« 本とのこと | メイン | ドラレコ? 2 »

2013年7月29日 (月)

坂元裕二さん

Sakamoto坂元裕二さんの本のハシゴで「わたしたちの教科書」を観ます。言いたい事の配分が面白い、主人公の声だけに重点を置かないので観る側としては、セリフの後に不満が残ってしまう。とくに若い観客はついて行けない欠点になりがち。

 

 

 

そうではなく、主人公は十分言っている。受けの人は視点の角度が違う……人は間を置くと、前と少し違う見方をする。一瞬後の自分は、前の自分を否定している……極端なことをいうとそうなる。あたかも別な人物になったかのように。

 

 

 

コメディは誰かに感情移入がなく、誰かと誰かの間に立ちやすい。現実、誰かと誰かの間には微妙なグレデーションが起きがち、意見の間を意見がすり抜ける。たとえば桜が好き、桜が嫌いというだけでは、人物は変わらないが……

 

 

 

ソメイヨシノは植え替えないと寿命が来てしまう。ソメイはおよそ100年の寿命しかなく、それは最近ニュースになった。似たような、例えば山桜の千年の寿命とは違う。以外だが事実はそうだ。私たちのイメージは現実をすり変えようとする。

 

 

 

コメディの立場には長い時間がなく、次の場面では立位置が違うことが多い。今日はイジメ役、明日はイジメられ役となるなら、そもそもイジメとは言わないが……重さは伴なわない。端的には一場だけの殴る役、殴られ役にすぎなくなる。

 

 

 

劇は飯事、ママゴトに似ていると言われる。女の子は飯事が好きで時々、お父さん役を男の子に頼む。お父さん役をやると判るが台本を書く権利はお父さんにはない。お母さんにだけある……事になっている。飯事がつまらないのは権利がないから……

 

 

 

黒テントの芝居では唐十郎さんにはアドリブ権があって、李礼仙さんがそれにつぐが、一般に他の役者にはその権利はない。台本を書いたのは唐さんなので、劇の進行中に台本の書替えが行われ、役者たちは付き合わされる。

 

 

 

その逆はない。唐さんの何を見てるか判らないような眼に魅入られ、そのアドリブに耳を澄ます。劇は一種、恋愛の進行に似ているがその事には深くふれない。現実と違う、夢というか妄想というか。そういう芝居心の中で劇は進行していく。

 

 

 

アドリブ、変更、書換の内に内容が変わって行くので最初の設定と物語の終わりには整合性がなくなる。坂元本は、ぶつかり合う言葉と言葉を楽しむべきであり、整合性を重視するには違う台本に寄るべきだろう。

 

●第26回向田邦子賞受賞作

 私たちの教科書 http://www.gooddrama.net/japanese-drama/watashitachi-no-kyokasho

 

トラックバック

このページのトラックバックURL:
http://app.blog.bbiq.jp/t/trackback/394232/31750849

坂元裕二さんを参照しているブログ:

コメント

コメントを投稿