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2013年3月24日 (日)

伊豆の踊り子

Kawabata 福島章「天才の精神分析」を買った時には川端康成さんに興味を持った。その部分を立読みで共感します。つまり「伊豆の踊り子」には不可解な場所があって、そこを読み解くには仮説を立てないといけない。

 

「踊り子」の最後、船室で主人公が泣く。泣き方は激しく「どうかしたのか」周囲の客に聞かれる。「人と別れて来たのです」と主人公は答える。だが行きずりの少女と別れたくらいでは、そう激しくは泣けない……のではないか?

 

私の仮説は簡単です。少女が誰かに似ていた、つまり母を連想させた。主人公、あるいは康成は母と悲しい別れをした体験がある……初歩的だよ、ワトスン君。しかし伊豆の踊り子のどこにもそうは書いてない。

 

果たしてどうか? 康成さんの小説はどれもややこしく、以後の小説を素直に読んでも訳が判らない。男は無意識下の母を求める。恋愛の2割がそうなのか、3割がそうなのか……統計を取ってなく責任は持ちません。

 

女性でいうと割合は低く。女性はもっと意識的に恋するフシがある。「あら、この人はお父さんと一緒!」と言う。あるいは「母と一緒」と意識します。そういう風に彼女たちの恋は意識されたものですから、比較を自分で知っている。

 

これも統計がない。違うと言われたら強弁はしません。自分で覚えがなかったら周囲に聞いて下さい。足の裏でもいい母に似ていて意識した。2割はそういう事がある。中には結婚するまで判らなかったトカ……

 

さだまさしさんの歌にもある。それに未だに気が付かない人もありますから、そうすると統計を取っても本当の事は判らない。それで康成さんにもどります。康成さんは、踊り子に最初に会った時から意識したかも知れません。

 

前後を考えると康成さんは、ここで母を思って泣いたらしいト推理できます。君にだって、それくらい判るだろう明智君……康成さんが若い母と死別している事が、福島本には、はっきり書いてある。

 

康成さんのややこしい小説を読まずに仮説がどうやら証明されます。ただこの事実は康成さんの2才の時、自分の記憶ではないでしょう。人から聞いた話からトすると……どっちみち一般論にはなりませんがネ。

 

だが、どの映画でも映画で見ると、泣くのは踊り子であって主人公ではない。そうしないと絵にならない事もあるが一般には、ここは問題にならない。康成さんの意識、無意識は判らないが死別の再確認が以後の作品でもバリエーションになるらしい。

 トまあ、そこまでは本にない。次を読む、さて三島由紀夫さんはどう書いてあるか……三島さんは病気と書いてある。分裂病は今でいう統合失調症、お医者さんの福島さんがいうから、そうだろうが、そう読んでも面白くも何ともない。

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