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2017年12月21日 (木)

聖夜にて

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 ありがたいと思う気持ちを表すこと、または気持ちその物を感謝という。別に難しい事ではないが、平素に抱けない。なぜなら人の心は大抵、フラットではない。昨日のニュースでは6才の少年がサンタへ覚めた手紙を出した。
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「僕は授業のためにこれを書いているだけ。あなたのいたずらっ子リストは空っぽ。いい子リストも空っぽ。あなたの人生は空っぽ。あなたは、今までの僕の悩みを知らない。さようなら」。サンタへの手紙は「love」で結ばれているが、「自分の名前は書かない」とあり、男の子は名乗ることを拒否している。
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 仏教で感謝と言うこのことをキリスト教では愛という……少し違うかもしれないが何、大差はない大筋で同じです。だが愛し合う同士を見て、嫉妬する人がいるように愛を抱くことも平素は出来ない。私などは通りにすれ違う健常者ごとに嫉妬しますので、かなりの所、頻繁に忙しい。そこの胴長で足の短い君、君のことも忘れずに嫉妬しよう。
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 悟るというと難しいが最後まで知って気がつく。映画「メッセージ」を見終わって、すぐにもう一回見ることにした。コーヒーも入れずにそう思ったのは間違いかも知れない。もう1回みれば結末が変わる気がした訳ではない。自分が結婚する相手と、生まれてくる子の行末までも知った上で、人生をもう一度生きてみよう。
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 最後まで生きてみようとする。つまり知る事は許しに似ている。感謝できる結末かどうかは生きてみなければ分からない……どうであったとしても許せるだろう。ここでの許しと感謝はほぼ同じか……厳密な解釈はしらないが何、大差はない大筋で同じならそれでいい。そう思ってネットを検索すると、映画「メッセージ」についてこんな記載があった。
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「こんな話に誰が納得するか。こんな話を引っ張るなら宇宙人と戦争しないと意味ない。観客はそれを待ってる。インデペンデンス・デイのほうがマシ」
 いやあ、なるほどと思う。つい笑ってしまって困る。この感想はちょっとしたギャグだが、書いた人は本気です。知らないでコップの水をこぼすように、無意識で感じる感謝は感謝だろうか。こぼす事はあっても無意識に水を汲むことはない。キリスト教より仏教は少し無理をしているいうか、意識過剰なのです。
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 仏教の意識過剰には理由がある。ブッダが仏教を始める前に、インドにはヒンドゥ教があった。ヒンドゥ教とはカースト製や多神教の、仏教の土台となる宗教です。私は前世とは潜在意識のことではないかト思っている。私が子供の時に、両親や家族の影響を受けたように、仏教はヒンドゥ教の影響を受けた。
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 キリスト教はユダヤ教の影響を受け、イスラム教もユダヤの影響にあった……違うかもしれないが、私は私の考えだけで生きているように見え、潜在意識の上に生きている。意識下の愛は憎悪や劣等感に影響され、明確な意識も存在する。つまり完全に自立した意識ではない。
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6才の少年がサンタへ覚めた手紙を出すように、私の神への祈りは他愛なく歪んでいる。私の愛は歪んでいる。むろん憎しみや哀しみや、その他様々な感情や前提や思いも、似たようなところにある。少しましな部分もあるかも知れないが、それは錯覚というものだ。

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