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2014年2月

2014年2月28日 (金)

暫く休みます

Nekonoe

都合によりブログを休みます。

再開は3月16日くらいになります。

追伸・・・本日20日ですが、再開の見通し立ちません。これは月末かなあ。

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2014年2月24日 (月)

週刊ロビ

Robi

何でも思うように簡単には行きません。悪戦の果てに夜が明けて、疲れ果て30分だけ眠る……例のデアゴステーニ社で、ペットロボットを作る「週刊ロビ」を刊行中(再刊)という。だが果たして何人が、このロビを完成できるのか?

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ロボットと言ってもメカ中心の男性向け、カワイイ系の女性向け、いろいろあります。SONYのロボット犬アイボは高齢者にも人気だったそうな……ロビも毎週パーツを一つ一つ買い揃え、70号で完成するそうです。

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第1号は790円だが2号以降1980円となる。全額は14万円弱となる。書いたように、これを困難視するブログも、すでに出ている。しかし完成を夢見れば諦めかたい。そんなに人気なら完成製品で売れば良かろうに?

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そう思うのは私のように浅はかな考え。完成品で売れば誰でも買える。その分、ロマンチックでもなくなる。アイボのように飽きられるのも早い。完成させる人の少ない、よく判らない未知と希少に、人気の秘密がある。まぼろしのロビという訳です。

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DOS時代のパソコン雑誌に、原稿読上げソフトが、未完成版で付きます。私は買って来て、これを使うのですが、半年ほど組み込みに手間取ります。友人などもドレドレと関心を寄せますが、これは出来ないとあきらめます。

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最後には使いこなしたから、大昔の自慢になります。ソフトを校正と推敲用に2年ほど使って、だんだん面倒になり使わなくなりました。視覚障害者から問い合わせがあり、電話で使用模様をお聞かせもします。当時としては注目をあびます。

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そして3年後、完成版のソフトが売り出される。だがあまりは売れなかったト思います。煩雑な割に成果に結びつかず需要は低かった……自作ロボットと聞いて、あの時の事を思い出します。あの頃ソフトで身に付けたDOS知識は、ソフトその物より役に立ちました。

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ロビも完成までが難しそうで、壊れやすく修理パーツも取寄せ難いのでは? そういう状況が見えてくる。実は私もそそられるが、手は出さないが無難です。思ったようにならないからこそチャレンジ心が大切ではありますが……

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2014年2月23日 (日)

カポーティ 映画

Capote

どこにも題材はあり、他の誰にも決められない。Aについて書くかBについて書くか、それは書き手の裁量で誰かの決定ではない……とは言うものの、実際にはAとBが同じではなく、書き手にとって感情が入れ易いサイドはある。

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トルーマン・カポーティが事件の載った新聞を切り抜くシーンで映画は始まる。後に「冷血」と題されるノンフィクションは、カポーティ本人と犯人の共通点をあぶりだす。映像はいかにも品よく絵のように美しいが、映画が描こうとした物はそうではない。

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カポーティの母はアル中の後に自殺し、父はもっと早くから行方不明。これらの事で成人後もカポーティはトラウマを抱える事になる。一家4人惨殺事件は起きたばかり、新聞には犯人の境遇どころか、まだ名前すらも載っていない。

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カポーティは運命的な自著を、すでに勘で嗅ぎ当てている。なぜそんな事が出来たか? 怪しげな運命論、カポーティこそが天才だったと言う説、私はよくある記事は、もう書かない。とりあえずは……そういう事もあるとしか説明しない。

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書いたようにカポーティは寄る辺ない境遇です。学校には行けず独学であるため、知るより感じる方が先だった。教えられての記憶より、勘による直感がよかった。そう思うが、映画内では「94%の正確さで記憶する」と断言している。

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女流作家ハーパー・リーと幼なじみで、アラバマ物語の中でも登場人物の一人はカポーティがモデルという。映画カポーティでは、そのリーが取材助手になっている。そしてリーの存在ですでに、カポーティの同性愛者を感じさせる。

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捕まった犯人ペリー・スミスは、無意識に自殺願望を募らせる。食を拒絶するスミスに離乳食を運びながら、カポーティもまた離乳食をサカナにひとり酒を呑む。鬱積する気持ちをギャグにまぎらそうと、夜な夜な呑み会をしないと納まらない。

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新聞を見た時に惨殺事件は、カポーティの心の中で、すでに起こっていた。これを書いた後、カポーティは長編を書いていない。あまりに書きたい物を先に書いたので、次がなくなる。よくいうスランプに落入ってしまう。

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むしろスランプはありふれている。助手を務めたリーもアラバマ物語以降はなく、スランプに入り込んだのです。カポーティの冷血の前作「ティファニーで朝食を」も映画で見た。不遇な二人の商売女の話とも読める。つまり主人公ホリーはカポーティ自身だろう。

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●このナルシスティックな画像は映画ではない。ホフマンでなくカポーティ自身による。

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2014年2月22日 (土)

スカッとする映画

Matiyama

映画評論家、町山智浩さんのところに以下の投書が来ます。 「ボクの場合、映画はフラストレーションのイライラ発散のために見るので、時代背景を読み取ったりセリフの意味を探ったりは、恥ずかしながら出来ません。ボクは頭をカラにして映画を見ます。ごく一般的なアホな日本人ですね」

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簡単にいうと投書氏は「これじゃ、なんでいけないか?」と開き直る。 で、町山さんはどう答えるか? フラストレーションの「発散のために作られる映画はいい映画です。そうじゃない金儲けに作られる映画を悪い映画」と言う。

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だが町山さんは、ここでちょっとした言い換えをする。いい映画例に「ロッキー」1作目を持ち出し、無名時代のスタローン本人のイライラ欲求不満を、例の鮮やかな口調で語るのです。

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町山さんは直接は言わないが、必然的に2作目以降のシリーズ化されたロッキーは、金儲けの悪い映画になる。悪い映画の具体例はスターウォーズなど、ハリウッド映画がいろいろ上がる。

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投書氏の「スカッとして、ああ、面白かった」というタイプの映画とは、単純に娯楽映画であって、無名時代の屈託したスタローンの思いのこもるロッキー1作ではない……のに、町山さんは本当の意味でのスカッとする映画に論究していく。

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私は笑いころげる。身障者も実は、フラストレーション(イライラ)の元にある。おそらくイライラを感じない身障者はないでしょう。それでスカッとしたい、高齢化や不治の病という方も似たような状況と思う。そう思いながら「最終章をどう生きるか」を書いています。

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投書氏の思いと身障者の思いは、同じかどうかは別として似ている。 身障者の要求は温泉に代表されます。身体障害から少し開放され「スカッとして、ああ、よかった」と思う事で、現実を読み取ったり障害の緩和を探ったりはしない。

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そんな事をすればみじめさを思い知る事になる。障害から少しでも開放されるには、免許を取りパソコン端末を覚える事です。とりあえずは中古の軽を買い、友人から古い端末を譲り受ける事です。

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いや、それより市内に障害者向けの自動車学校を作ってもらう事か? 熊本市内には身障者に向ける自動車学校はない。このことに身障団体も行政筋も関心を示さない。それよりも温泉……投書氏がスカッとする映画を求め、マイナーやアート系の作品に関心がないのと似ている。

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スタローンの自身の主演映画を作りたいという志は「ロッキー」に見事に結実します。だがシリーズ化した同作は、ご承知のように変質していく。自己実現は簡単には出来ない。それなら簡単に出来る事でゴマかしたっていい。いいではないか?

●フラストレーション=欲求が何らかの障害によって阻止され、満足 されない状態にあること。また、その結果生じる不快な緊張や不安、不満。「欲求不満」、 「欲求阻止」、「要求不満」、「要求阻止」などと訳される。

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2014年2月19日 (水)

霧の旅

Kiri

霧の旅を思う。薄い霧の中を行くのか? あるいは濃く深い霧であるかは別として、誰もがそれぞれ霧の旅をしている。見通しの立たない中を、ただ先に向って行く。すぐ側を隣あったとしても深く関わり合うことはない。

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デイサービスの介護風呂で、棺桶に入る時の衣装が話題になったという。女性は昔のように浴衣ではなく着物を着たいという。化粧師が凝った化粧をするから、化粧に合わせたいい着物を着たい。目標というか、ひとつの希望です。

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話はどう進んだのか? 話はそこまで……骨の丈夫な女性は若い時のままだが、骨粗しょう症の女性は背が縮む。早くに着物を用意しても合わなくなり、顔も変わる人と変わらない人とあって、見通しはそれぞれ、だからそこで話は終る。

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格闘技もいろいろあって年配の柔道家は30才にならない内に柔道を止めてしまう。コーチにもならない人は、柔道だけでなく多くのスポーツから一切、手を引きます。そして何もしない。霧島酒造に霧という焼酎がありますが、画像のこれを飲むかも知れません。

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――現役後はどうします? とある若い格闘家に聞いた。若いが、小中学生にコーチをしている女性です。

「判りません」とあまりに答えが早いので、

――あなたは、その、どこまでが現役なのですか?

「判りません……いつか勝てなくなるとは思うんです」 格闘技は勝つことが目的、目安になる。

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――バトミントンの陣内貴美子さんは……大会とか試合に出なくなる意味と思うが、現役後の方が長いと認識があったらしい。それは現役中からの認識になります。

「陣内さんは!……私は判りません」

質問の意味が判り難いか? 格闘技は勝ち負けでも、スポーツは勝ち負けでは、ないのではないか、ト私は聞いたのです。

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合気道では車椅子の身障者が健常者を投げる、そういう荒技が成立する。ただ合気道ではかかって来る相手に対応する。健常者が身障者にかからなければ、この技も出せない。合気道においてはコーチとは言わないが、実際に高齢のコーチ役が成立する。

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ある意味でだが、合気道は格闘技ではないのか? ここで女性が棺桶に入る時、何を着るかの話に、私は重ねたいのです。霧の中を旅すると自分のほかに他人は見えない。深い霧の中、すぐ側を歩かれても、その人は判らない。

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生きる目的、目標、目安……霧にまかれ何も見えない。健常者の霧は浅く身障者の霧は濃いのか? あるいはその逆か。若い人生の霧は浅く、高齢の霧は深いか? あるいは大した違いなどなく、見当が付かないことは似たようなものか、それで目的も持ち難いのか。

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目的が見えれば、お互いを比較し目安にし、激励したりされたり、単なる挨拶ではない会話に入れるのか? 霧の旅でも独りではないのか? 若い格闘家は困った顔をしている。コーチをしている小中学生は、このような変な質問をしないのでしょう。

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――若いからなあ。判らない、かあ?

そういうと格闘家は少女の顔になって笑った。

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2014年2月18日 (火)

最終章をどう生きるか

Yanagida2月12日、柳田邦男講演会でした。氏は95年に、精神を病んだ次男の自殺する体験を綴った『犠牲(サクリファイス) わが息子・脳死の11日』を発表し、第43回菊池寛賞を受賞した。これ以降、精神論・終末医療の著作が増え、また若者や若者文化へ批判を始める。

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医療や宗教、終末ビジネスも変わり始めている。入院した患者に何もさせないエンディングから、最後の希望を聞くホスピスへ、社会は変化した。柳田さんのいう例で、ホスピスに来た人に何を一番したいですか? ト聞く。

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「コンサートに行きたい」という患者、それでホスピスは何とか工面をつけ、コンサートに連れ出したという。それで次にしたい事は何ですか、また聞く。温泉に行きたいとホスピス客はいう。ホスピスはまた工面をつけるという。

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むろん勘定は患者、客持ちだろうから、一種、金取り主義と言えなくはない。入院した患者、客をベッドにしばりつけ、点滴だけ打つより、その方向がいいのかも知れない。ただコンサートや温泉は、もはや行こうと思えば誰でもいける。エンディングの終末に際し、わざわざ行く所か? 疑問には思う。

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実際に柳田さんの奥さんは絵本作家で、終末には毎日一枚、絵を描かれて過ごされた。これと似た例として額縁職人さんが額縁屋の自宅で、家族に技術を伝えて亡くなられた。そういう末期がんの例が上がります。特殊な技術をお持ちなら、それで勿論よく、私などがとやかく言う筋ではない。

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つまり残った時間を有効に生きる。最後の思いを作品や、家族と共有する事になる。しかし自分といえる人生が何もなく、娯楽のコンサートへ温泉へ行きたいと……そうも私には聞こえるが、そうなると疑問がある。個人の勝手という意味では、むろんとやかく言う筋合いはない。

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一体どこに疑問を持つか? 末期でない身障者の要望はたいてい温泉に集約される。女性の要望はたいてい芝居に集約される。今時の女の子の要望がディズニーランドに集約され、男の子の要望はゲームに集約されるように……です。

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若いお父さんはゲームが好きで、週末は子供を遊びに連れ出すより、自室にこもってゲームをやりたい。そういうお父さんは増えてます。柳田さんがなぜパソコンやケータイを毛嫌いされるかは知りませんが、ゲームはあくまで個人に帰結します。

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端的にいえばですが、家族にも社会にも関係がない。ディズニーランドも、それに準ずる側面を持つ。コンサートも似ています。温泉センターには家族で行くが、お父さんは酒が呑みたい。お母さんはカラオケが歌いたい。息子と娘は遊戯設備を使いたい……そういう意味では、すでにバラバラです。

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柳田さんの奥さんや、職人のような具体例はいわば、社会の達人、エリートに属する人のものではないか? 生命学者の柳澤桂子さんは原因不明の難病にかかります。オーバーに言えば明日をも知れぬ身になる。それでWIN95のパソコンに買い直しをされる。

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悲愴と笑いは紙一重です。同じ95年頃に、私は友人とDOSにすべきかWINにすべきか。死ぬほど悩んでいました。この友人とは社会的な会話をするように見えながら、実は私は個人に帰結していた。最初のパソコンソフトに、友人は占いを買い、私は原稿の読み上げソフトを買います。

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一家で温泉に行っても、個々それぞれに温泉館の利用の仕方が違うように、パソコンは利用の仕方が違う。人生の終末もそういう事ではないか? むろん出来るなら家族的、社会的に帰結したがいい。それは私も判ります。だが現実がそうも行かなくなっている。

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温泉は、その筋に依頼すれば叶う要望です。ホスピスに行かなくとも、対応する温泉が存在し、老人や身障者を送迎する。そういう福祉タクシーもある。むしろ問題は知らないが人がいる事。柳田さんはパソコン、ケータイはアレルギーで、情報を積極的に入れられてない。

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意外だがジョークではなく真面目に言われる。講演内容はパソコンソフトの表示もあります。ただ簡単な表で、多くは文章シュミレーション。絵や写真、イメージでの提示はない。むろん勝手、悪い訳ではない。これで安心される人もあるでしょう。世界の捉え方が意識だけで、一面的には見える。

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●県保険医協会 主催。「人生の最終章をどう生きるか 『物語を生きる 人間』の視点から」 参考「壊れる日本人」ケータイ・ネット依存症への告別 (新潮文庫)単行本での発売 2005/4/1

2014年2月16日 (日)

中国と日本

Iokibe熊本県立大学理事長、五百旗頭真(いおきべまこと)さんの講演会に行きます。政動の世界と日本(中国台頭、アメリカの対中、そして日本の針路)との演目です。2月4日(火)

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昔、日本は倭国と言われます。その後に字は和になる。大和とか昭和の和ですが、その前に倭だった事は、あまり触れられない。歴史好きな人は好みにまかせ、都合のいい物語を読み書く。それは裏付けとあまり関係がない。

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今日はレジメ、パソコン表示、何もない。お話だけです。読みは同じでも倭という字の意味が良くない。そういう関係、理由かどうか? 飛鳥時代663年に白村江の戦いに敗れて後の改名といいます。自主的な改名かどうかウラはありません。

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私はメモから若干、事実を調べてます。当時の北朝鮮は高句麗で、今の韓国は百済と新羅と、2つに別れています。2つの国が戦い、百済は我が倭国と組み、新羅は唐、今の中国と組んで戦います。それで百済倭国の連合軍が負ける。

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百済国はなくなり百済から倭国に逃げ込んだ人もあったトいう。663年というから大分、前の事になり日本書紀には書かれているが他に書類もそうない。細かいことは判りません。私などは白村江の戦いは判らず、白村江が韓国らしいと見当をつけただけ。

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歴史的には唐から鑑真が来て、日本に唐招提寺を作った。唐の寺は、中国にはもう残っていないという。唐に学ぶ政策が取られたが、この辺は昭和とも重なります。もっと戦争を続けようとか、そんな事はなかった。この辺りの事を聞きますと、先の戦争とも重なります。

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戦後の間違いは、裁判が違うとか戦争に負けたのが、そもそも間違いとか。いろいろある訳です。「戦争は疲れすぎる」五百旗頭さんの言葉が何となく判ります。五百旗頭さん、涙混じりに日本と戦後のアメリカのエピソードも聞きます。

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それで日本と中国が今後どうなるかについて、五百旗頭さんの言葉はない。誰にも判らない事なので無理もない。むろん私にも判りません。関連ではカナダが中国人の入国を制限する。そういう政策に変わったというニュースが流れます。

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今、中国人はオーストリアとかブラジルとか、行ける国には全部行って、そこに家を買っている。むろんそういう出来る、お金持ちに限っての話ですが……このニュースは正しいのか? 正しいとすれば中国政府が自信を持つほどに、中国人は国を信じてない事になります。

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五百旗頭さんは一時に比べ、中国が軍費を20倍に高めたといいます。これも根拠は示されませんので判らないと言えば判らない。今、私のパソコンの本体は5万です。初期に使ったワープロシステム全体が、100万だった事があります。ですからおよそ、そんな勘定になります。

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そんなに国防費を増やしても守り切れない……この費用は中国の場合、国を守るだけとは意味が違う気もしますが……国民には、それでも信じてもらえない習近平さんなのです。ここで私が同情も僭越な話ですが、つい哀れみを感じてしまう。

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隣の芝生のことわざで言えば、あまり軍備は増やさないがいい。今の部分は、五百旗頭さんの話からではなく、私がつけた結論です。この手の話は、私は得意とはいえずまとめ辛い。質問なし、時間的にはフルスケール使われての、五百旗頭さんのお話でした。

2014年2月15日 (土)

織作峰子さん

Orisaku織作峰子さんは美人カメラマンです。それは女性は誰でもそれぞれに美人といった、軽い意味ではなく、撮影モデルのほとんどを食べてしまう。写真は、ある意味でカメラマンの自画像だが、あれではセルフポートレートでも取る他に、自画像も出来なかろうト……そう思える美人です。

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昔、その織作さんの講演を聞いて引掛った。で、何に引掛ったか考えたが、さっぱり判らない。織作さんの師匠という、大竹省二講演会にも出かけてみます。大竹さんには、それはそれで納得しますが、命題は解けません。画像は大竹さんと織作さん。

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それで命題を諦め、どこかで織作さんの最初の傑作という、アクビ美人を見ます。それで「ああ、こういう事か」と納得します。あくび美人というのはモデル撮影会のあらかた終った。で、疲れたモデルがアクビした、その一瞬を捕らえたものです。

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これはアクビが出る前にカメラを構えた構図の準備、モデルの疲れに共感した感性と、偶然を反射的に捕らえる運動神経が必要になる。つまりカメラを学習して写した写真ではない。謎はひとつ解けると次の謎になって行きますが、織作さんはなぜ、そんな配慮を知っているのか?

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人が配慮を知るのは幸福からではなく自らの不幸からト……誰かそんな警句を言った。だが誰かは忘れます。面倒なことは忘れるに限る。講演は終ったし、幾ら美人でも、もう知ったことではない。そして何十年も経った先日、ラジオで織作インタビューを聞きます。

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晴天の霹靂、織作さんは投槍の体育少女である前に、美術少女だったという。近所に画家が住んでおり、その画家に習ったと言う。通知表で絵は評価5だったそうな……つまり絵筆をカメラに持ち替えただけ、構図の作り方も判っていた。

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ひとつ解けた謎は、また次の謎になっていく。この人はなぜ、そんなに美術が好きになったのか? 傍証になりますがミスユニバースに応募したのは友人でした。本人も了解してのことですが、まさか受かると思わなかったので、そう理由付けされている。

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それは前から言われ、私はよくある謙遜と思っていました。織作さんは体も大きく声もよく、それがいかにも美人のそれ……なのに自分が美人とは思われなかった……不自然です。まだ引掛かる。またそれで考えるが、さっぱり判らない。

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ト、話はここまでです。この先はない。もし先があるとすれば、ですが……織作さんは幼い時に、何かあったのではないか。例えばですがお母さんが亡くなられたとか、良くないことが何かあった。そんな気がします。

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発表の写真を見ると子供のほかに……女性は誰でも子供を撮るのが上手い。ほかにお祖母ちゃんの写真に特色が出る気がします。織作さんの近作は桜、山の中に1本だけ咲く桜とか……つまり一種のお祖母ちゃん写真です。どうなのでしょうか?

2014年2月14日 (金)

サイケデリック

Saike性が生きる意味の大きな部分を占める。そして、その後の子育てになる。大きな宗教の根はひとつで、諸悪の根源を性に見ています。ただ仏教は別で、仏教は性より生に根源を見るのか?

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盗むな殺すなという原則的な悪も、理由を問うと性につながる。カネがあれば自分も、もう少しモテるかもトカ。それを理由に泥棒にトカ、お金持ちを殺したとか、そういった事件になります。

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先の大戦後、聖書に書いてある事は違うんではないかト、言われます。ベトナム戦争で米国が負けますしね。男は女性より偉いとか、白人は黒人より偉いとか、これまでの常識が変わります。

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深く宗教を信じていても、運悪く病気になったり、事故に会うことがあります。何のために教会に行くか、そういう不幸に会いたくない……信心の理由と現実の不合理も明確化して。これを不条理といいます。

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ちなみに11才の私は、あまり信仰していません。病気から身障者になりました。私の若い担当医は、それで不条理を感じたようです。神と人間の合理的な関係が問われるようになります。

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時代の風潮は時々で変わりますが、この流れ、方向は変わらず逆流はない。その中で私は、流れの生き証人になった気がする。信仰を否定した訳ではないが、あまり積極的に信ずる気にはなりません。

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町を歩いていくと人がいいます。あなたが悪かったから、そういう事になったのだ。信仰しなさい。子供が私を見ます。お母さんが子供にいいます「見ちゃいけません」ト、私には世の中が、しっくり来ません。

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身体障害は死にかけ、その死にかけた跡が残った。そう言っていいでしょう。ある意味で死後の形になります。しかし一度も死にかけた事のない人は、死をそういう風には見たくない。 これは仏教も含みます。

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その人なりの違う考えがある。性は妄想を伴ないます。妄想は罪悪感の元となり、聖書では人間の罪をここに置く。著作のネタとしている……2千年の時代が下って色んな事が判ってくると矛盾も出てきた。

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どんなあの世も妄想なら、神との決りも妄想ではないか? そういった考え方が出ます。夢や麻薬からの妄想とこの世界は、根本的に同じではないか。極端にいうとそうなります。

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そういう考え方を、サイケデリックとかシュールレアリズムと呼びます。無意識という意味です。実現してみせると差し障りますので、絵や文学や映画に作品として出す訳です。これは身障の私には合ってました。

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親のような神がいて、子供のような人々を、いつか何処かで公平に裁く。あるいは安らかな死後に導く、そういう世界観から見ると、これらの作品は訳が判らない。まるで性の妄想のように、世界を不思議へ導いてしまう。

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お母さんが子供にいいます「見ちゃいけません」ト、私には世の中が、しっくり来ません。

2014年2月12日 (水)

僕のいた時間 ドラマ

Bokunoita 明日の事が考えられないのは結局、考えたくない。そう思い至らないとは、そう思いたくない。客観的に言えばそうだが、むろん本人は主観の中にある。主人公は、あるいは私は……
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 きのう考えていた、思いの中の今日の、その続きとしての明日しか想像できない。自然なことです。線路が切れたのなら、列車を降り歩くしかない。だが歩く嫌さに、体は動かない。動かない座席にすわり続けるような無意味。
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ドラマを見ると若い頃の感覚が蘇る。それに少し嘘の匂いが混じる。この年になると刻一刻の判断はいらない、そんな息の詰まる切迫感はない……今も明日は不明の時間としてあるが、それはもう過去に似ている。
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 ドラマ「僕のいた時間」はタイムマシンのように、発病の昔にいざなう。拒絶感につつまれ窒息しそうだった昔、主人公のように青春ではなかった。せめての救いは、恋人も何もない事でした。
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 昔は青春期が人生のすべてだったらしい。そういう意味での物心付く前の、性のスイッチが本当に入る前の時間を、重要と思う。最近、そのように思い至ります。
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 千年も2千年も経た古木の下で、永遠と対話する時間。あるいは泳いでも泳ぎ着けない向こう岸を見た時間。それは色気づくと見えなくなる……そんな時間は伸びた寿命の果てに、もう一度帰って来る。
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 普通という伸び縮みする物差しに、自分を当てはめる。足りない自分と余る自分を、日々計りなおした。どうしようにも仕方のない事は、どうしようもない。仕方のない事は、それしか考えられない人に任せておけばいい……だけのこと。
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 ドラマのその回を一度みて、また見直す。あるいは初回に帰ったりする。主人公が乗っている自転車の足裏にペダルの感触を感じる。感触は消えて行き、もう蘇らないという。それは最初からない幻の、不気味な感触です。