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2014年1月22日 (水)

明日、ママがいない!

Mamaga誰でも見たい所を見たいように見る。思いたいようにも思う。つまり想像力でふくらませるが、それは勝手というもので、基本的に見る側の自由です。見せる側の意図は半分で、後では見る方の意図も混じってくる……それが自由という事なのだが。

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露出した時、意図したように「見てくれない」と露出を後悔した身障者はいた。たとえば「障害は不自由だが不幸ではない」と意図する。だが不幸な健常者は、自分よりも不幸な事を身障者に探し、そう見たいのです。でなければ見ない。ブログを読むのは無料だが、本や新聞は有料であり、映画やドラマも、つまり買わなければ見られない。

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むろん読む行為にもエネルギーは取られる。不幸と思う人は、自分より不幸と思える人を探さなければ、不幸を止められない。自分の不幸を止めるためにエレルギーを割くわけで……だから無意識にも不幸を探す。障害であろうがなかろうが、そもそもは関係ない、見たくもない無関心な他人だから。

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騒動なので、ドラマ「明日、ママがいない!」初回を見ます。娯楽ドラマであってアーティスティックな要素はない、ト私は見ました。製作側は初回だけでなく最後まで見てくれト言いますが……視聴率が製作側の目的で、あれでは娯楽だけが目的のドラマに過ぎない。

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映画でも同じく施設出身の子供たちを追った物語があった。「オリバー・ツイスト」をアレンジした「奇跡のシンフォニー」でそういう意味では似ている。ああいうのをTVドラマで作りたい。今の施設にいて、学校に行く子が、どう受け止められるか関係ない。

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そして気持ちが透けて見えるような……ドラマの動機はガサツで作りは薄っぺらく、取材の跡も感じられない。費用を削られたのか、全体に安っぽい。現代の話だから施設だが、思わず孤児院と言いたくなる、古めかしい演出をする。ドラマの宣伝の一枚の画像にも、それは表れてましょう?

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この映像の手の中に杖がある。三上博史さんは役の中で杖をついている。身障者でコツコツと音を立てなければ体の移動が出来ない。いつ、なぜ身障者になったか、説明はないが、そういう意味で私と同じ身障の身の上です。むろん三上さんは私よりハンサムで目鼻が整い、目を引く。

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しかし長い時間見ていて、幸福感が漂うという顔ではない。失礼ながら華がない。なぜか不安な、不幸な雰囲気が漂う。くり返します。華どころか私はハンサムでさえありません。長く一緒にいると、なぜか不安な不幸な雰囲気を感じるらしい。杖を見えない所に置いて、健常者のふりをしても、その雰囲気は抜けないらしい。

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「奇跡のシンフォニー」の最初の方に、施設で主人公がイジメを受けるシーンがあります。主人公は捨て子の身の上を拒否し「親に捨てられたのではない」と言い、思い張るからです。つまり自分は不幸ではない。すると施設の子たちの勘にさわり、またイジメのネタにされる。

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私は何となく三上さんという所から、人間関係を始める。この年だとイジメようとする方もないのだが、まあ上手く行ったり行かなかったり、自分の頭の上の蝿を追うのがやっとこせ……まして若い人に指導やアドバイスは出来ない。だがドラマはそこに自信を持つ、僭越を感じる。

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