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2014年11月17日 (月)

パスキン展

Pasukin

 色を先に置けば、線はあとに、にじむ。線を先に引けば後の色にかすれる。どっちでもいいが、にじむ色とかすれる線だけが、絵の世界を構成する。むろん現実世界に、二次元の線も色のにじみもない以上、描かれた世界とは虚構でしかないのです。

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 パスキンの絵には、絵自体の持つ矛盾、絵そのものを描く。だから線はかすみ色は薄まり、線と色が食い合うように存在の彼方へ消えて行く。原稿用紙1枚近く書いた原稿の、たった一文字を消しゴムで消せば、はずみで一句を消す羽目になります。

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 そして一行を消せば数行を消す羽目になる……消しゴムで原稿一枚までは消さないが……もう数字まで書いた一枚分を、丸ごと丸めて捨てることはある。その意味で、ですが……パスキンの絵はチリ箱の中の原稿用紙に似ている。

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 もっとも最近はメモ以外は紙に書かず、パソコンのディスプレーに打つのが大半……これも絵を説明するのに作った話に近くなります。だが丸っきり嘘とは言えないでしょ? 一枚の絵という存在がそうだったとして、パスキンという人の存在がどうだったか?

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 裕福なユダヤ人の一家に生まれるが、1930年に45才で自殺。なぜか? むろん特定はできませんが、ナチスの台頭、うつ病、アル中、ダブル不倫と条件は、むしろそろいます。それで浴室で手首を切り、したたる血でドアに短いメッセージを書き、首をつる。

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「ADIEU LUCY」(さよなら、リュシー)典型的とほめていうか、ありふれるとけなすか。破滅型芸術家のよくある光景になります。そうすると作品の主題、その解釈も容易に見えて来ます。リュシーというのは友人の奥さんで、この展覧会のポスターにもなった絵。

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 ただし絵はリアルな現在形ではなく、出会った頃の若いリュシーが描かれます。もしかすると想像上の、少女のリュシーかも知れません。パスキンは椅子に座った子供の絵をよく描いている。物心つく前の幼い少女、現代心理学では女性の性の訪れは早い事をいうが……

 画家としての出会いはパスキン25才、モデルをしていたリュシーは20才そこそこです。パスキンの絵は一応はモデルを置くが、一種の自画像として内面の孤独を描きこむ。現在形では中年同士、むろん実在の家庭を抱え、お互いに幻想の相手を求める。

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 パスキンは椅子に、家具として家庭の意味や家族を見ている。同時に椅子は喪失の象徴になります。大人になればやがて崩壊する家庭と人生感があります。だから座った若い人物を描く、それは男より女、たとえば太宰治の手記体の小説につながります。

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 現実にはパスキンも中年ならリュシーも中年、短い逢瀬にデッサンを描いて、それを再構成した絵ではない。幻想とも追憶ともつかない、夢の画像にパスキンの真骨頂がある。なぜ私はそう思うか、たとえば障害者は家から離れ施設に収容されました。

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 家に居られてはジャマになる……そういう訳の時もありで、そうでない時もあり、社会にあってはジャマにされる時もあり、そうでもない時もある。弾き出されたようにポツンとある。弾き出されたことのある人は、人の中にあっても自分がポツンとあることを知ります。

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 つまり色を先立てれば線はかすみ、線を先に引けば色の後に滲む。書いた光景から、自分を残すか他人を残すか、自分で消えなければ誰かが収容にやって来る。居てもいい場所はどこにもないから、ひそかに無言の告別をするように滲む悲しみ、それがパスキン。

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●パスキン展、熊本県立美術館本館で2015年1月12日までの開催。

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