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2017年7月25日 (火)

二重生活 映画

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 仏文学の誰かに「理由なき尾行」という本があるそうな……そんな高価そうな本を出さなくてもブックオフの文庫棚には「燃えつきた地図」があるでしょう。
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 ありふれた安部公房を例にしないのは原作、小池真理子さんのハッタリだろう。同映画版はYOUTUBEに出ていた。もっとも主人公を若い女性にし、門脇麦さんを当てなければ新作はヒットしない。
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「現代における実存とは何か」という。哲学の篠原教授はそういう卒論テーマを出し、女子大生「珠」にだけ理由なき尾行というヒントを出します。
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 実存とは現実存在、いつも私が書いてます。実際の、生死からの感想、悟りや気づきという意味ですが……現実に触れた事のない教授に、ましてや学生には……しかし生は性、極言すれば。
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 映画は朝、珠が起きる所から始る。同棲の卓也はシーツの中から、珠の下半身を探りにくる。卓也は漫画家志望だが、本気の恋愛相手ではない。
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 つまり部屋と性を共有するだけは論文の題材にもならない。正しいコンドームの装着をすればだが、97%の正確さで避妊が可能です。この朝、二人は付けたのかな?
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 ただし日本におけるコンドーム避妊率は約80%とか、理由は正しい装着が出来ないから……中学でも高校でも教えないから。だが米国では70%、日本以下です。理由は教会が教えるのを禁止するから……
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 コンドームの装着法を教えても、実存認識は生まれない。寝た子を起こすことを教えなければ、妊娠も起きない……ト信じる。だから子供を下すような、大きな自体になる。免許を取るからクルマに乗りたくなる。クルマに乗るから事故が起きる。
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 実行すればおバカな事が起きる。おバカな子を相手にセックスするのはおバカです。だが、おバカな子のどこがおバカかかは、実際に付き合わなければ分からない……事故を逃れる為には免許を取らないという論理には……
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 二人の部屋の向こうに見える石坂夫婦を標的に、珠は尾行を始める。出版社勤務、石坂という男には意外な秘密がある。貞淑な妻と反対の性格というか、奔放な愛人がある。それで二重生活というのだが……
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 燃えつきた地図は、失踪者を追う探偵を書きます。この追跡話は前作「砂の女」と対になる。砂の女は、現実から逃げだす男が書かれた……実人生から逃げる。子供も2人も作れば、もういい。もしかして3人ですか?
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 どっちでもいいが3人、子供が出来てしまえば性欲は治まるか? そうはいかない。良妻というか、そういう妻とは別に愛人が必要になる。探偵は命がけで失踪者を追い、危険な目に会った夜、失踪者の妻と出来てしまう。
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 女子大生、珠は相手に知られ、接触したら終わりと条件づけられてます。石坂は卒論取材での尾行を許してくれるか? それは接触してみなければ分からない。許されなかった時どうすればいいのか。
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 楽しみな結末ですねえ……でも命がけでもない尾行で実存の卒論が書けるか? 本格主演第一作の門脇麦さんに命がけのシーンなんてありませんよ。残念ながらギリギリ生きるって、そんな事では足りない。

2017年7月 3日 (月)

フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ  映画

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 物語はかの米国で……とある男女は出会うが、スムーズに恋愛関係に入る事ができない。このアナの場合、未経験、キスの体験もなかった。男、グレイはアナに「恋愛ではなく、主と従隷の契約を交わそう」と言い出す。
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 男女どちらのケースも現実にはありえない。ただ日本ではこの女性のようにあって欲しいので、教育でも性はご法度……避妊具の使い方も教えない。少なくとも校内、教室では……それでは困るだろう、不正確な情報による誤った知識……むろん心配だが「寝た子を起こすな」とPTAの主張。
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 米国でこの話、原作を書いたのは中年女性だが、自伝を書きたかった訳ではない。ケータイ小説に夢を展開したかった……青春期に若い富豪に見初められる話、小説で怪しい体験を夢見たかった……で突飛な設定を思いついた。
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 マルキ・ド・サド伯爵は自らに行状により、刑務所や病院に長く幽閉され、なんとか生き延びようと妄想小説をくり広げる……そしてサディズムの語源となる。主婦のはこれは重なるような離れるような……施設内の身障者の暮らしもレベルは違うが、似たような倦怠にある。
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 それ以来、人は生活に倦怠するとサディズムやマゾヒズムに関心を示すようになる。悪徳の栄え、O嬢の物語、マンディアルグの諸作……等々。言い遅れました。私もフィフティ・シェイズ3部作の初作「オブ・グレイ」を見ました。
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 およその青年男女が出会い結婚し、子供を作って子育てします。しかし子育ての内から「この子育ての先に、何があるのか」ト人生に疑問を持つ。やがて大した物が何もないと本当の倦怠におちいる。これはサド侯爵の倦怠とどう重なるか?
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 いろんな答えはあるのでしょうが、悟りを開こうと死と関連づけて、性とも関連させます。両方重ねると、悦楽の先にもっと深い悦楽をと期待しますから、勢いサドマゾ方向にも流れやすい。果たしてドラマは、ソフトSMを志向します。
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 主人公アナをダコタ・ジョンソンが演じますが、ダコタさんはモデル出身で、有名俳優と女優の娘、出るべくて出て来た逸材です。おでこを眉の上まで隠した髪は、女子大生どころか女子高生にさえ見える。日本でいえば多部未華子さん、あの人も本当は広いおでこを隠し続ける。
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 アナにはケイトという友人があって、いいように根回ししてくれる。知識、判断もカバーする。漱石が「こころ」でお嬢さんと未亡人をセットにしたのと変わりません……一般に学生の頃はグループ内で情報を共有し判断します。
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 買ってやったゲームを、友人が来て持って帰った。お母さんから見るとゲームはモノですが、子供たちにとってはゲームは情報で共有化されるべき物、その友人は判断した訳です。お子さんと友人は対等ではなく、リーダーと家来の関係だった。
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 まあ原作者は心得た主婦で、物語では女子大生の仮面をかぶって出てくる。「こころ」では漱石が、先生とKの一人二役で出てくるのと、大枠は同じです。だが物語の中では友人を出し抜き、アナはケイトを抜いて成功しなければならない。
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 空想ではゲームは、リーダーから取り返される物だから……つまり原作を書いた主婦も一番好きだった男の子とは結婚できなかった。あるいは富豪の男とは結婚できなかった……その復讐戦、代償勝利であるから。
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 問題をクリアできるキャラとは、例えば多部さんでありダコタさんです。先生は漱石だが、Kもまた漱石という物語にハッピーエンドはないのです。私もけっこう重度ですが、私より重度の身障者はいくらもあり……彼らは嫉妬の目で私を見ます。
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 ある意味、彼らから見れば、私は多部さんダコタさんなので……そう思うとどんなハッピーエンドもありえない。サドは牢獄で70代まで生きた。サドにはインクと紙束があれば、牢獄も自由の天地と変わらなかった……のではないか?
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 2作目「ダーカー」は仮面舞踏会が売りだそうな……もっとエロいとの噂です。今回グレイ編の売りはロープ変わりにネクタイでアナの両手を縛る画像シーン……でも高価なネクタイでなくて、バンダナか新聞紙まいても、SMシーンを演じる事はできる。
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 高価な、あるいは高価そうな物がエロい訳ではない。金物屋のアルバイト店員が高価な下着つけても、むしろ興醒めしてしまう。つまり恋愛を描かせると米映画は、どうしても仏に負けてしまう……感性って金では買えない。そう私は見てしまいました

2017年6月25日 (日)

整形逃亡

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 リンゼイ・アンホーカーさん殺人事件を覚えておられるか? 市橋達也の整形逃亡は今も類型が少なく、革新性は関心を引いた。だがなぜ市橋は整形を繰り返し、2年7ヶ月間もの長きを逃げられたのか?
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 逮捕後、市橋は手記を書き、手記を元に映画化もされた。だが映画は人々の関心を満足させモノではなかった。読んでないが手記も同じ……殺人の理由、心の移行や拠り所、確信の根拠……市橋はどう生きたかったか?
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 もっと平たく言えば市橋は優秀だったのか、おバカだったのか? 家庭では溺愛されたのか虐待されたのか。一説によると韓国系の混血という。一審に服役を決め上告しなかったのはなぜか……そういった事々は明らかにされない。
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 特に女性に関心が高いのは、整形で顔を変えて人生をやり直す願望いうか。むろん私にもあるが、妄念です。この関連だけでいえば、ボクサーの亀田3兄弟の妹、姫月さんは女子ボクサーにデビューしたそうな……理由は整形費用が欲しいから。

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 事件を下敷きに小説を書く吉田修一さんの方法は、「悪人」や「横道世之介」から「怒り」と移るにつれ手慣れ物です。映画で見る限り物語は、市橋には直接関係がない。亀田姫月さんには特に関係がないが……書き遅れた。映画「怒り」を見ます。
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 姫月さんの整形希望が、どのような物かは知らない……私の整形願望は顔ではなく下肢です。顔を変えて、生き直したい願望なら……人は整形しなくとも緩やかに変化している。友人の娘さんは結婚後に顔が変わって、友人の父つまり祖父に似てきたという。私もそう思うが、写真紹介は出来ない。
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 一般にいわれるのは娘は父に似て、息子は母に似る。子供あるいは若い時はそうでも、これが中年になると分からない。娘はけっきょく母に似て、息子はけっきょく父に似るモノかもしれない……そういう場合が、ないではない。無論そのままの場合もありうる。
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 整形は直後はいいが大抵は崩れる。若い時は成功に見えても、時間を経て中年期に入ると逆効果となる場合がある……私は美容整形したことはなく断言しない。ケースとしてRレッドフォードさんを写真引用しよう。Rは若い時に比べ顔が変貌されて身長も変化している。
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 誰もが若い時を経て老化していく。いきなり老人で生まれもせず、若いまま止まったりは出来ない。その時々に生きていく他はない……こういうのを実存という。この世はあの世の為にあり、あの世はその次の世の為……との考え方もある。三島由紀夫の「豊穣の海」シリーズはそうです。
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 若い時が全てである。子供時代は前準備であり中年以降は残骸でしかない……むろんそういう考えもある。長く生きすぎる。人はなぜに、もっと早く死なないのか? 私はそう思わないが、そう考える人は止められない、むろんそれも勝手です。
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 余計なお世話というか、なぜあの人はあんなに長く生きるか? 自分は別として、一般に他人が長く行き過ぎる。少数だがそう主張する方がある。私のような身障者が生きてる意味もない。早くに亡くなるべき、無くすべきと考える方もある。余計なお世話いうより、浅墓、若気の至りですなあ。
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 一番の応用はダイエットだろう。2年7ヶ月間、市橋のように意思を持ち続けられればダイエットは完成する。完成しないでもメハナがつく……市橋に女性が関心なのは、そういう動機理由にある。残念ながら吉田原作「怒り」は、そこに関心はない。

2017年6月15日 (木)

こころ4

 出世という言葉は古い言葉です。元々の意味は仏教用語で、俗世間の煩悩(ぼんのう)から解脱(げだつ)し悟る。悟りの内容を指した。しかし最近では高い身分を得て、世間に名が知れる。簡単にいうと成功ということ。
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 つまり上司に不実、部下に冷淡、ひとり非情に風を読む……そうしないと出世しない。少なくともマキャベリはそう言う。明治の初めこの時、日本はインドや中国やロシアを出し抜いた。東洋にありながら植民地にならず、まあまあ白人世界の仲間入りに成功したかに見えます……明治の初めは、その上昇志向の中にありました。
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 だが明治から大正やがて昭和へ、風は止まります。そういった時代にあっては、仏陀の出世ではなく、ライバルを出し抜く意味が大きくなる。昨日も子育てに失敗してノイローゼになって、どうやら心中を試みたらしい男があります。
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 漱石がなぜ小説家になったか? 留学はしたものの教官、大学勤めが無理とまで考えた。それで作家になります。漱石が死んだ時、夫人に葬式は出せるのか? 旧友、中村是公は夫人に聞いたそうです。その時、中村は満鉄の総裁で給料は当然、漱石より高かった。
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 同じ頃にドイツに留学した鴎外は医学で名を成し、文章は片手間に過ぎなかった。鴎外にはその後もその方面で、浮名を流してます。今でこそ漱石は、その鴎外より一葉より、格上に扱われます。それはごく最近の事で、ちょっと前まで違った。恋愛も色事も不得意といっていい。
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 漱石は止まろうとする風の中に焦燥感を持っています。熊本でも東京でも大学構内、学生の間では漱石よりハーンの方に人気があった。「三四郎」で「偉大なる暗闇」と呼ばれる広田先生は、そういった事々をこぼす漱石が出てくる。「それから」以降に高等遊民と表現される無職者は、そういう意味で漱石自身が書いた自画像、敗者の像です。
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 そうすると「こころ」もまた高等遊民の続きであり、敗者の苦渋を吐露しまくる。本当は私も、もっと出世したかったト、では出世がどういう物か、漱石はどう思っていたか。同じ後期3部作でも彼岸過迄、行人を読めば参考になります。
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「彼岸過迄」で漱石は自分を出すのは嫌だ。他人を例に明治社会と人間を書きたいと思う。「三四郎」には心中話のモデルがあって、それがそうでした。「行人」は自信たっぷりな自画像を書きます。その後ですから逆に自信のまるでない、弱気の自画像を書き直す。
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 そういう意味で後期三部作は、前期三部作をほぼ、なぞっていく。ゆったりと書きたい物を書いて見え、意識と無意識の間にテーマを広げ、日本社会に意味をなす、漱石は明治社会に貢献する人間像を模索します。
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 漱石の本名は金之助です。漱石はいつも金という物を意識した。朝日に入社する時は編集長とじゃ嫌だ、社長と契約を交わす……そう言ったそうです。 もう例は上げませんが終始一貫、お金がからむと厳しくなる。むろん現代では普通の事ですがね。
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 テーマには恋愛と死、金銭と成功……クリスチャンでもないのにキリスト教的に生きなければならなくなる、日本の運命が予知されています。「こころ」は仏文学の「赤と黒」より、金と恋の両方に成果を求めるディズニー・アニメの世界に近いでしょう。
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 ひとつに意識次元と無意識次元を1次元的に管理した所からの破たんが出た。別な管理というと何だが、考え直す必要がある。「こころ」は宗教や哲学、あるいは道徳が過剰に個人に介入した悲劇と取れない事もない。漱石はこころ以降に別な展開を試みます。(終)

2017年6月 2日 (金)

こころ3

 我は我が咎を知る。わが罪は常にわが前にあり……別れ際に美祢子は三四郎にそうつぶやく。恋愛では相手の都合をも差し置いて、自分の都合を優先します。
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 都合が出来たから、美祢子はもう三四郎と付き合わない。先生も都合が出来たから静、奥さんとは最後まで付き合わない。2つの小説はこの点で同じ構造になっています。
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 その共通項目はどこから来たか。西洋から来たので、もともと日本にはそんな決りも裏切りもなかった。もっというとこれはキリスト教の決りでしょう。日本では人が死ぬ話は縁起が悪いからしない……それが日本式、日本のもともとの決りです。
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 だが日本も神道だけでは間に合わないので、まずは仏教を輸入しました。それでも間に合わないと西洋を輸入したのが明治期です。純日本で間に合わすか、仏教で間に合わすか……漱石は見合いで結婚を決めます。
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 見合いは別に悪くはないが、鴎外はドイツで「舞姫」に当たる恋愛事件を起こします。この恋愛はまとまらないのですが……漱石はそういう具体的な経験なしに恋愛を書いたト私は思います。
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 自分が死ぬ前に、自分の死んだ先を考える。死後への指示を書いて残しておく。それは西洋式で遺書という体裁になります。西洋式とはいっても書くのは日本人で、本当は日本式に馴染む。死ぬ間際まで見極めがつかない。それどころか時間切れに終わってしまう。
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 後世の都合でカタがつく。恋愛も同じで、なかなかカタかつかない事情がある、まあそんなものです。恋愛に向いてる人は10人に1.2人もあるでしょうか? あなた自分でどう思っていますか。私hataに言わせると恋愛に向かない人が、見えを張って恋愛に挑んでいるように見えます。
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 お釈迦さんは絶食で悟りを開いたものの、死にかけます。通りがかりの女性が彼の命をすくいます。もう悟りを開いた釈迦としては死んでもよかったが、女性は自分の母乳で粥を作って食べさせる。それで生き返ります。意味深長ですが、そういう訳で死は性衝動とセットになってます。
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 キリスト教はそこを意識した宗教で、近代からはフロイトが無意識を問題にします。「こころ」が「舞姫」より優れる理由は、ここにあります。先生は生きてる奥さんより、死んだKに執着する。奥さんを置いて自殺するとは、そういう事です。Kと競ったのは、お嬢さんが大事ではなく、競うKが大事だった……ト先生は気が付いた。

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 この症状は統合失調症のせいか、同性愛のせいでの結論かは、私hataも分かりません。そういう事があったとして、一般にこういう結論になるとは今も思えない。そういう意味では「こころ」の結論は、いつも納得できない。一般には……
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 熊本日日新聞が熊本震災から一年後の作文を募集し、その選考結果を3作品ほどにまとめ発表しています。若い夫婦と赤ちゃん、その祖父母、あるいは友達の関係絆とのまとめ方です。端的にいって、私も地震では死に損ないました。死に損なって感じる生きる衝動は、性と思う。
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 先生と奥さんの間には子供がない。漱石と鏡子夫人の間はちがう。「こころ」では一人称で人物と読者は対になる。つまり漱石と読者は主観の語りでユーモアなしに進行します。それは当時の小説の極限と限界を見せます。
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 若い先生と死ぬ前の先生は同一人物にも関わらず、統一できなくなっている。先生とお嬢さんの関係は、先生と静とで食い違う。違いを微妙で小さいとみるか大きな隔たりと見るか……原因は性は本能であり無意識、意識は知識であり言葉で操作できる……その辺にありましょう。(続く)

2017年5月29日 (月)

こころ2

 もしオレが死んだら、誰が静の面倒を見るか? 書いてはないが、先生の疑問はそういう事ではないでしょうか。この疑問の後で私の父が死に、母の面倒を誰が見るのかトいう疑問に受け継がれます。

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 私hataに言わせれば、母を父から受け継ぎたいとの願望は、先生から奥さんを受け継ぎたいとの願望に変形しています。「坊ちゃん」を長編化した「三四郎」の続きとして「こころ」読むなら必然そうなります。

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 自殺願望のあった先生は、天皇に殉死した乃木希典に習って、時代に殉死する決意をします……先の昭和天皇が亡くなり、今の平成天皇が退位の意向を示されると、私にも殉死の意味が判るような気がします。

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 時代は大きく変わって行った明治の末が、判る気がします。熊本の街並みは震災によって変わります。熊本はむろん復興はするでしょうが、復興後の熊本は私が子供の頃から慣れ親しんだ熊本ではない。明確にくっきりと時代が変わり、むかしは終結しました。

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 若い時に大切には思わなかった昭和や平成の元号に、私の思いはまつわりついて行く。自分の生きた時代が終わったという、感傷というか感慨を禁じえません。壊されていくビルの中から、60年間一度も思う事がなかった記憶が、意味もなく立ち上ります。

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 私が最初に「こころ」を読んだのは20才前半でした。見知らぬ女性を見ると体のどこかスイッチが入るような性衝動を、こうも明快に理論づけた漱石はスゴいと思いました。だが当時の女性は、そう思わなかったようです。確かに性衝動は見かけただけでは入らない……場合もある。

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 漱石は無意識の行為を意識下のように書きます。誰でも異性の前に、同性と恋愛するか……違うでしょう。女性の衝動スイッチはもう少しゆっくりと入るもので、同性愛もいわゆる同性愛と「こころ」の描写とは違う。多分ここで漱石と寺田寅彦との関係がモデルになっています。

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 他にも同性愛くさい相手としては子規があり、中村是公があるが、どちらも漱石の年下ではない。参考にはなるが年下のモデルを置かないと、先生私の関係は書き辛いでしょう。木曜会関係の誰でもいいが、親友っぽい共感の深かったモデルを探すと寅彦が、一番くさい。

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 同性愛といっても三島さんと美輪さんといった関係かどうかは分からない。美輪さんは二人でダンスを踊ったという。漱石は子規に俳句を教わったが、ダンスを踊った記載はどこにもない。寅彦とも俳句での交流です。ここでの内容解釈はいわゆる親友と考えた方が無難です。

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 では恋愛とは? 先生がいう恋愛は罪とはどういう意味でしょう。(続く)

2017年5月26日 (金)

こころ 本

 私と先生に年齢差はあるが、隔たるほどの気持ちの差はない。「猫」のように先生は名無しで、私もまたそうなのです。「こころ」仕掛けに、大きな変化はないように見えます。
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 先生に外人の、英語に堪能なインテリの目印をつける。赤シャツで英国帰りの印をつけたように……漱石は前と同じ方法を使います。鎌倉の海水浴場の沖で、二人は同じように愉快になります。
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 私流に理屈をつければスイマーズ・ハイです。言ってしまえば私は先生と、それで心安い仲になる。それを丁寧に、悪く言えば回りくどく進行させます。私は友人に呼ばれ鎌倉に行く。友人は都合で帰り、無聊を囲った私は先生に目をつける。
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 この先生は統合失調症なのか同性愛なのか? 甘えるのが下手なだけか、友情を育むのに失敗したのか? どちらにしても先生の精神的な危機は、やがて私にも押し寄せそうに見える……私の友人は家族に呼び出され、私を置いて帰ったようにネ。
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 漱石は生まれるとすぐ養育費を付けて外に出され、長男次男が無くなると呼び戻されます。夏目家の正家族でなく猫のようなスペアとして……その辺の不条理感が話に滲み出します。家族が身障者になると、たとえば長男が身障者になると、家族は次男をだんだん長男扱いにしていく。
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 奥さんが亡くなると父は長女に奥さん役を振っていく。実質で次女が長女のように先に嫁に行き、長女は嫁に行かず後家のように、ずっと家を取り仕切り続ける。個人個人に平等な権利があるのでなく、家の都合が優先されると、ついそういう事も起きます。
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 漱石は身障者だったのか? そうではないが似たようなモノでした。ひとり後妻の子だったし、産まれた日も縁起が悪かった。写真に伝わるハンサムな顔は、あれは修正された写真で鼻に痘痕の痕があった。背も低く160cm「菫ほどの小さき人に生まれたし」の句を詠みます。
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 ややもすると自閉的になる。先生の奥さん、静は少し酒でもと提案してます。漱石は下戸でした。それでしるこが好き、ジャムが好き、ピーナッツが好き……食いすぎる傾向にあります。坊ちゃんでは蕎麦を食い過ぎるシーンを書いてます。食べた時だけハイになるんです。
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 「猫」とかユーモア小説だった頃はギャグを決める快感もあったが「こころ」では書く快感はどうか? 漱石は熊本では散歩をしています。熊本市内から小浜まで歩くのだから散歩の域を超えてる。若い頃はランナーズ・ハイ、歩く快感でバランスを取ったと思われます。
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 だが歩かないで食べるだけ食べれば、どうなるか? 熊本震災後、日に2度、炊き出しが出て2カ月以上、人によって違いますがじわじわ太る事になります。私もプールや筋トレは出来なくなって、食べるだけ食べました。
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 東京での漱石はバイオリンの練習とか絵ハガキを描いたりはしますが……ランナーズ・ハイまでも歩くことは、もう出来ない。そういう意味で漱石は大患後、急激に老いたと思われる。そうでなくとも健康を損ない死を意識すると、本書のように楽しい場面は少なくなる。続く。

2017年5月24日 (水)

漱石後期三部作

Kokoro

 漱石の小説では二人の男が出てくる。二人の女性も出てくる。だが、この二人は元々、ひとりの男でありひとりの女性です。
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 「坊ちゃん」に出て来る坊ちゃんと赤シャツは、もともとは同一人物と私は証明しました。坊ちゃんに出て来る清は、もしかしてマドンナと同一人物かもしれません。
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 「三四郎」に出て来る里見美祢子は、三四郎が風邪をひくと、野々宮よし子を差し向けます。よし子は手ぶらではない。見舞いのみかんを剥いて三四郎に食べさせます。
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 「三四郎」の序章とも言うべき、初めの方に、汽車で相乗りになった女に三四郎は手が出せない。小説の終わり方に漱石は手を出す必要がないベッドシーンを書いた訳です。そう読まなくては面白くないでしょう。
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 三四郎に影響された森鴎外は、似たような青春小説を書き、発禁処分を食らいます。そういう時代でした。漱石は「修善寺の大患」で死の淵をさまよう。その小説に変化はあったか?
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 釈迦は断食して死の淵を覗きます。そして悟りを開く。悟りというと何だか広過ぎて分かりませんが、気が付くという事です。悟るとは生きる上での気付きです。私も11才で病死寸前までになります。
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 幸い死にませんが、何かいう権利くらいあるでしょう。それで漱石文学からユーモアが姿を消します。ぎりぎりの書きたい書いて置かなければ、いつまたあの世に招集されるか? 漱石はそういう思いに至ります。
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 もはや蚤よけのまじないとか、みかんを食べてベッドシーンの代わりとかバカバカしくて出来なくなる。さりとて危ないことを書けば発禁処分の現実が見えます。それで書かれたのが彼岸過迄、行人、こころの後期三部作です。
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 中でも「こころ」は自分でも気に入ったようで、単行本化について漱石は装丁まで自分でやります。命がけの漱石は何を書き、何を伝えようとしたか……気になるところですが、今パソコンでは「こころ」は買わなくてもよく、青空文庫で読めます。
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 また老眼が進んだ方にyoutubeには朗読版があります。いやもっと善玉悪玉に分けてもらわなくては分からない、そういう若い方に向けてアニメ化もあります。youtubeで下記「青い文学」で検索して下さい。
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Aoi Bungaku Capítulo 8 - Kokoro 前後編

2017年3月25日 (土)

トクホの嘘

Tokuho

 週刊新潮3月30日号の記事が「トクホの大嘘」を出した。何十億何百億個の生きている乳酸菌よりも「腸内で増える菌の方が……」と画像の言も取っている。(情報源、秋津壽男院長)

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 最初から多数の菌が生きている、増える必要はない飲料やサプリはある。だがそれで生きてる菌と言えるか? 私は怪しむ。菌は増えるのが生きる証で、増えないのは死を意味する……しないか?

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 私はヨーグルティアの利用者で増やして飲む派で、増やさないでは気持ちの収まりが悪い。半額処分のヨーグルトをさらに4分割して冷凍保存、さらに増やす。見られたようなコメントに畏れ入る。

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 秋津院長はどんな医師か? ヨーグルトのバーゲン、半額処置をご存じなら、あまり気取られた、世間知らずの医師ではないのだろう。世界は広がるようで狭い。意外に医者はパソコンが不得意だったりする。

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 スーパーや100均を知らなかったりする。トクホという法制度と、病院保険所といった行政側と、商店消費といった3者がかみ合っていない。法と会社の2局間テキトーななれ合い……かなりの嘘のつきあいが行われる。嘘つきは、ひとりだけではない。

2017年2月27日 (月)

信仰 DIY4

Tinmoku

 失礼ながら遠藤周作さんは圧倒的な秀才という訳ではない。医学部をめざしたが通れずに文学部に行った方です。その「沈黙」が再映画化でまた話題になっている。
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 ポルトガルの宣教師ロドリゴは師フェレイラを追いかけるように九州にくるが、日本は宣教どころの状況ではなかった。長崎奉行井上越後守は日本を守るため、信者、宣教師共々の信仰を捨てさせようとしていた。
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 ロドリゴはフェレイラの消息を知る。師の棄教とは? 棄教か殉教か? インテリと無知、信念と退廃の間に形而上学の意味と価値を問う。遠藤文学は信仰とは何をどうする事かト問う。
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 遠藤としては医学部に価値があり文学部にはない。そのような問いかけではないか。(安倍公房氏にも似た問題が)沈黙は一時、カトリックでは禁書とされ、関係筋では読まれなかった。それでか、遠藤はアカデミー文学候補となる。むろん今は違う。
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 私はアスペルガーのケがあって、成績の一部優秀、大半劣悪だった。また健常児から障害児になった体験もあり、その辺のイメージは似ているというか重なり……興味津々。むろん同じではない。
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 遠藤はロドリゴをキチジローを予め違う存在として描く。ロドリゴが転んでキチジローになるとは考えてない。健常者が障害者になる、あるいは障害者が健常者に回帰する。そんな事はないのだろうか?
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 ある部分で「ジキルとハイド」よろしくつながってないか? 私はやがて健常者にもどるのは無理と考えるようになる。実際にそうなる事は少ないが、誰もが障害者になる。可能性を含む、ただ高齢の場合はそう言わない。
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 多くの中途障害者は外身と中身をすっきり分けて考える。私はそうはいかない。障害者や弱者の立場だから気づき、思考や行動に反映する部分があるからです。外と中は混然とする。
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 熊本に地震があった。古い建物は倒れ、倒れないまでも壊れかけた。すると簡単に地震前には戻れない。戻ったとしても微細な部分では違う。様相は変わり、厳密には地震前の熊本ではない。
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 気が付くと熊本は身障者になっていた。そうでなければ熊本は老いていた。私が子供の頃から見慣れた熊本は何処にもなかった。数年いや数十年があっという間に流れ去ったように変貌していた。
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 転び変節した人は死ぬ訳ではない。変節してはいけないト言っても、そうせざる得ない時もある。変節と転びは違うかも知れないが、転びと障害も違うかもしれないが……
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 篠田正浩版「沈黙」は現在入手困難だが、youtubeには出ている。