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2017年6月

2017年6月 2日 (金)

こころ3

 我は我が咎を知る。わが罪は常にわが前にあり……別れ際に美祢子は三四郎にそうつぶやく。恋愛では相手の都合をも差し置いて、自分の都合を優先します。
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 都合が出来たから、美祢子はもう三四郎と付き合わない。先生も都合が出来たから静、奥さんとは最後まで付き合わない。2つの小説はこの点で同じ構造になっています。
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 その共通項目はどこから来たか。西洋から来たので、もともと日本にはそんな決りも裏切りもなかった。もっというとこれはキリスト教の決りでしょう。日本では人が死ぬ話は縁起が悪いからしない……それが日本式、日本のもともとの決りです。
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 だが日本も神道だけでは間に合わないので、まずは仏教を輸入しました。それでも間に合わないと西洋を輸入したのが明治期です。純日本で間に合わすか、仏教で間に合わすか……漱石は見合いで結婚を決めます。
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 見合いは別に悪くはないが、鴎外はドイツで「舞姫」に当たる恋愛事件を起こします。この恋愛はまとまらないのですが……漱石はそういう具体的な経験なしに恋愛を書いたト私は思います。
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 自分が死ぬ前に、自分の死んだ先を考える。死後への指示を書いて残しておく。それは西洋式で遺書という体裁になります。西洋式とはいっても書くのは日本人で、本当は日本式に馴染む。死ぬ間際まで見極めがつかない。それどころか時間切れに終わってしまう。
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 後世の都合でカタがつく。恋愛も同じで、なかなかカタかつかない事情がある、まあそんなものです。恋愛に向いてる人は10人に1.2人もあるでしょうか? あなた自分でどう思っていますか。私hataに言わせると恋愛に向かない人が、見えを張って恋愛に挑んでいるように見えます。
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 お釈迦さんは絶食で悟りを開いたものの、死にかけます。通りがかりの女性が彼の命をすくいます。もう悟りを開いた釈迦としては死んでもよかったが、女性は自分の母乳で粥を作って食べさせる。それで生き返ります。意味深長ですが、そういう訳で死は性衝動とセットになってます。
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 キリスト教はそこを意識した宗教で、近代からはフロイトが無意識を問題にします。「こころ」が「舞姫」より優れる理由は、ここにあります。先生は生きてる奥さんより、死んだKに執着する。奥さんを置いて自殺するとは、そういう事です。Kと競ったのは、お嬢さんが大事ではなく、競うKが大事だった……ト先生は気が付いた。

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 この症状は統合失調症のせいか、同性愛のせいでの結論かは、私hataも分かりません。そういう事があったとして、一般にこういう結論になるとは今も思えない。そういう意味では「こころ」の結論は、いつも納得できない。一般には……
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 熊本日日新聞が熊本震災から一年後の作文を募集し、その選考結果を3作品ほどにまとめ発表しています。若い夫婦と赤ちゃん、その祖父母、あるいは友達の関係絆とのまとめ方です。端的にいって、私も地震では死に損ないました。死に損なって感じる生きる衝動は、性と思う。
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 先生と奥さんの間には子供がない。漱石と鏡子夫人の間はちがう。「こころ」では一人称で人物と読者は対になる。つまり漱石と読者は主観の語りでユーモアなしに進行します。それは当時の小説の極限と限界を見せます。
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 若い先生と死ぬ前の先生は同一人物にも関わらず、統一できなくなっている。先生とお嬢さんの関係は、先生と静とで食い違う。違いを微妙で小さいとみるか大きな隔たりと見るか……原因は性は本能であり無意識、意識は知識であり言葉で操作できる……その辺にありましょう。(続く)