平和に問題がなくなるト……ここで読み止めます。
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 曽野綾子さんは日本会議の議長をされる。安倍首相の考え方には日本会議の影響がいわれる。健常者と障害者も分けて障害者は障害者の分を守る……そう考えるべき主張されてると思う。一般にも身分の高い人と身分の低い人があって、お互いが分を守ることで丸く収まるト……どうでしょうか?
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 ブックオフの横にハードオフがあります。ついで行きました。見えたのはブルーレイプレイヤーのリモコンなしのジャンク。私はブルーレイプレイヤーは持っておりませんで、いくら位か見ました。3000円ですね消費税240円プラスされて3240円。
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 行きつけのレンタル DVD 屋にもブルーレイがあります。少しだけDVDにないものもある。ブルーレイにはボーナス画像と言うか特別音声がついてるのもある。DVDにない特典があるのもあるわけです。そろそろ買い時か?
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 遅いよ。新品はデジタル出力で使えない。それ買いきました。12年の製造とあり6年前の製造で Made in Chinaともあります。私は学習リモコンを持っており、ブルーレイもこれを使って操作しようと思います。さて上手くいくかな。
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 価格の横に書いてある断り「BL写りました」の保証するかと聞きます。
「今日中の返品なら受け付ける。明日とかあさっては駄目」ということを言います WD プレイヤーを持って部屋に帰り、手持ち一枚切りのブルーレイを写し、間違いない事を確認して、別のBOOKOFFに出かけます。
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 桐野夏生さんの「ポリティコン」という小説を買いました上下巻に分かれており上が108円、下が200円とありました。上だけ買う。「ユートピアに生まれて高浪東一あまりに身勝手な生命力」が本がコピーです
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 桐野さんの小説は読んでおり、ただとんでもない始まで面白いが中途半端に終わる事も多い。問題提起で広げるだけ広げて、たたまない傾向がある。用心しなければいけません。上を読んでみて上巻のみで終る可能性も……
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 ああ、曽野さんは買いません。音声入力はダラダラする傾向にある。こういう山もなければ谷もないような話には向いてるかも……まあ読む方は面白くないと思いますのでここら辺で……またです。

2018年1月 7日 (日)

沈黙、棄教ということ

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 どの本をどう読むか、それは読者の勝手であり、作者や出版元にも何も言われる筋合いではない。だがそうは言っても双方向の時代、作者のつもりも読者の気持ちも、互いを述べ合うのも、また一興です。
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 去年見た新作の方の映画「沈黙」の棄教と、旧作の篠田版「沈黙」での棄教の違いに感慨がありました。原作の遠藤周作さんは、日本人的な思いと宗教的な思いとに、軽い矛盾があります。
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 日本人的部分には神道の影響もあろうが、まあ仏教的と言い換えられる。沈黙は神父の棄教を問題視し、それは一般信者のものと同一ではないが……キリスト教を信じない日本人には、むしろ考え易い入口になる。
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 実際の長崎奉行も、会った事はありませんが、神父に直接拷問は加えず、信徒の拷問を見せるだけにしたらしい。心だけの苦しみを与えたらしい。このテーマで芥川龍之介は「おぎん」を書いてます。作としてこの「おぎん」は必ずしも有名ではなく、私も知らなかった。
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 芥川は若い頃に読んだ。漱石を知ってからは読まなくなった。ある程度、年を取るとと芥川は読めなくなる。芥川は切り口鮮やか、感覚こそ鋭いが、漱石のように深い味わいといった物に欠け、体験を積むと物足りなくなる。
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 転び伴天連も有名なのは柴田錬三郎の眠狂四郎シリーズへの取り込みかもしれない。篠田版、映画への脚色にも遠藤本人が参加し、原作にない転び伴天連の妻帯を書き込んでいる。この影響は芥川でなく柴田ではト、私は思っています。映画はネタバレになるのもかまわずポスターにまで出している。
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 それでキリスト教的設定では、日本人でそのころ信者にならなかった人は(あるいは今もそうか?)全員、地獄に落ちる事になり、それでおぎんの実の両親は地獄にいる。必ずしも転ぶ必要のないおぎんは、育ての両親と分かれてまで、単独、地獄に落ちようとする。おぎんを追い、育ての両親もまた転んでしまう。
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 おぎんという作品は、そういった宗教的な貫徹と人情の矛盾から、芥川的な孤独を書く小説になります。遠藤はともかく芥川には、宗教的な矛盾を強調するつもりはなく、なぜなら芥川はおぎんの前にも「杜子春」でも似たような光景を書きます。つまり類型なの行為です。
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 芥川本人も養子で、実は親子の愛を信じていなかった。それで必ずしも必要ないのに何度も同じような養子話が出てきます。ただ遠藤も養子は養子で、育ての親からキリスト教の洗礼を受けさせられている。
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 一方、私たち日本人は大半、キリスト教教徒ではない。韓国あたりだとキリスト教信者の割合がもう少し多く、国民25%くらいとされます。日本では10%くらいですか? まあそれでも結婚式とクリスマスとハロウィンとで大半が臨時の信者にはなるから、それで良かろう。
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 別に悪いとは私は言っていません。生みの親は神道か仏教であり、育ての親はキリスト教と、遠藤や芥川や柴田は指摘しました、心情的な矛盾というか。心の奥に抱えた2枚舌の部分は消せない物として、私たちにのし掛かったと思われます。年末、お宅のお子さんは、どこかクリスマス会に行かれましたか?
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 また、あなたは家族へプレゼントを何か買われましたか? 「ウチはキリスト教じゃないからサンタクロースは来ない」とか子供には教えられましたか。結婚も教会式ではしない。不倫はしないつもりだけどワザワザ誓いは立てない……トそうなのですか?
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 だから新旧映画も、本の沈黙も何の関係もない言われますか? あなたは棄教した自覚はありますか。神道あるいは教育勅語、または仏教あるいはキリスト教を捨てて転んだ記憶はありますか? ないとすればなぜ、ないのですか?

●棄教=背教、改宗、信じていた宗教から他の宗教に転ずること,あるいは非宗教的立場に移行すること。〈棄教〉ともいい,いずれも放棄された宗教の側からの非難をこめた表現として用いられることが多い。

●6歳少年がサンタに出した冷めた手紙[12月4日 ロイター]
米バージニア州に住む6歳の男の子が、学校で書かされたサンタクロースへの手紙に「あなたは僕の悩みを知らない」などと書いた文面が3日、母親を通じてツイッターに投稿され、ネット上で話題を呼んでいる。
 小学1年生の男の子の手紙は「サンタ様」で始まり、「僕は授業のためにこれを書いているだけ。あなたのいたずらっ子リストは空っぽ。あなたのいい子リストは空っぽ。あなたの人生は空っぽ。あなたは、いままでの僕の悩みを知らない。さようなら」と書かれており、4日までに、ツイッター上で最も人気がある話題とされる「モーメント」に挙げられた。
 手紙は「love」で結ばれているが、「自分の名前は書かない」とあり、男の子は名乗ることを拒否している。

2017年10月12日 (木)

マインドフルネスの至福

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 一番、簡単なのは座右の銘、モットーというのもあります。具体的にありがちなのは和ですね。哲学的な支柱として「和をもって貴しとなす」……憲法という説もある。本当にそう思うのか? どうしていいか分からない時の原則なのだが……
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 実は処世術というとがっかりされる。処世術は相手が仲間内の場合はそれで通用するが、外部の人が多く交じると難しくなる。まあまあ、今日のところは……というと場の空気でまとめ、採決はしないで決める。
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 エイリアンが一人で徹底抗戦、白黒をつける論議にもって行くと、多数派になる場合もある。エイリアンは弱者のひとり狙って、口で攻撃する。多数の者も口撃の巧みに恐れかなわないト、一人ずつエイリアンの手下になる。
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 つまり多数派も最初から多数ではなく、理由があって多数派が形成される。理由は合理的、正しいとは限らない。最初は正しかったが、時間に古び劣化したかもしれない。その時々の合理性や正しさを見つける。普通凡庸ではできず時間もかかる。
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 そして多数派は形成され類型を学び、やがて保守性を身に着けていく。和をもって貴しとなすとは争ってはならない、いう意味です。争いは時間のムダ、労力のムダ、心労のムダ……確かに間違いではないのだが。
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 同じ頃に中国から入れたの知恵に孔子孟子の思想がある。老荘の扱いはやがて軽くなり次第にぞんざいになった。思想には盲点がある盲点を突かれると弱い。孔孟は書いたように対人間の教え、社交術であって一番、基本的な思想ではない。
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「然」は自然の然です。則天去私は漱石の愛した座右の銘だが、社交ではなく根本的な自然な生き方、然はないだろうか? そういう意味になる。漱石は英語の前に漢語を学んでいたが、漢語には孔孟に混じって老荘があった……らしい。
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 いわゆる日本的なモノとは多分に中国的なモノでもあります。セカセカしないでゆったりと構える……と言います。座禅とか散歩とか寺院参りとかは、スタイルやファッションと違う、もう少し現実的な意味があるのでは?
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 話は結局、ジジイ臭くなって来た。これだから年寄りはダメ……ダメとは言うな。ニューヨーカーが「マインドフルネス」を特集して入門講座での効果を報告している。事前と事後を測定するに。ホルモンの分泌がよくなり脳内に変化が生じた。
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 ゾーイ・シュランガー記者による「マインドフルネスの至福」は信ずべきか信じざるべきか。それにしても効く哲学があり、効かない座右の銘がある。何となく脳科学者の中野信子さんが言いそうな内容です。 

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2017年10月10日 (火)

カズオVS春樹

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 村上春樹はダメで、なぜカズオ・イシグロがOKになったか? 今年のアカデミー文学賞の選考理由は、すんなり理解できました? 去年度に村上の受賞はない。そう断言した私としては首を縮めました。
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 ざっくり言うと「ノルウェイの森」になくて「私を離さないで」にあるモノ? 2作を比べ見て、ひとつ謎を解いてみましょう……いい加減過ぎかな、いや話題をゲーム化して文学で遊びましょう。
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 文学とはいうけれど2作はどちらも純文学ではなく、内容が軽い言うか、若向き、誰でもチャレンジできます。恋愛が題材であって、人生の長帳場についての言及は薄い。それもこの際は長所と取りましょう。
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 新刊ではないのでブックオフなら、両作そろえても千円で買えます。DVD化もされているので200円あればレンタルも可、本を読み慣れない人でも参加も出来ます……私も再読はせず映画です。
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 話の方向をあらかじめ絞りますと、表立っては書かれませんが、潜在的には宗教の違いが根底にあります。つまり仏教とキリスト教による解釈の違い。キリスト教は奇跡に祈る宗教で、仏教は悟りを開く。マインドフルネスとか、悟りに注目が来てます。
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 「森」の直子は20になり、2人だけのバースデイです。ワタナベに向かって印象的な事をいう。成人までの時間に猶予があればいいのに、19才からもう一度18才にもどり……ゆっくり20才になれたら生きる事が苦しくないのに……生きるのが苦しいと感じますか?
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 ここは「離」の臓器提供の猶予制度と似ている。「離」に出て来る主人公たちは臓器提供のために生かされ、およそ20才から30才までに死ぬ運命……ただ仲間うちで本当のカップルになれたら提供は3~4年、猶予されるらしい……そういう設定です。
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 生きるのが苦痛な直子は精神病を発症し、自主的にサナトリウムに入ってしまう。大人になると責任が伴い、それで自殺や精神病を発症しやすくなる。私にも統合失調から自殺に至った友人があります。それは判るが精神病にサナトリウム療法はない。ウツ病にも統合にも、そんな治療は存在しません。
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 ここは提供と同じフィクションです。結核のサナトリウム療法は「風立ちぬ」でも描かれ、まあ、あんな感じです。私は結核ではないが、20才までの3年ほどをサナトリウムで送りました。直子が望むような、一種、ゆるい場所で……村上さんの意図が、ある意味ではよく分かる。
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「離」のヘールシャム学校やコテージや一種のサナトリウムと読めます。では社会がルールを甘くしてあげれば、直子は無事に大人になれたか? 「森」では奇跡は起きない。ワタナベを置いて直子は自殺してしまう。「離」では猶予のルールが、不確かなまま噂で伝わり実際は……青春にサナトリウムは効くか?
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猶予されれば主人公たちは深く生きられ、提供するから浅い生になるのか? 一人になった主人公も、自分の提供日をむかえ「提供を受ける人も提供する自分も同じこと」ト悟ります。奇跡を求め奔走するのがキリスト教的で、仏教では終りを見届け、その意味に気がつく。
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 ワタナベにとっては青春全体がサナトリムで、もっと言えば3人の女性とのセックス自体がサナトリウム効果をもたらし、こういう形であれば不倫にならない。あるいは罪が軽い……つまり仏教的です。でもセックスは結婚の形を取らなければ許されないのでは……そうみればキリスト教に縛られる。
 それはともかくこう見てくると両作は似ている。偶然似たのはなく、イシグロさんが村上を読んでいたから……そう考える方が自然でしょう。「ノルウェイの森」に影響されて、宗教の違いをより意識して「私を離さないで」は書かれた。
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 提供するとされるが同じか……むろん議論は分かれます。人という字は支え合う二人という解釈はよく言われる。ホントは支える人と支えてもらう人が一緒にある。キリスト教も宗教、仏教も宗教、こういった適当な話をして経済活動にする……幸福のために不倫を許しあう愛だってアリなのでは?
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 長命化とか超能力とかタイムスリップとか、簡単にいうとあれ全部、奇跡です。奇跡が起きれば人は必ず幸福になれるか。キリスト教的な価値が大きくなり過ぎて……仏教的に緩和が図られた。マインドフルネスの流行や、ノーベル文学賞選考にも入り込んだ……それが私の読みになります。

2017年10月 8日 (日)

倫敦塔~ジェーン・グレイの処刑

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 ロンドン塔は古い城塞だったが、政治犯を幽閉する監獄、処刑場として使われた。禍々しくも今なお幽霊が出る。つまり熊本城とは違う。漱石がロンドンに行ったのは1900年、明治でいうと33年、33才のこと子供も生まれた後のことです。
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 漱石が亡くなるのは49才、言うまでもなく今の一生から考えると、ずいぶん短い。「倫敦塔」を書いたのは直後ではなく5年後、38才、東大講師時代に書かれます。「倫敦塔」が先で同じ頃に「猫」を連載、あいだには「坊ちゃん」も書きます。
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 それで気になるのは漱石が倫敦塔に行った。そこでこの絵「レディ・ジェーン・グレイの処刑」を見たという内容を……文章にした動機です。同じ頃に書いたのなら猫も同じ動機と思われますが……5年後に何でこんな話を書いたんでしょうか?
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 懐かしい思い出、楽しい思い出いうなら分かりますが、こりゃあハーンか、泉鏡花です。 鏡花はあれが趣味ですが、漱石は違う。絵を思い出し取り上げた動機がある。そう話を立てましょう。絵の説明いうか、漱石が文章で再現を試みた所を下に引用します。(青空文庫からの引用、よみがなが混じる)

「猫」とは違う文体で、どこを違えて分けたのか……ただジェーン・グレイのように禍々しく写されているのは、ある意味で猫も同じです。誰にも受け入れられなければ死、「猫」は冒頭で書生に食われると読者にうったえています。
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「倫敦塔」では塔に入る前に子連れのジェーン・グレイに似た女性を見かけたという。親子は鴉の話をしていた。本当だか幻影だか作ったのだか、それは知りませんがね。そういう意味では似ている。いえ漱石は間を置かず、2つの作品でほぼ同じことをアピールしてます。
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 「倫敦塔」は当時としては常識的な漢文書き下し体というか、この3年後「草枕」でも使われる。猫の方を発展させた文体は「坊ちゃん」で、猫の文体は落語です。漱石は小さんの落語が好きで原稿用紙の上で、小さんのマネをした。
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 だからユーモラスなんです。倫敦塔のような漢文体で何本も書いていたら、自分の息が詰まる。東京大学講師で食えるようには成ったものの、学生の評判は悪く教授たちへの評判も悪く、漱石は陰鬱でした。教授になれない講師で終わる可能性があった。
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 漱石の持病は今で言う、躁鬱か統合失調かは知りません。予定より早くに帰国した。後の修善寺の大患とか「行人」執筆中の行き詰まりとか、精神病を抱えていて……実は漱石は発病発作寸前だったト、私は思います。そうでもなければこんな陰鬱な文章は書きません。
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 むろん評判になったのは猫で、しかし評価が高かったのは草枕です。草枕を見て朝日新聞は雇いに来ます。だから東大を辞める、辞められたのです。用心して編集長ではなく社長と約束を交わす……それは先のこと漱石自身は、文明開化落語体とも言うべき文体で、自分の鬱を笑い飛ばしたかった。
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 新聞一作目に「草枕」のようなと注文があったかも知れません。そして「虞美人草」は漢文調です。何しろいまだに「草枕」を褒める人があります。坊ちゃんはダメだ、言う人がダメと私は思う。猫や坊ちゃんで開発された文体は「三四郎」に統合されて行きます。
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〇倫敦塔より 「 女は白き手巾ハンケチで目隠しをして両の手で首を載のせる台を探すような風情ふぜいに見える。首を載せる台は日本の薪割台まきわりだいぐらいの大きさで前に鉄の環かんが着いている。台の前部ぜんぶに藁わらが散らしてあるのは流れる血を防ぐ要慎ようじんと見えた。背後の壁にもたれて二三人の女が泣き崩くずれている、侍女ででもあろうか。白い毛裏を折り返した法衣ほうえを裾長く引く坊さんが、うつ向いて女の手を台の方角へ導いてやる。女は雪のごとく白い服を着けて、肩にあまる金色こんじきの髪を時々雲のように揺ゆらす。ふとその顔を見ると驚いた。眼こそ見えね、眉まゆの形、細き面おもて、なよやかなる頸くびの辺あたりに至いたるまで、先刻さっき見た女そのままである。思わず馳かけ寄ろうとしたが足が縮ちぢんで一歩も前へ出る事が出来ぬ。女はようやく首斬り台を探さぐり当てて両の手をかける。唇がむずむずと動く。最前さいぜん男の子にダッドレーの紋章を説明した時と寸分すんぶん違たがわぬ。やがて首を少し傾けて「わが夫おっとギルドフォード・ダッドレーはすでに神の国に行ってか」と聞く。肩を揺ゆり越した一握ひとにぎりの髪が軽かろくうねりを打つ。坊さんは「知り申さぬ」と答えて「まだ真まことの道に入りたもう心はなきか」と問う。女屹きっとして「まこととは吾と吾夫おっとの信ずる道をこそ言え。御身達の道は迷いの道、誤りの道よ」と返す。坊さんは何にも言わずにいる。女はやや落ちついた調子で「吾夫が先なら追いつこう、後あとならば誘さそうて行こう。正しき神の国に、正しき道を踏んで行こう」と云い終って落つるがごとく首を台の上に投げかける。眼の凹くぼんだ、煤色すすいろの、背の低い首斬り役が重た気げに斧をエイと取り直す。余の洋袴ズボンの膝に二三点の血が迸ほとばしると思ったら、すべての光景が忽然こつぜんと消え失うせた。」


〇作家でドイツ文学者、中野京子氏が2007年に出版した美術書「怖い絵」シリーズで紹介した。ドラローシュ『レディ・ジェーン・グレイの処刑』(1833年)が10月7日から上野の森美術館『怖い絵』展に来てます。ロンドンまで行かなくても絵が見られます。解説は中野さんが書かれたか、吉田羊さんが読まれたそうな。

2017年10月 4日 (水)

パルムの僧院

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 誰でもそうと思いますが、地震はどうしたらいいか判らない。熊本市では震度7の地震が続けて2度あり、いい大人が手も足も出ず、困り果てた体験があります。
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 あんな地震がもう一度あれば、さすがにガスを止めテーブルの下に逃げ込むくらいは出来る。だがそれ以上に賢い行動を取る自信は未だになく……体験の意味はそんなものです。
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 ここで地震と自信をかければ話は落ちる。いい大人になれば大抵のことに、人は自信を持てるが、大岡昇平さんも恋愛体験に(性愛も含む)どうやら自信が持てなかったようです。
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 漱石にもカミさんがあった。愛人どころかカミさんももない私としては、両方あった大岡に教えを乞うしかなかった。だが大岡の自信のなさは私の地震体験どころですらなく、なんとも青天の霹靂となった。
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 そこで大岡の専門のスタンダールを見た。「パルムの僧院」は恋愛心理劇。若き貴族、ファブリス・デル・ドンゴはつまらない事で殺人を犯し、城内に幽閉される。そして人生の失敗が決定するまでの物語がスリリングに進む。
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 主人公は運命、あるいは出世をめぐって、年上の女性と若い女性の間を、行き来する。テーマと構成は「赤と黒」と大きくは変わらない。つまり災害心得手帳とか避難袋づくりが流行ったように、スタンダールは恋愛論を書いている。
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 年上の女性は具体的には母のことです。スタンダールの父とは不仲で、母はスタンダールを溺愛した。愛されるから愛を学び、愛する方向に向かう。受動から能動へと形を変える心理が、スタンダールの書いた恋愛術となります。
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 母の束縛がうるさいから、スタンダールは兵隊になってナポレオンのように出世しようとします。しかし武術の才なく軍で出世は出来なかった。「パルムの僧院」では決闘シーンがあり、若いファブリスは中年男をやっつける。
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 漱石は八雲のようには人望がなかったので、三四郎ないでは生徒に人望があったと書いてます。大岡は「事件」ないでは姉妹に男を取り合うシーンを演じさせる。私はそんなの何も書けません。
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 スタンダールは軍でイタリアに遠征体験があって作品にもチラチラ出て来ます。こういった先に若い女性と体験があるかも知れません。恋愛は男女どちらかがリードしなければならず、あまり平等にこだわっても進展は難しい。
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 年長者が普通はリードします。しかしリードする体験、される体験をペアで持たないと不満は残るでしょうな。実際にはリード体験のある男が、次々と女性をリードします。性愛に主なウエイトを置いて……
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 性愛ももちろん重要事項ですが、あまり重点を置かれても困る。食事、飲み物、美術、音楽、スポーツにアアだこうだ相性のすり合わせあうか、ある訳です。そんな面倒なといって重要事項だけ重点を置いて、あとは金で済ます。
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 そういうのもあり、どういうのもありです。スタンダールの時代はキリスト教が支配権を持っていて、一応の目安にはなった。そういう物の何もない自由社会と、どちらが生き易いのかは人による。
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 どうしたらいいのか困り果てる……その意味で恋愛も地震と変わらないモノという認識があった気がする。震度1か2の恋愛では困らんが、震度7で人生を揺さぶられる恋愛は困る……ただ人生に、そういうのはなしで終わる可能性の方が高い。
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 熊本もまた地震は来ると考える人と、来ないではないが何十年かは来ないと考える人があります。年の70に近くなって恋愛に準備なんか私はしません。そう決めると大岡の気が知れてくる。ただ問題は漱石です。

2017年9月14日 (木)

黒猫は3度くる

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 夜中にトイレに起き、寝ぼけまなこで用を足す。水を流して出た所で気がつく。室内にかすかな気配がする。これが人なら泥棒なのだが気配は人ではない。
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 私は動きを止め様子を伺うが、相手も動かずこちらの様子を見る。一瞬の不気味。まだ暑いのでベランダを開けたまま寝るが、そこから猫が入ったらしい。やれやれと台所から猫を追い出して安心する。
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 夕べはサンマを食います。今年のサンマは高いというが、スーパーに行ったら小さいのばかりが残り、それで108円という。これを逃したら今年は食えないかもと買って来た。そのサンマを焼いたので、今まで来た試しのない猫が匂いを嗅ぎつけた。ベランダから出て行ったのを見て、ガラスを閉めます。
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 ところが、この黒猫をまた来ます。成猫に達しない、子猫でもない。中くらいの黒猫で近所をウロつく言う話です。今度は朝になって私と顔を合わせてニャアと言うんだから……セリ込み猫です。ガラスを開けておいた夕べに入り込んで、何もないので寝てしまい、朝起きだして来る。
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 ただ3度目は分からない。ガラスを閉めておいたのに、入れるワケがないのに入っている。野良ではなく元々アパートかなんかで飼われていて、飼い主は秋になって引っ越し、部屋に置き去りにされたか? そんな所でしょう。
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 漱石の家の猫もセリ込みの黒猫だったそうな……お手伝いさんが追い出しても行かず、漱石の一言で飼われることになったトあります。勝手なことをすれば大家に私の方が追い出されかねない。いえ熊本市では猫を飼う場合はむろん、数軒で一匹の地域猫とする場合も、手続きは踏まねばならない。
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 しかしエサだけ与えるとか、始末もなく短い間だけ飼うとか……勝手な人はいて、後には不幸なノラ猫が残ります。吾輩だってあれはネコの形を借りてレコを重ねて……そういう方があります。
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 頭の上のハエを追えない身障者が猫や犬を飼うのは……そういう話題になった事がある。むろん決論など出ないが、健常者であっても似た問題を抱えた方がある。女房子供を抱え、それが自分になつかず、猫や文鳥を飼わねばならなかった。
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 漱石の心の闇というか、冷え冷えと温もらぬ部分というか……感覚はあった訳です。それともまあ最近の猫は生活レベルが高く、飼い主と一緒にインターネットくらいは心得て、私のブログの漱石シリーズ、読んでいて押しかけたのかも知りません。「オレも漱石は好きだニャ」とか。
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 つい先ごろまでは犬と猫では犬に人気があった。それは逆転して猫人気が勝って来た……こんな画像が出て来るには、微妙な変化があるのかも。猫ならいいが泥棒もありますので、ベランダのガラスは閉めて寝られた方が無難かと思われます。

2017年9月12日 (火)

それから4

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 ここで奇妙な事が起きる。大岡昇平さんは、なぜ漱石に魅かれたか? 愛人と奥さんの間を行ったり来たりした大岡にとって、恋愛というか性愛というかは、珍しくもなかった……はずです。
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 たとえ講演録にしろ500ページをかけて追求するような何が、漱石にあったか? 大岡はスタンダールを専門とし、スタンダール以外で深くこだわった作家はいないので、つまり漱石は例外中の例外です。 
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 鴎外の「舞姫」にはモデルがあって、最近、彼女が日本に来た痕跡が見つかったそうな……同じく漱石の書いた美人のモデルは誰それではないか? むろん大岡も「小説家夏目漱石」で書いている。
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 モデルで有名なのは江藤淳さんの、登勢という兄嫁説です。私の説ではモデルは問題にならない。あれは母、それも観念的な架空の存在です。「それから」でも架空の存在としなければ納まりがつかない。
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 恋愛の駆け引きで波風も立たず、結婚生活に入っても衝突が起きない。それはキレイな人生ではあろうが……それで人間は成長できるか? 波風や衝突といった事件の中からしか、人間の熟成は見込めないのでは?
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 漱石は熊本にいた時、年間で千に近い俳句を作ります。これが松山で子規に習った時より多い……理由は寺田寅彦に教えていたからです。この句数が、漱石の心の開かれた状態を示している。本当に寅彦と、肉体関係があったかなかったか?
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 気持ちが悪いので恋人寅彦説はこれ以上、追求しませんが……漱石の会話体の面白さは、おそらくこの時に出来たものでしょう。俳句は出来なくとも、弾む会話はありえたのでは……それはそうでしょう。鏡子夫人も三千代モデルとして確かな位置を占めたと思われる。
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 だが漱石の面白さとはシュミレーション恋愛、シュミレーション色恋、不倫、姦通……違うのではないか。恋愛は楽しく色恋は快感、不倫や姦通は悦楽……私はよく分からないが、それも違っていないか? つまり来るべく恋愛のテキストとして漱石を読むのでは利用法が違う。
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 するとデイトコースを下見、ロケハンするのも無意味という事になる。ロケーションハンティングは映画作りで言われるが、小説でもありうる。デイトでコンサートに行くとすると、クラシックにするかポップスにするかで、効果が違うからです。
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 小説での恋愛相手は美人だったりスマートだったりするが、現実ではそういう必要もない。本人が納得できれば周囲の誰にひけらかす必要もないからです……給料が安すぎると生活できない。恋愛感情も維持できない……まあ、そういう人もあるのかも知れませんが。
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 漱石は恋愛小説には不用意でうかつ、本番の色事には更にそう。漱石のうかつを知りながらながら大岡はNGを出さない。大岡は用意万端を整え、武蔵野夫人を書き「事件」を書いている、かのように見えます。実際「事件」では男女関係が、物語の謎のカギになる。
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 奇妙でしょう……本当のことは奇妙なもんです。昨年は「君の名は。」が流行りました。あれ、まだ今年でしたっけ……やっぱり君の名はのような恋愛をしたいとか、若者は思うのか。……そもそもアレでは恋愛でも、ないでしょうね。(終)

2017年9月10日 (日)

それから3

Ooka

 淡い初恋の感覚なんて忘れました。濃厚な不倫の味は知らない。トシも年なので、もうないでしょう……しかしミック・ジャガーは私の年で、恋愛ざたで子供を作ったのか!
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 大岡昇平さんは、漱石の文章が実体験に元づかないと看破します。野火などドキュメンタリーを書き,武蔵野夫人の恋愛ものも書き、「事件」のミステリも書いた……大岡なら何かを嗅ぎつけると私は推測します。
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 漱石の蔵書にはリストがあり、詳細まで研究され尽くされる……更なる研究が出来たにしても、私はしませんが……一目瞭然、読めば分るでしょう。漱石の文章は調べ物しながら書いた文章ではない。
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 調べながらとすると例えば鴎外の文章になる。漱石は新聞小説の特性を考え、毎日、気持ちよく読める事に重点を置く……必ずしも純文学とは言えない。まして鴎外のように発禁にでもなった日には新聞社が困ります。
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 そういう意味で離婚交渉の実際を取材する必要はない。読者より程度のいい家庭の、羨ましい暮らしぶり、浮世離れした思いを書き連ねていけば良い。「坊ちゃん」で同僚の婚約者をねらう赤シャツを書きましたから、友人の奥さんを譲り受けたい男でも……
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 それで赤のイメージ、危険な男という意味です。頭がいいのに無職、ピアノまで弾ける。これは漱石自身がバイオリンを習ったことからの影響で。前作、三四郎が学生ですから代助も学生のような事をしています……私はギターを弾きました。入院が長かったので弾きながら歌う事が出来ました。
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 出来は悪いが初めて聞く人は羨ましくて、これを上手いと聞きます。よせばいいのに重度身障者の前で演りました。嫉妬され逆効果というか……ど下手でもなんでも朝日新聞を取る人より上流階級を、代助は演じます。
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 もともと読売は分かり易い新聞です。今はどうか知りませんが朝日は知的レベルが高い、ほんの少しネ。漱石は英語教師です。英語の研究で留学辞令が降りる。漱石はそれを英文学研究にしてしまう。漱石にはそういう意味でインチキな所がある。
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 時代が下って谷崎潤一郎の頃になると、小説ではなく本当に他人の奥さんを譲り受けます。大岡さん自身も……つまり「それから:の代助とは、先行したイメージに過ぎません。私にしても泉谷さんか、せいぜい武田鉄矢さんのイメージに過ぎない。
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 だが弾き語りで歌ういうと、拓郎さんとか陽水さんとか、巨大に好いイメージを皆さん持って来られる……はずが、はずがないでしょ、同じです。百合を抱えてやって来る三千代、楚々として美しい着物の女なんて、巧妙なイメージ戦略にある訳です。
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 大岡は不倫の経験者です。なのに女性の中に入り込んで書くの難しさをいいます。野火が新しく映画化されました。劇映画と言えるかどうか、あれはいい……「事件」も昔ですが映画でドラマでヒットしました……それに比べると武蔵野夫人はショボい。
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 恋から色事へ至るグラデーションいうか、恋愛の小説化はいまだに上手くいってないのでは? 恋か色かによれば、それはありますが……漱石の小説は、合意による色事ではなく、許容によるそれへこだわりましょう……その時のそれは性か愛か、確かに色事ではあろうが恋愛といえるか?