芸術 Feed

2013年10月22日 (火)

劇団夢桟敷 遊戯療法

Yumeアートプレックスくまもとで劇団夢桟敷が「遊戯療法」いや「療法遊戯」どっちだったか。本公演の予告のような劇をやります。座長とおぼしき年配者がプロローグの案内し、観客はそれに従う。実は公演では天井のない中庭を使う。(振らなかったが予報では雨)
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観客に移動を要求する。昔はこういうの前衛劇と言いました。今は取り立てて言いませんが、客を選びますよねえ……4人連れの中国人は大きな声で話していたが、始まる前に席を立ち、それぎり帰りません。20代とおぼしきカップルも始まって10分くらいで出て行きました。
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寺山修司さんの作風はこうです。ミズエは1と書くつもりだったのに手が書いたのは2でした。「赤糸で縫いとじられた物語」意志が本人を裏切るのではなく、手が本人を裏切るイメージ、それが寺山さんになります。
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自由になりたい。その思いは強いらしい。でも何から自由になりたいか、それは判らない。意志に従うのではなく手に従えば自由になれる。机の上で字を書くのではなく町の文房具屋に、違う鉛筆を買いに行けば自由になれる、そう思うようです。
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三代前の祖母を殺せば自由になるとか……幻想の中から自分が始まる。母も家族も置き去りに、どこかの町で生きる。自立自活的な意味でですがイメージは、そういう事はありました。心理とか前衛とか言っても基本は芝居です。
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漱石の「坊ちゃん」は母が死んだので、清を母に見立てて同居したいんで、そうなる所で終わります。三四郎とかそれからも、結局そういう試みではなかったか? 寺山さん逆で、お母さんを置き去りに自由になりたかったト思う。
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書を捨てよとか言うけど、あれは母のイメージです。それが出来なかったので三代前のとか、言い出す。芝居に行く事が、常識とか明日の予定をチャラにして、役者の衣装と化粧の匂いに酔いしれる。あれは女性の世界です。
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衣装を着てポーズを作って、アクションを入れてセリフをいう。セリフは言う前は明々、自分の言葉ではないのに言った後で、不思議にも自分の言葉になって行きます。私もライブのディスクジョッキー等、訳の判らない事をしていた関係で、その辺りは多少、覚えがある。
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曲名とか演奏紹介は違うけど、内容の話は少しづつ形を変えた自己紹介になっていきます。芝居の独白はあれは自己を語る場面ですネ。この夜も誰か、女優さんがモノローグをやってましたね。
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寺山さんの自由のイメージは精神病院にも近いらしい。町には患者とも医師看護師ともつかない人々が行き交っていて、行けば自分も入院あつかいで直してもらえる? 本当の精神病院は払いが大変らしい。(画像はちらしよりコラージュ)

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●劇団夢桟敷公演 遊戯療法 レミングより 2000円
11月28日~12月1日 河原町ギャラリーADO 090-4581-5190

2013年10月 7日 (月)

山下清 展

Kiyoshiこの半券チケットは拾ったもの。身障者入場に半券はありません。チラシにもポスターにもあるこの絵は、山下清さんの代表作「自分の顔」「長岡の花火」2枚をコンピュータ合成したものです。場内で半券は届けず、ちょっとスーベニールにもらって来ました。

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そういう訳で贋作の半券絵を探してもあ会場、どこにもありません。原作の「自分の顔」「長岡の花火」の2枚はちゃんとあります。どうしても見たければ頭の中で合成するしかありません。ここがちょっと面白かった。行かれた人は納得されましたか、それとも違和感がありました?

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この宣伝に作られた、画像で判るように、実際の絵はそのままでは足りなくなっている。言っては何ですが時代の流れに絵が古くなったトいう事でしょうネ。そんなバカなモリジアーニやピカソ、それに山下清さんとも比較された、ゴッホやルソーが何時、合成されて宣伝された事があったか?

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何か違うのではないか……そういう意見には一理あります。最初にゴッホを引合いに出したのは梅原龍三郎さんですが、これはちょっと褒め過ぎた。清さんは知的な構成力には欠けており、誰のアイデアか知りませんが、今回展でも補われて原作を越えたト言わざるえない。

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昭和に良く合った、清さんの作風は昭和だから愛されました。素朴で生真面目でひたすら根をつめた絵ではあるが、心に裏表のない。難しい事をしない作風は、平成には合わなくなっている。絵葉書でもコピーでも、何か一枚買うとするなら、合成と判っても、半券絵が欲しい方はあるでしょう。

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清さんの絵は普通の絵ではなくプリミティブ・アートと言われる。そのジャンルに属して原始的造形と言われます。身障者だけでなく未開民族美術もそう言われる。未開美を手仕事で再構成したのがモジリアーニ、ピカソ、ゴッホでした。好意的にいうと清ポスターでのコンピュータ役を、彼らが手で行った。

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悪くいうと、彼らの芸術も盗作に過ぎません……がネ。誰が何といおうと清さんの絵に引き込まれる物がある。それは判り易いキャッチフレーズがあると、より入り易い。画家というとゴッホしか知らなかった時代にあって「日本のゴッホ」のキャッチフレーズで引き込まれた訳でしょう。

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小林桂樹さんの主演で「裸の大将」が映画になる。有名にならないと絵が売れない。絵で食えないと困るのは清さんでした。身障者のプリミティブ・アートもレコードジャケットやカレンダーになれば、それでは食えないでしょうが画材くらいには化けます。

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新作映画では音楽家の石川浩司さんが清さんを演じる。映画でもドラマでも止まる事がない。今回展でも使われた「放浪の画家」も清さんのキャッチフレーズだが、行方不明だった時期は1940年から54年と短く、生涯放浪を続けた訳ではない。だがイメージで商品化されます。

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売れないよりは売れたがいい。しかし清さんは放浪中に絵を売っていた訳ではない。日記はあったが、実は絵はあまり描かれていない。今はコンビニ弁当など、それなりあるが、戦争をはさんだ時代は無銭旅行、信じ難いが食べ物ももらっておられた。飢えた戦争孤児も沢山いた時に……人徳でしょうなあ。

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清さんは晩年、弟さんと同居、享年49才でした。知的障害も身体障害も個々の事情は違うが、およそ体を動かすのが苦手になります。それで清さんも高血圧から眼底出血で、まず目が悪くなり次に脳出血に倒れられる。小林さんから石川さんまで清さんのイメージである、あの体型が清さんには命取りになります。

●熊本県立美術館 障害者の日は11月18日(月) http://www.museum.pref.kumamoto.jp/event_cal/pub/Detail.aspx?c_id=10&id=23&type=top&trk_kbn=A

2013年8月30日 (金)

マンガとアニメの表現

 Kennetu様々な問題をめぐって「はだしのゲン」「風立ちぬ」がそれぞれ話題になっています。私はどちらも見ていない。はだしのゲンについては発表当時、噂は聞いており、読みたいとは思った。どうしても読みたいとは思わなかった。風立ちぬについては今、現段階でそういう受け止めです。

 

マンガやアニメには昔から、そういうスタンスです。映画や文学に比べると関心がうすい。どうでもいいトいう事でもないが結果からいうとそれに近い。その一方で矛盾はするが、どちらも題材が特殊で他に類がない。見ないより見たがいい、そう結論も出ます。

 

私はリベラル寄りです。保守化といわれる最近の傾向には、感覚的に付いて行けない。ただし、このブログにも書いているように、三島や川端さんの文学はよく判る。公房はともかく大江さんに比べると、むしろ共感します。二人とも札付きの保守です。

 

民主にも共産にも共感はない……というと本当の本当は、中立ではないのか? まあ、そうも思います。はだしのゲンについて調べると、初出の「少年ジャンプ」の当時からそんなに人気はなかった。編集長が特別視して連載を続けた。そういう経過がネットにあります。

 

風立ちぬに関しては、宮崎アニメではあるが子供向けでは必ずしもない。宮崎作品としては最後になる可能性も……という事で一番人気、そういう作品でなければタバコシーンが多い事も問題にならなかった。映画としては面白いけど玉にキズ、そういう可能性がある。

 

私はタバコは吸いません。若い頃は吸った時期もある。よく言われるようにタバコのタの字も見たくない。今は脇で吸われるのは迷惑です。強い嫌煙の傾向にあります。一度も吸ったことのない人のように、ゆるい嫌煙家ではありません……アニメ見たら嫌になるかも。

 

私はそうですが、一般論としてこの映画も機会があれば見ます。ケムそうだから見ないとはしません。監督の宮崎さんは愛煙家でしょう? 昔はタバコを吸うのが普通というと何ですが、喫煙権が確立されていた。監督としては時代への郷愁もあるのでしょう。

 

で、出してみたら叩かれた。首を縮めておられるのかも……自民、公明、その他保守支持の人たちも、民主のつまづきに乗って一気に保守化を狙ったら、思ったほど全体は保守化しない。好みの分かれるマンガに封をしようと思ったら、逆風を食らってしまった。

 

言ってはいけないが、そういう共通性は感じますねえ。私? 私はこのまま、世間がどうなろうと私は私、変えようがない。代わりようもない……東日本が大変でも原発が怪しくとも、ある意味では平和です。何だかんだ言っても他にネタがない。そんな所ではないでしょうか?

 

 

2013年8月16日 (金)

モーツァルトのメヌエット

Mozart音楽に寄せる思い出は切ない。気取る訳ではないがモーツァルトのディベルトメント、喜遊曲というと……馴染みなく見えても俗にいうモーツァルトのメヌエット。それも知りません? いえ聞けばアナタも思い出す、K334は名曲との評判が高いのですから。

 

 

 

私も小学校で聞いて以来、どこかで聞いた曲として、認識はあったものの、長く思い出せない。334の作品番号はモーツァルトの青春期を指します。モーツァルトといえばマリー・アントワネットに恋したとか言われてますが、実質な恋愛感情だったかは怪しい。

 

 

実質的には従妹との恋愛でしょう。作品はその時期に重なります。ただ本当に内容の反映があるかどうかは知りません……華やかで軽やかな曲に、初体験が重なるようなメヌエット、聞いて得する聞かずに損する。別にアーティスティクな曲でもなく……

 

 

 

私も小学校の頃は音楽が得意ではなく、ドの音がレともミとも区別がつかない。つまり音痴だった訳です。中学生になって再発して入院し、それが一番長い入院になる。この時期にFMで聞いたクラシックの、モーツァルトはそれは切ない。

 

 

 

人がみな春を謳歌する日に、ウツウツとして病室にあれば、生きているさえ恨めしい気がします。ただ、この時は病名も明確に、死ぬ事はないいう意味では気が楽でした。しかし曲を最初に聴いたは小学校のどこだったかは思い出せない。それで番号だけ記憶していました。

 

 

 

ブックオフの100円セールのCD棚に、K334を見た時には曲が思い出せない。人は忘れるもんです。幼児期も少年期も、青春は誰の上をも過ぎ行き、2度と帰りません……何かいわれがあったような、記憶も思い出せず……それだけで買うのです。

 

 

 

この曖昧では3400円のCDは買いませんでしょう? 廉価版2000円でも1000円でも買いません。100円だから買う、これは私の懐状態の反映でも……アナタなら違うかもしれません。いえ失礼、大きく違いましょうね。アナタはクラシックのCD、何か買いました?

 

 

 

まあいいか! カーステレオで、アアあれかト再度、思い出す。それで曲調から言って運動会のダンス遊戯とかに使ったのではないか? それで特定の女の子を思い出されます……指の感触が蘇る……むろん小学校時の、従妹ではなくマリー・アントワネット状態ですがネ。

 

 

 

思い出しませんか? そういう名曲ゆえ、どこの小学校でも使ったと思われ、アナタが手と手をつないだ子が誰だったかは、むろん私の知った事ではないが……そういう事はアナタにもあったと……思い出せませんか。

 

 

 

●モーツァルトのメヌエット http://www.youtube.com/watch?v=ASeax-zxPKI 

 

 

2013年3月25日 (月)

音楽とのスタンス

Kobayashi小林亜星さんがコンサート宣伝にラジオに出られます。どういうコンサートか言うと童謡です。亜星さんの話では「童謡には普遍的な価値がある、それを見せるから来てくれ」簡単にいうとそういう発言に終始されます。

 

私は童謡は好きでない。先日、ある綜合病院に行ったら、突然、待合でミニコンサートが始まります。それは医学部の学生さんの発表会で、ほとんど童謡です。一部ニューミュージックも入るが、本命は童謡を弾くらしい。

 

私は童謡より亜星さんのCMの方がいい。日立の歌とかブリジストンの歌とか、あれはいいです。童謡は意味の判らない歌詞で馴染めません。医学部のそれは童謡を歌わない。クラシック弦楽器で演奏しました。

 

だから歌詞はない訳ですが、聞いていると呪文のような歌詞がまつわりついて来ます。ふるさととか、赤とんぼには、怨念や悪い状況が染み付いて聞こえます。メロディは似ているけれど亜星さんの、日立やブリジストンの歌に怨念はない。

 

亜星さんには悪いけれど子供に童謡なんて、聞かせるべきではない。そう思う私は間違っているでしょうか? でも楽器はクラシックのバイオリンとかチェロ、ビオラですから、バッハとかクラシックを弾くのが本筋でしょうネ。

 

「G線上のアリア」とか「主よ人の望みの喜びを」とかは難しいからだと思います。ちょっと聞きたかったが、殴られそうな気がして聞きせんでした。私たちの世代は、子供の頃には亜星さんのCMを聞きます。

 

大学生になった時に同世代音楽としてフォークやニューミュージックも聞きます。森田童子さんの「さよなら僕の友達」ユーミンの「私のフランソーワーズ」……そういうの聞くと宿題が出ます。

 

「さよなら僕の友達」に「君の居なくなった部屋にチャーリー・パーカー、見つけたよ」という詞があって、ジャズがどんな音楽か知らなければなりません。まあ、パーカーさんでもマイルスでもコルトレーンさんでもいいが、聞いてみない事には話にならない。

 

フランソーワーズはシャンソンです。フランソーワーズ・アルディさんのこと。まあ、これもジェーン・バーキンでもセルジュ・ゲンズブールさんでもいいが、何かそういう現代シャンソンを聞かない事には話にならない。

 そんなに色々聞いてどうするか? 気持ちに合わせて聞き分ける。ジャスを聞きたい気分と、シャンソンを聞きたい気分は違う。つまり今の気分のを見極め、聞く音楽を変える。心をコントロールする。それが私の、いえ私たちの音楽へのスタンスです。

2013年2月 6日 (水)

松元伸之介さん

Matumoto_4 聞いてませんが、大原美術館展シリーズを書いたからト思う……松元伸之介さんの、このカレンダーを頂きます。松元さんは89年生まれのイラストレーター、自閉と知的障害を言われた人です。

 

ご覧のように動物が好きで、大きな動物の形をした乗り物に、何10種もの小さな動物が、左向きに乗っている……これが典型の絵を描かかれる。描き方でいうと肉食動物が好きなのか? トラとかライオンが優位に描かれる。

 

竜の時もある。画面はどこも同じではなく、向って左上に優位な場所があり、絵の眼目になります。そこに何が描かれるかで画家の意図を読みます。例えばこのブログでも左上に、象徴的な画像を出しています。

 

画像は右上でも左下にも出せますが、左上の画像がいい。私は意図的に行いますが、無意識つまり自然に行っても結局そうなる。これが絵の不思議なところ。松元伸之介さんも左上に一番好きな動物を描きます。

 

その位置はトラや竜、ライオンである事が多い。動物群は単に群れとして描かれるのではなく、多分ですが松元さんの分身、トラに率いられ左を向いている……トまあ、読む訳です。

 

同じように動物と乗物を描いた、ジミー大西さんを連想させます。なぜ動物なのかト考えて、推測に推測にを重ねてもどうなのかトも思います。大西さんの障害症状は軽い気がします。私が壁に貼っているのは大西さんの「LOVE」シリーズの一枚です。

 

これは結婚が決ってからの絵で、やはり画面の向って左上に自画像がある。右上には奥さんらしい女性の顔がある。「LOVE」シリーズは二人を描くので、動物や乗物は友人関係を意味します。大西さんの最初の絵には、乗物や動物だけの絵がありました。

 

シリーズでは主人公は、はっきり自分で、ついで女性、自分たちを幸福に包み、取り囲む世界として描かれる。それが見る者も受け入れ幸福に変える。つまりジミー大西はもうお笑い芸人ではなく、自信を持って芸術家になった。そういう意味があります。

 

大西さんはどこかに行って旅先で描いた、着想した物は現地で画材を出し、色を決め、帰ってから仕上げる……本人発言でそうありました。旅先で受けた刺激が絵になるいうのは、山下清さんがそうでした。松元さんはどこで何に刺激を受け、絵を描いているか?

 

私には判りませんが、バスのような乗物での、通所かよいではないか? 動物たちはバスに乗ったように左向きに並ぶ……映画や舞台でいえば下手に向うことを意味する。映画では約束、下手は帰る意味がある……とすれば、通所から家に帰る途中のバスと読める。

 

松元さんは通所先での仕事より、家でリラックスされた方が楽しいのか……このように、あまり読み込んでの鑑賞は適当でないのか? 私には判りません。ただ松元さんの絵には背景がない。背景は周囲との関係性が薄いから、そう思わせる。

 大西さんの絵も周囲との関係性から、複雑な発展、展開が見られます。それが幸福感につながり、芸術的な価値にまで高まる。若い松元さんはもっと色々に、自分を展開して行くのでしょう。イラストももっと広がって行くと思われます。

ソニックジャパンは複数の保険会社から、客様に合った最適商品を勧めるという総合保険会社、ソニックジャパンでは当カレンダーの製作費の一部をスペシャルオリンピックス日本に寄付した。

2013年1月31日 (木)

キリコを読む ~大原美術館展3~

Kiri 大原美術館展シリーズの視聴率は高い、ありがとう御座います。予想がつくとは思いますが、3回目は講演では取り上げが薄かったキリコです。「ヘクトールとアンドロマケの別れ」は何を意味するか。ネットでも判らないと言われてます。

 

 

 

まず一般論として現代芸術は、不安を大きく取り上げます。それは見通しにくい将来を意味します。キリコの時代でも1915年に第一次世界大戦が起きます。桁違いに大きな戦争は一次から二次につながり、そして現代に至ります。

 

 

 

「……の別れ」は一作だけではなく、25年くらいに、絵にも彫刻にも何度も繰り返される。感じると思うがキリコは最初、シュールレアリズムの仲間には入るが、後に決別している。シュールの他の画家より重いというか、苦しい。

 

 

 

キリコがいた所は北イタリア、フェッラーラという町で、ここには繊維工場があって、麻を煮た空気の麻薬効果は住民に及んだとされる。キリコが描いている不安は、大戦前の平和な町はなくなり戻らない……個人ではむろん、一国でも止められない流れにある。

 

 

 

大きな流れに不安の根がある。そして切迫した雰囲気も漂う……ギリシャ神話でトロイとか、トロイア戦争といいますが、へクトールはその戦争で死んだ英雄です。アンドロマケは奥さんで、夫の死後、複雑な経過を生きた女性です。

 

 

 

画材としては珍しくないが、なぜロボットの扮装をしているか?  生身の人間は戦争で死んだりケガをする。だが体が人工、つまりロボットだったら手足を部品で変えればいい……私の身体障害も治らない。それは生身だから、そう解釈します。

 

 

 

戦争は近く、公害も消えない町、深く傷つきたくない。目にサングラス、顔に仮面、体をロボット化したい……どれも同じ衝動というか現代的なの思いになる。ヤクザや暗殺者はサングラスしました。目を見られたくない。同じく強盗は仮面で顔を隠す。

 

 

 

仮面をペルソナといい、パーソナリティ性格を意味する。戦場に向うヨロイも、個人は行きたくはないが要請に従う仮面の意味……ロボットアニメなら何でもいいが、エヴァンゲリオンのロボットスーツは、トロイの木馬のギリシャ神話ともつながります。

 

 

 

エヴァ新作の試写会会場で自衛隊がコーナーを作りデモをやった。使徒との戦いは、そういえば近隣国との戦争をイメージさせます。初号機は性能がよいのかシンジ君はケガしませんが、零号機のレイは、よく眼帯をして包帯を巻いてます。

 

 

 

私は死んだへクトールを連想する……シンジも初号機に乗るのを嫌がります。もし近隣国と戦争が始まったら、あなたは自衛隊に入りますか? 自衛隊では女性もむろん入れます。夫の死後、アンドロマケがどうなったかネットで調べてみて下さい。

 

 

 

絵の不安は今も存在し確実に具体化している。昨日の国会でも言ってたでしょう。今度、自衛隊の予算を増やします。つまり使徒との決戦は近い、この絵のようにあなたは誰かと別れの挨拶をしなくていいのか?

 

 

私? 私は身障者ですからヨロイはつけられません。仮面の告白もいたしません……記載が何だか判らない表現になって来ましたので、もう止めますが、私はそういう不安をこの絵から受けます。

2013年1月27日 (日)

ロートレックを読む~大原美術館展2~

Mx 何の絵を描きましょうか? 今、一枚描くとしたら何を描き、昔、そうですね20才だったら何の絵を描いたか、それも考えて下さい。それから何時とは言いませんが死ぬ直前に、一枚描いて下さい……それは何の絵でしょうか?

 

今日また、大原美術館展に行きました。村上哲主幹の話を聞いたのですが、そのまま原稿化しても仕方がない。村上さんの原稿は熊本日々新聞に出ているので、そちらの方をご参照ください。私の意識を書くと冒頭のようになる。

 

今回の絵画群の中で、一番高価なのはロートレックの「マルトⅩ夫人」という。今までに県立美術館に来た絵ではモディリアーニなどが最高額で、その3倍という……それであの絵がチラシ、ポスターになっているのか。

 

絵を金額で評価してはいけません。それでⅩ夫人は誰なのか、肖像画としては何を描こうとしたのか、判らない。晩年のロートリックが、何をどう頼まれたのか? それも判らない……すべて謎に包まれるという。

 

Ⅹ夫人は、ほぼ逆光の中で本を読んでいる。光源と本の関係はこれが正確です。この位置だと本に影が射さない。でもこんな顔の見え難い構図を、なぜ選んだか。そう考えると私は最初の問題を思い浮べるのです。

 

私が好きと言ったキリコは、夫婦が生き別れるシーンだそうです。この他、中村ツネの「頭蓋骨を持てる自画像」などが迫る死、その不安を題材とします。ロートレックもそうではないか。

 

自分の死を直視し、たとえば葉はしおれる。嵐が来れば枝は折れる。じゃまになると根からヘシ折られる。明確な意識を持った人も、その意識通りには生きられない。それであらかじめ予測可能な現実を見てしまう。

 

ロートレックには、近親結婚を繰り返した故に弱った血の因果があった。弱る体を肌色の補色、緑の反映の中に描いた。肌色は血色であり、その陰りは緑色。緑カビが生えたように見えますが……そういう関係にある。いま生は人からカビに乗っ取られようとしている。

 

Ⅹ夫人は元気には見えない。それは描いているロートレックの肉体状況をも反映している。捕色ではっきり死期の近さを示す。しかもロートレック個人死ばかりでなく、貴族一族の死、あるいあはヨーロッパの死さえ暗示する。

 

本は歴史を暗示する。読んでいる本から目を上げ、今現実を見た時、欧州が終ろうとして見えた。表情のない暗い眼差しをそう解釈しなければ、どう解釈出来るのか? ひとつ、おバカな心理ゲームで遊んでみませんか?

 

何の絵を描きましょうか? 今、一枚描くとしたら何を描き、昔だったら何の絵を描いたか、それも考えて下さい。それから何時とは言いません、死ぬ直前に一枚描いて下さい。それは何の絵でしょうか? その絵、近いのでかまいません。その絵を壁にかけて見ませんか?

  

●「マルトX夫人-ボルト」ロートレック、死の前年、南仏ボルドーでの作。飲酒は関節を痛めるとされ、ひばりさんの股関節も同例という。緑の椅子の女は陰が深い油彩、肖像画としては不自然な角度だが、コピー画も人気がある。

●大原美術館展の初回は12・15に書いてます。

 ●シュブルールの色彩調和から対比 色相対比の調和 補色の調和、彩度差も大きい調和

2012年5月 3日 (木)

フォトレタッチGIMP2

0321_9「すぐわかるGIMP」でのレッスン。コンパクトカメラで取った写真を加工して「一眼レフで撮ったような背景がぼけた写真を作る」を学習します。出来た映像がこれです。

 

本書では材料、チューリップを使っての教習を、蝶が好きなので勝手にモンキチョウに変えます。ややこしい経過を経て、このように写真の修整が出来ます。

 

キチョウ部分にピントがきて、花はおおむねボケている。キチョウの来ている花は別、大きな花もボケているので自然のボケとは違う感じが出、バレてしまう。キチョウを中心にトリミングすれば違います。すると小さな蝶が大き過ぎる不自然さが出ます。

 

意味は判りません。指示通りに数値を打ち込むだけ、もう少し大袈裟にボカしたり、もっと普通っぽくとかの加減は出来ません。本をパラパラ見ると、やれば楽しそうです。だが指し当たって、必要なさそうな教習が多い。

 

この教習も、実際には人物写真で背景をボカす使い方になりそうです。お父さんやお母さんは、我が子をシャープに隣の子をボカす、そういう風に使いそうです。

 

最近、写真を撮りません。身体の動きが悪くなった事もあるが、関心の題材が無くなった事は大きく、川原とか原っぱとかが少しづつ消えていく。モンシロチョウは見かけたが、このモンキチョウは今年、見てません。

 

「すぐわかるGIMP」ではCDロムが付き、教習画材とか、GIMP本体、日本語ヘルプが収録されています。誤まって違うソフトをインストールしたり、日本語ヘルプがどこか判らない。そういう初歩的な間違いはない。

 

ただしGIMPは初心者のソフトではない。旧のフォトショップの方が、まだ初心者にも判り易かった。フリーだから仕方がないのだが……コンピュータは判り易くなっているのか。難しくなっていくのか?

 

顔写真の修整があって、これは誰でも使うでしょう。自分の写真からホクロやシワを取ってしまう。歯を白くして肌の色も良くする……写真屋さんのように、そんな事が出来てしまう。

 免許書写真じゃない笑顔の自分を取り込んだ名刺なんていいでしょうね。名刺の作り方が出ています。写真の中に写真の取り込みは特別には出てませんが、出来るようになるでしょう。自分で進化して下さい。

2012年4月18日 (水)

少女の肖像

Runosyou 絵に関心があります。特別な関心があるトいうより何にでも関心を持ち、その一環として絵にも関心というべきか……絵の好きな子供は同じ絵を何度も描きます。そういう子がいる訳です。

 

池の近くに花が咲いていて、その花数、池にいる金魚の数も全く同じ……その子の場合は、毎日そういう絵を描き続けます。ピカソが、青の時代に蒼ざめた人物たちを描くのに似ています。

 

なぜ蒼、あるいは青か? 青年ピカソがまだ貧しく、青絵具が安かったという説があります。ピカソに恋人が出来ると薔薇色の時代になります。どうも孤独の色合いが蒼だったのかも知れません。

 

その子の花と池の連作は、やがて山に登るクルマの連作に移ります。子供の心ですから池でもクルマでもいいような物の、ひょっとして本人にも判らない。理由が何かありそうです。

 

理由が判らなくともピカソは鑑賞できます。蒼とバラの色の違いに関心を持たない人も、鑑賞者はむろんある。ただ描かれた絵は描いた人の気持ち、心のあり方と無関係という事はない。

 

それがもし判れば、うれしい。脳学者茂木健一郎氏によると、気がついた瞬間に脳の中に何かが起こる。サムシングエルスがいいコトという。そしてコトの影響は脳から身体全体に及ぶ。

 

注目を浴びたフェルメールは、前には注目されなかった。それも全体に注目が来たのではなく、真珠の耳飾りの少女、青いターバンの少女とも言われるが、この少女一作に注目が来てから全体注目に行きます。

 

あの少女はたとえば、ルノアールの少女とは違う。フェルメールはとても短い、一瞬を描いている。立ち尽くしたりポーズを取って絵ではない。たとえば恋人を待たせ、これから外に出て行く。

 

その為に鏡を覗いて、家族のいる方に目をやり、目はやるけども家族にそれ以上の関心はない。デイトだか何だか知りませんが迎えに来た恋人と共に、やはり外に出て行く。そういう一瞬を捕らえている。

 

どんな少女もいつか結婚し、家族を置いて家を出て行く。新しい人生に向かう……それは必ずとは限らないが、少なくとも可能性を抱えます。画家フェルメールに、その可能性は眩しく見えた。

 それで真珠の耳飾りの少女、あの絵を描きます。絵を描いたフェルメールはこの時、中年、まだ老人という程ではなかったのに、なぜ……謎は解けると、もうひとつ別の謎を生む……まるで解けないパズルのように。