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2013年8月

2013年8月31日 (土)

二重らせんの私

 Nizyu命は不思議なものトいう認識は難しくなく、子供にも判ります。カブト虫の幼虫は腐った木を食い、成虫は樹液を吸って生きている。成虫はたいてい1年は生き、珍しいのは2年越しを生きる……飼ってみれば簡単に判る。男の子はそう思う。

 

いえ最近は女の子もカブト虫も飼うそうです。もっともファーブル昆虫記を読めば飼わなくとも判る。奥村大三郎編、訳の児童版「昆虫記」によると、生命の謎を見ていたファーブルの視点は、興味深い。

 

人はなぜ生まれたか? そこまでの根源は問えないが、植物を食う物が動物で、動物の死体を栄養に植物は育つ。人には魂があって、魂の存続に向けてあの世や天国があるのか……簡単には判らないが、この植物と動物の関係は理解できます。

 

男は好奇心を目安に、クヌギ林に行こうトいうと簡単に意見がまとまる。女の子はそうも行きませんで、蚊がいる。毛虫がいる。ムカデが出る……ト行きません。ホントは男の子もムカデは怖い、怖いが好奇心の方が勝る。もしかすると6万円に匹敵するクワガタなんて山っ気もあります。

 

柳澤桂子さんは生命科学者で、私はエッセイ「二重らせんの私」を最近、買います。お父さんが植物学者で「花を摘んでも植物は痛くないのか」ト聞かれたそうです。それほど珍しい質問でもないが、最初から男とは違う発想があるような気がします。

 

植物に神経はないので痛みは感じない……そういう意味でそれはそうですが、もう少し根本的な意味で、植物も自己を生きている気が私はします。動物に比べると関心がうすい。それでそうは見てない気がします。

 

ただ男も老齢化すると植物に関心がいくようになり、植物のあとは石や岩に関心が向う、そう聞いたことがある。ただ実体験はなく、人にも寄りけりト最近は考え直します。植物が好きな女性、動物が好きな男、一般論で根拠はありません。

 

東南アジアに行くとクワガタを探して木を切る。最盛期に日本に来ると一匹6万のクワガタがありましたから、そういうのを求めてクヌギを一本、丸ごと抜いて切ったそうです。そうなるとバランス感覚上、クヌギも痛かったろうト私は思います。

 

花を求めて増やされるキクやカサブランカは、喜んでいるか。あるいは他の植物に妬まれているか……そういう風に擬人化すると思い入れの入れ過ぎでしょうと……柳澤さんは5才時から、野原に捨てられた猫や仔犬を拾ったそうです。家もそれを許したらしい。

 

子猫を拾って来て、しばらくすると親猫が子猫を探してやって来る。それが文面だけでなく、写真に撮って残してある。1943年ごろにカメラがあって何時もフィルムが入っていたらしい。お父さんの商売道具かも知れませんが、文化水準の高さが伺われる。

 

何を根拠に物を考えるか? 不思議な物を不思議として見る目は、一代で出来る物ではないかも知れない。命のバトンは植物か動物かという考えも浅いかも知れません。もし、あったとしても魂から魂へのバトンは、とても深い意味があるとは限らない。

 

2013年8月30日 (金)

マンガとアニメの表現

 Kennetu様々な問題をめぐって「はだしのゲン」「風立ちぬ」がそれぞれ話題になっています。私はどちらも見ていない。はだしのゲンについては発表当時、噂は聞いており、読みたいとは思った。どうしても読みたいとは思わなかった。風立ちぬについては今、現段階でそういう受け止めです。

 

マンガやアニメには昔から、そういうスタンスです。映画や文学に比べると関心がうすい。どうでもいいトいう事でもないが結果からいうとそれに近い。その一方で矛盾はするが、どちらも題材が特殊で他に類がない。見ないより見たがいい、そう結論も出ます。

 

私はリベラル寄りです。保守化といわれる最近の傾向には、感覚的に付いて行けない。ただし、このブログにも書いているように、三島や川端さんの文学はよく判る。公房はともかく大江さんに比べると、むしろ共感します。二人とも札付きの保守です。

 

民主にも共産にも共感はない……というと本当の本当は、中立ではないのか? まあ、そうも思います。はだしのゲンについて調べると、初出の「少年ジャンプ」の当時からそんなに人気はなかった。編集長が特別視して連載を続けた。そういう経過がネットにあります。

 

風立ちぬに関しては、宮崎アニメではあるが子供向けでは必ずしもない。宮崎作品としては最後になる可能性も……という事で一番人気、そういう作品でなければタバコシーンが多い事も問題にならなかった。映画としては面白いけど玉にキズ、そういう可能性がある。

 

私はタバコは吸いません。若い頃は吸った時期もある。よく言われるようにタバコのタの字も見たくない。今は脇で吸われるのは迷惑です。強い嫌煙の傾向にあります。一度も吸ったことのない人のように、ゆるい嫌煙家ではありません……アニメ見たら嫌になるかも。

 

私はそうですが、一般論としてこの映画も機会があれば見ます。ケムそうだから見ないとはしません。監督の宮崎さんは愛煙家でしょう? 昔はタバコを吸うのが普通というと何ですが、喫煙権が確立されていた。監督としては時代への郷愁もあるのでしょう。

 

で、出してみたら叩かれた。首を縮めておられるのかも……自民、公明、その他保守支持の人たちも、民主のつまづきに乗って一気に保守化を狙ったら、思ったほど全体は保守化しない。好みの分かれるマンガに封をしようと思ったら、逆風を食らってしまった。

 

言ってはいけないが、そういう共通性は感じますねえ。私? 私はこのまま、世間がどうなろうと私は私、変えようがない。代わりようもない……東日本が大変でも原発が怪しくとも、ある意味では平和です。何だかんだ言っても他にネタがない。そんな所ではないでしょうか?

 

 

2013年8月29日 (木)

視力回復ソフト2

 Siryoku視力回復ソフトとは言うけれど、目が良くなる場合もありいの……むろん悪くはならないだろうけど、まずショボショボ感が取れる。人によってはそれ位の効果、言い回しが妥当だろう。高齢まで何もしなかった人には、それなり結果がある。

 

 

 

個人差があるので私の体験も一般化はできない。それは視力回復ソフトではないが……youtubeに光浦靖子さんの、5分の目の体操で劇的に視力回復する映像がある。羨ましい話ではあるが、これも一般化は出来ない。むろん嘘とも言えないが。

 

 

視力も目の筋肉を使うので、その筋力が失われたら見えは悪くなる。目の筋肉を使う一方で脳内にスクリーンがある。スクリーン調整も、しなければならない。目も色んなものを見て自分を調整する。それをしない。まあこんな物と自分を見限った報いはあろう。

 

 

 

長年、関心をしぼり決まり切った物ばかり、全部を見ないで部分ばかり見ては機能も落ちる。パソコンの次は猫遊びというのではダメで、窓の外の遠くに向って歩いてみる。つまりバランス上は犬と散歩が向いている。

 

 

 

生活のバランスをさんざ欠いておいて、我がママの挙句に……目が悪くなっても自業自得が当り前。昔だとそれで寿命、一巻の終りとあいなった訳だが、幸か不幸か寿命が伸びた。身体は、目玉は大事に使わなければならない。

 

 

 

若く気がつけばよし。光浦さんの年齢、アラフォーで気がつけばいいが、それから遅くなると間に合わない。つまり手遅れになる。寿命は伸びる。それなり手当てはしなければならない。

 

 

 

視力に限らず、こういった事柄が情報は増えている。新しい情報には意味がある。面倒がったり判らないで済ます。また行き当りばったり、出たとこ勝負では不心得となる。心得のあるなしで差がつくのは当り前になる。目の手術なら十万、二十万は相場だろうか?

 

 

 

 

 

パソコン買ってネットにつないでYoutubeで視力回復すれば同じような価格になる。言い回しが大袈裟になったが……使い始めて、かれこれ10日、私にもありがたい効果が少し出てきました。やれやれで今止めると元にもどります。

 

 

 

習慣化したものは続けなければいけません。それでは光浦さんのヤラセじゃないかとも思えるような映像を下に……

 

 

 

●光浦靖子さん目の体操 http://www.youtube.com/watch?v=v9C4MAByXic

 

●視力回復ソフト(1)は2013.8.20に。

 

2013年8月28日 (水)

再生のテーマ

043_2子供の生き物への関心も様々です。私が子供の頃は、もっぱら昆虫で、いつからかトンボから蝶へ関心が移った。なぜ蝶か……美しいからという理由は主観でして、客観的には変身の度合いから落差が大きい。気持ちが悪い人もいる。

 

幼虫から成虫に向う落差は、死と再生、昇天を暗示するらしい。昆虫好きの強力な味方は養老孟司さんで、養老さんは甲虫がお好きらしい。全部どれも標本に作ってコレクションしていると人が欲しがるので、上げてしまって、残ったのが小さい甲虫と聞きます。

 

それは大きいカブト虫ではない。甲虫も植物の死を前提とし、その再生である事が多い。枯れたクヌギからはカブト虫やクワガタ、イチジクからはカミキリ虫、エノキやケヤキからは玉虫……植物を枯らす場合もあるが、例には枚挙にいとまがない。

 

もっと大雑把にいうと昆虫の死が植物を育て、植物の死は昆虫を生み出すトいう循環がある訳です。仏教では輪廻転生といいます。あれは人から人、せいぜい動物に生まれ変わる事を言いますが、自然界では人間も含め、動物の死は植物を育てます。

 

ハナミズキに生まれ変わりたいとか、シマトネリコとか思えばいいのです。私、私はクスがいいかな。熊本はクスが多いです……今年のように暑い夏の光の中に黒々としげっている様は、いかにもと思える。ただそれだけ、クスは秋も冬も変わりがない。

 

ハナミズキが人気なのは春に花、秋に落葉がきれい。手がかからず人に例えると色っぽい。虫も来ないし……クスは人気がないでしょう。シマトネリコもそうだったんですが、最近はカブト虫が来ると話題になっています。嘘か本当か、まだ真偽はさだかではない。

 

散り際だけで、桜が良かった時期もあります。男は植物に関心がうすく、書いたような理由でハナミズキやシマトネリコと言い出したのは女性でしょ? 庭木には何でもいいような物の、カブト虫が寄るというので男達も注目した。カブト虫はモテますなあ。

 

自然に近づけて考えれば、そんな流れも感じられる。木肌に傷がつけば樹液が流れ、樹液が甘ければカブト虫が来るかもしれません。ある程度は樹が育って古くならないと無理で、共存の時期はあるにしても、植物と動物は死と再生がテーマになります。

 

お母さんが早くに亡くなったので、お母さんを百合に例えた作家があります。もう一度、百合に生まれ変わってもらって会って欲しい。そういう願いでしょう……私ではありません。シマトネリコを植えた家では孫の代に、祖父ちゃんと祖母ちゃんが花とカブト虫に生まれ変わって再会するか?

 どうでしょうか、私は知りません。甲虫は生き残りますが、蝶は滅びると言われる。植物と動物の共通点は水で、水を合い言葉に共存します。水際は湖、川になり、川があると生物は栄える。生物にとっても競争はあって、競争の中から寄生も出て来ます。

2013年8月27日 (火)

リバー・ランズ・スルー・イット 映画

 River予想では無神論では固い、読まれないト思っていました。しかし視聴率は普通から、それ以上でした。ありがとうございます。くどいようですが、もう一回、続けさせて頂きます。実はあれから「リバー・ランズ・スルーイット」を、また見ました。

 

Rレッドフォード監督が苦労して撮った映画ですが、これだと神は川や、自然の中にいる……事になる。それも悪い解釈ではなく、Tマリック監督の「ツリー・オブ・ライフ」での主張、美しい自然とも重なります。昨日の大雨で列車は止まり、九州は大ごとでした。大自然は必ずしも美しくないです。

 

リバーでBピットは、大きなマスを釣り、兄の婚約者からさえも評価されます。死後ではあるが父からも大きく評価されます。むろん原作を書いているのは兄、ノーマンである以上は、兄の評価も得ている計算になる。

 

で、ポールですが賭博中毒で女出入りがはげしく、その最後に至っては銃の握りで指をつぶされ、頭蓋骨を割られ道に放置された。つまり賭博仲間からインチキを見破られ、かさんだツケもあるのに見放された。ならず者に見放されるって、逆にいえば……

 

つまりポールは大きな子供に過ぎない。ノーマンの婚約者、ジェッシーから見ても容貌は素晴らしく、話術やダンスの才能、魅力的なのはポールであって、ノーマンは恋人としては面白くなく……まあ亭主向きということです。普通はダメの反対は当たり、でもダメのダメはやっぱりダメいう事も。

 

現実的に対応できる兄が生き残り、そうでない弟が亡くなる。両作はそこにも共通点がある。だが「エデンの東」では逆に見え、兄の恋人は弟に乗り換えます。何が真面目で不真面目かは論のあるところですが、真面目が有神論的、不真面目が無神論と一応くくれます。

 

そばにいて不真面目をやってくれるから、安心して真面目がやれる。側で真面目をやってくれるから安心して不真面目もできる。どちらか片方でいれば、自分が何をしようとしているかさえ判らない。そういう事はありませんか?

 

……ということは有神論とは無神論です。哲学がない、そういう言い方をしますでしょ? 哲学では理解出来ない、くくれない現実が目立つ。たとえば靴を磨かないと、なまけたと怒られます。それは判る、が意識しないのを気が効かないと怒られるト……判らない部分も出て来る。

 

神を信じたり哲学を持つのは意識です。物事は意識化にあるとは限らない。潜在意識下、無意識にもある。恋は、する物でなく落ちる物って言う。頭がいいんではなく勘がいい、考えるのでなく合わせるともいう。釣りもそういう所があるのかも。

 

雨が上がれば晴れ渡る。また暑くなるのか。私は泳ぎに行きます、釣りには行きません。

 

2013年8月26日 (月)

ツリー・オブ・ライフ 映画

Treeof生き方には2つある。世俗に生きるか、神に委ねるか。どちらかを選ばなくてはならない……簡単にいうと先が無神論で、後者が有神論になります。一応そうだが一概にも言い切れない。無神論については昨日も書いたが、厄介な問題も含まれます。

 

 

 

当り前ですが木の一生に比べれば、人生は短い。千年や2千年の長さから見れば、厄介は取るに足りず、他愛もなく小さな事にすぎない。判っているのに判っていても、人はそれにこだわり……片時も離れる事ができない。つまり本当には判らない訳です。

 

 

 

たとえば世俗的に成功し、週末の献金額を増やす人もいれば、ない袖はと教会の前を素通りする人もいる。そしてその弁明にサルトルを持ち出す人もいます。神仏を信じているか、いないのか? 解釈は色々です……その意味では「ツリー・オブ・ライフ」は難解な映画に属します。

 

 

 

印象で言えば「エデンの東」に似ています。伝説の俳優、ジェームス・ディーンのあの映画です。ところで、お父さんって好きですか? お母さんに比べてどうですか。ここでもブラッド・ピットさんは屈託のある男を演じる……「リバー・ランズ・スルー・イット」もそうでした。

 

 

 

屈託なく振舞うが賭博依存症の青年、仕事はうまく行ってるのに人生に挫折を感じる男……2つの役は全く違うように見え、全く同じ役ではないか? そんな父を憎み、一時にしろ死さえ願う。そして社会的には上昇して行く息子ジャック。この映画は宗教映画というくくりです。

 

 

 

憎しみに縁取られた愛は、それでも愛かどうか? お父さんを愛してますか? ディーンがあんなに流行ったのには、お父さんを愛せなかった人が多く、お母さんは好きだったから……と思われる。つまる所この映画も、それだけを聞いています。

 

 

 

むろん難しい部分もある。ワンカットだけ恐竜も出てきますしねえ。石を投げて空家の窓ガラスを割るシーンも、留守の家に入りタンスを開けて中をいじり回す。ジャックの中で何が起こっているか。そこまで描いてそれ以上の説明をしない。それって判ります?

 

 

 

母の愛は簡単です。たとえば母が手を空にかざすと、その手に蝶がとまる。花にとまるように……これは奇跡を暗示する。蝶の習性を知らない人は驚きます。滅多にある事ではないが、これは奇跡ではない。映画ではむろん、奇跡と位置づけて撮っているようです。

 

 

 

奇跡は誰が見ても判り易い、その意味では簡単です。苦労の果てにやっと得るような成功は、それも一種の奇跡ですが、奇跡と言わないでしょう。父はジャックに成功してほしくて「自分のようになるな」言います。たやすくは受け入れ難い。奇跡ではなく、これは説教ですから……

 

 

 

誰でも奇跡の目撃は望むが、長い説教は望まない。聖書や仏典はその両方を伝える事で成り立ちます。聖人は砂の上を歩くように水の上を歩いた……そんなバカな、空にかざした手に蝶がとまる……そんなバカな、つまり同じ意味です。

 

 

 

父は教会のオルガンを弾きながら「音楽家になりたかった」そうジャックに言います。お父さんは存命ですか。お父さんは好きですか? お父さんが本当は何になりたかったか、聞いたことありますか? お母さんには聞いたのに、同じ家族なのになぜお父さんには聞かないのですか。 

 

2013年8月25日 (日)

無神論

Musin自分で自分を無神論者とは思いません。断言するほどの自信もないが、多分一度も思わなかった。普通よりはカミユ、サルトルに詳しく肯定的かも知れません。サルトルはノーベル賞を辞退した経過もあって、反権威主義だろうと思います。それは芥川賞を辞退するよりは偉いと思う。

 

カミユを読んだ時はもっと抵抗がなかった。それが先月、トビアスバウアー教授の講演を聞いて、しかも「キリスト教の宣伝ではない。私は無神論に近い」と言われて。教授は無神論者というにはカトリック系の素養が深く、あんなに深くては無神論者になるのは無理だろう思うのです。(13713掲載)

 

熊本市は神社仏閣が多い。むろん京都ほどでないが、300m、寺の前を通らずに歩くことは出来ません。祭りになると寺は家宝の屏風や巻物を出し、昔は子供たちに地獄絵の説明に余念がなかった。地蔵祭りにも久しく行きませんが、最近も同じではないか。

 

それで何となくあの世、何となく地獄、あるいは極楽を知り、それで死が怖くなる。トビアス教授のいう宗教は、それで漠然と理解はいきます。そういう似た体験がある。ただし私は11才で病気になる。それから死に損なって身障者になります。

 

すると死は前に思ったほど遠いものではない。いつも書くように身近にある。予防線をはったり、どうかすれば避けられる物でもない……毎週、教会に行って献金をしても御札を買って貼っても、逃れられない……そういう事は、まあまあ見えるようになります。

 

トビアス教授ほど深くない素養、私の浅い素養はいっぺんに覚めます。そうするとお坊さんに「地獄絵を見て行きなさい」言われてもありがたくない。商売の足しにされてはかなわない。その位に思え、実際に思う。もっと善意に、死ぬのが怖かろう。残念だが、それは遠くない。だから見て行けと思われたト感じる。

 

子供の頃から若い頃にかけての私は、そんな風でした。あるいは日本もそうかも知れませんが、外国では宗教的な教育がされます。悪い事をすると地獄に落ちる……だから良いことを……ここまでは道徳と変わらないのです。

 

人は現世を生きた後、あの世、キリスト教的には最後の審判という形で振分けがある。これが怖いから良い事を……いう訳です。極端なことを言うと、この世はあの世の準備に過ぎない。あの世の方が大切というわけです。

 

端的に、それは道徳より大事です。それが父から子に向って行われる……トビアス教授の素養がどこから来たかは知りませんが、そういう風な物ではなかったか? 思う訳です。日本ではキリスト教より仏教が多くて、仏教も宗派によって極端に違います。

 

死んだら誰でも天国に行ける……区別なくといえるか? 私も詳しくありませんで御勘弁を……そういう仏教もあれば、生きてる間に訓練をして仏になる。そういうのもある。これも天国を迎える意味かどうかは? 同じく御勘弁を。まあ色々あります。

 

死を恐れ、あの世や天国、来世をどう考えるか。それから逆に見て、この世をどう生きたらいいかが基本にはなります。反対に金をもうけるのが好き、ケチるのが好き……これは盗むに次いで悪い事らしいですよ。私などはいまだに賽銭箱に投げ入れるよりは、古本屋でロクでもない本を買うのが好き。

 それを現世的という。ドラマ半沢直樹では露骨に金を盗むシーンはなく、騙し取る取られるシーンですね。だから主人公の半沢さんが宗教的に天国に行けるかどうかは微妙ですねえ。私が筋トレ水泳ばかりして、身障者っぽく早死にしないのは、天国なのか地獄なのかも微妙と……

2013年8月24日 (土)

ヒューゴの不思議な発明 映画

Hugoヒューゴ少年は駅の時計暮らして。父母に先立たれ、若くして自立を迫られた孤児は、時計のメンテナンスをして、キオスクから物をくすねて生活している。しかし保障された生活ではなく、公安官に捕まれば、ヒューゴは孤児院送りになる。孤児院はとても怖いところ。

 

 

 

公安官は傷痍軍人で、つまり身障者で花屋のリゼットに思いを寄せている。リゼットは飛び切りの美人でなく演技上の美人……ヒューゴとイザベルの関係も友達ではなく、恋愛を暗示される。この映画の主人公はヒューゴでもイザベルでもなく、実質的に修理屋の老人ジョルジュです。

 

 

 

ジョルジュは往年の発明家、あるいは映画製作者だが、今はオモチャの修理店をやっている。なぜか? この映画の監督はマーチン・スコセッシ、老監督で有名な割りには名声が足りない、そこに不満がある。映画にはそういう意味の反映があるト思われる。

 

 

 

映画は3Dで特撮シーンも多く、それなりに華麗です。いわゆる魔法と奇跡に満ちるハリー・ポッターのような娯楽映画ではない。その代わりにスコセッシ監督、一流の教訓があります。つまり時計塔のメカ以外には、タイムマシンも出て来なければ、どこにも恐竜はいない。

 

 

 

悪くいうと、孤児が公安官に追われる地味な映画です。この映画で不思議と言われる物は、自動速記する一種のロボットのことで……ヒューゴが死んだお父さんから譲り受けた物です。娯楽でなく教訓がなぜ必要か、合理的な説明はされません。

 

 

 

つまりスコセッシ監督は合理的な説明はしない、気にしない。映画もゲームに比べれば古いメディアで、ゲームを越えての復活はない……そういうのは気にならない人なのか。親子2代でロボットの修理にいどむヒューゴは、イザベルと知り合うことで解決の糸口を見つけます……それはある意味で日本的といえる。

 

 

 

一寸法師はお姫さまの振る打手の小槌で普通の若者になる。(確かにねえ、身障者問題ってそういう事ではない)公安官は泥棒を捕まえて出世するのではなく、リゼットに受け入れられて幸福になる。英国や米国の観客はこういう結末では納得しないだろうト私も思います。

 

 

 

ヒューゴも子供というには育ち過ぎ、イザベルの恋人になって、やがては結婚するだろうト、そうすればジョルジュともイザベルママとも家族になる。イザベルは今は文学少女ですが、おそらく美人なので女優になるト……そうなれば映画一家としてまとまる。

 

 

 

イザベルママ、義母が昔女優そういう設定で、映画が取り持つ縁で目出度く、4人が家族になれる。しかし個々のサクセスはない、公安官とリゼットの話も、そういう意味では同じになる……それが観客には不満と思われます。日本ではともかく、この映画は全体では興行的に赤字となる。

 

 

 

普通に幸せになるのでは足りない。もっともっと完全にすべての満足というか。エンターティメントというか、その考えが一般で、たとえばハリポタ式でないとウケないト思われる。登場人物は家族になれて幸福になるではなく、個人として幸福になれなくては……いけない?

 

 

 

そこがスコセッシ監督はもう1つの感じです。ただ私はハリポタを支持している訳ではなく、結局親子は他人で、兄弟もまた他人の始まり……現代がそういう時代なので、古い話を3Dにしてみても新しい話にならない。お姫さまを助けた一寸法師はまたひとり川を下って行く? そしてヒューゴには孤児院の結末か?

○予告篇 http://www.youtube.com/watch?v=OBVkfGypy0o

 

2013年8月23日 (金)

恨歌歌手

Enka 70年6月7日の毎日新聞には印象に残るエッセーが載りました。上記は今や伝説ともなった、その時の五木寛之さんのゴキブリの歌「艶歌と援歌と恨歌」です。取りようによっては新人歌手に侮辱とも読める、解釈内容でした。

 

これを読んだ石坂まさおさん、その歌手の付人兼、プロデューサーといった立場だったと聞いています。うちのケイコをこの線で売ろうと言ったとか……ケイコ本人も不幸そうな顔つきを作ってステージに出ていた時期があったとか。

 

書く方も書く方なら、売る方も売る方で手段は問わずにネタにした。そういう時代でした。歌手といってもAKBなどではない、売れないドサ回りの歌手だったと聞いています。それが下記するように歌が上手く、美少女だった。

 

それにしても……どこまで本当か判らない、そんな話が伝わりました。年月が経って往年の美少女も62才になっておられた。売り出された時の文句を引き継ぐような死に方と聞こえてます。どこまで本当か、もういいではないか。

 

亡くなられたら伝説にではく、天国に行かれて下さい……あの世や生まれ変わる来世を信じる訳ではないが、もっと単純にそう思います。確かに藤圭子さんのデビュー時には、妖気が漂っていて、今も深夜に聞くと迫力がある。

 

○藤圭子1970・10・23渋谷公会堂における

 http://www.youtube.com/watch?v=4K3gEA61JF0

 http://www.youtube.com/watch?v=ZJTKSjE55QE

2013年8月22日 (木)

震災復興支援

 Aranami内容はよく判らない。ある年齢になると語尾がかすむ。歯のせいか? 顎の筋肉のゆるみもあるだろうが、第一の原因はマイクを使わないからト思う。マイクを離した肉声が自分の耳に馴染み、快いのだろうト思う。荒波辰也さんだけの欠点ではない。

 

荒波辰也氏は商工中金出身の銀行員です。現在、東日本大震災事業者再生支援機構の代表取締専務というポスト。当機構では13年7月末で1372を受付、553が当議進行先となり、支援が決定したのは234件となる。一般条件よりゆるく、見込みのある人の支援をしている。

 

具体例として出たのが、三千万の借入金がすでにある。工場再建に五千万が必要であるとして、計算上八千万が二重債務となる。当機構が最初の三千万を一千万で買い取るよう銀行に交渉する。この時点で、債務者には借入先が国に変わっただけです。

 

5千万の返済に12年かかるとして、その間、利子も低く待つという。通常は5~7年というのが、説明の大筋中の大筋。金を貸すということ、また借りるという事がどういう事かは、TVドラマを見てもらえれば判る。講演中に「半沢直樹」の名前が出ます。

 

半沢直樹でいえば倍返し、今回の震災は多くてもいつもの3倍くらいに位置付けでいる。10倍にはなってない。数値からは、異常事態の認識ではなく、いつもの延長と見た。3だの10だの言ってトモ思いますが、それでいいのか悪いのか……それでいい?

 

この後、最初の1千万を返す? 聞きそびれました。荒波さんが一番強調したのは経営者の自覚という事で、最初に茶髪で訪れた若い経営者が自覚し目覚め、だんだん髪が黒くなった。ジャージの服がそれらしくなって行った……荒波さんの受け止めもそうです。

 

災害地は広範囲で、進歩か保守かでいうと保守的。いくつか実験というと悪いが、昔のままの港を一方で作り、外国の例を取る様な先進的な港を反対側に作る……そういう事も出来たと私には感じる。一律に自覚を待つという事では間に合わない……その実証もすでになされた。ト私は見る。

 

荒波さんのいわれるのは、簡単にいうと東日本の十年後を活目して待てという事になる。当時の野田政権に新しいプランがあったとも思えないが、それにしても、これは今まで通りのやり方で、緊急性が足りない。それで遅い。早期に若い力を結集するとか、出来なかったか?

 

村上龍さんの「半島を出よ」でコリョを迎え撃つ不良少年たちは、単に不良というのではない。ある意味壊れたというか、ねじれぶりが並ではない……そういう子でないと役に立たない。若き日の龍さんの反映なのか? まだまだ平和、大丈夫という事か? 

 だが、なぜこうなったか? 原発の存在は大きく、触ってはならない事として東日本に圧し掛かった。メンテナンスより秘密を守る事に神経がいき、復興への力が割かれた。今なお裂かれている……まだ日本に危機感はない。

●次回、第4回熊本元気塾 ◆日時 平成25年9月6日(木) 18時~20時   予約は℡096・377・2091流通情報会館へ。

◆場所 熊本市流通情報会館5F 第1研修室

◆内容「godhandはもういらない」
◆講師 菅 守隆 済生会熊本病院予防医療センター長