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2012年9月

2012年9月20日 (木)

陽水88年ライブ

Yousui井上陽水さんの88年ライブを、ハードオフでLDで買います。40才の井上さんは若く、ステージでは例のテレ笑いを浮かべています。すでにファンとの間を的確につかめたかに見えるが……意外な事につかんでない。

 

オープニング「東へ西へ」は戸惑いの歌で、2曲目の「ワカンナイ」でも似たような気持ちを歌います。ワカンナイは賢治の「雨ニモ負ケズ」を下敷きにした詞で、自分は誰にも判らない、判ってもらえない……との気持ちに重点がある。

 

雨にも風にも負けないでね 暑さや寒さに勝ちつづけて というのです。井上さんは詞を着想するとすぐ、糸井重里さんに電話をかけ「アレはどういう詩か」と聞く。糸井さんから、私はそういう発言を聞きます。

 

賢冶の詩には最後に「ソウイウモノニワタシハナリタイ」と結論があり、賢冶もある種、戸惑いの中でこの詩を書いた。ライブはサントリーホールで行われ、一つにはクラシックのホールで演奏する事に井上さんの戸惑いがある。

 

トークで、このホールに初めて来た人、来た事のある人と、拍手で決を取っている。次の曲に行きかけて行かず「お願いがあります。満場の拍手を聞きたい」と言い出すのです。アドリブトーク、本音の気持ちに聞こえます。

 

つまり大スターらしからぬ、つらく不安な気持ちが透けて見えます。東へ西へ、ワカンナイは、その気持ちに重ねて歌われる。さらに重ねますト、賢冶も手帳に雨ニモ負ケズを書きつけた時、軽く自分を見失っているのでは……。

 

この記事も前の日から考える事はなく、行き当りばったりが多い。結論を考えてから書く事も、まあ少ないです。たまには明確にありますが……そういう意味では不安に書き進めます。今日も、そろそろオチを考えなければなりません。

 

ワカンナイという曲は、ここでは自身で弾いているギターの音も消されたようです。ボーカルだけに聞こえる。違う後のライブではピアノに重点をかけるなど、ボーカルのウエイトを軽くして演奏されます。

 

そうなると井上さん自身の不安も消え、安定した演奏にはなります。そうすると曲は魅力を増すか? むろん好きずきで意見は分かれるのでしょうが、私には疑問になります。(下に比較引用)

 

記事の場合、あまり毎回同じ結論はダメでしょう。進歩がない事になる。はっきり言えば進歩がない。意見が変らければ、書く必要もない。たとえで言うと賢冶がなりたかった「ソウイウモノ」は、私には見えてきません。

 

88年 ワカンナイ http://www.youtube.com/watch?v=TSzXhU9sviE

 ●02年 ワカンナイ http://www.youtube.com/watch?v=Mv_Z07P6o1A&feature=related

2012年9月19日 (水)

ダ・ヴィンチコード 映画

  

Davich_2判るのはマレ、判ったような気になる、そういうのが多い。もっと言えば本当のことは判らない。ではなかろうか? それは大抵、違ういうことです。ああかもしれないそうかもしれない。で、アテにはなりません。

ダ・ヴィンチコードとは言いますが、あまりダ・ヴィンチさんには関係がない。ダ・ヴィンチの事もよくは判らないが……映画はキリストさんの事でして、あの人は判りません。私、新約聖書を全部は読んでませんしネエ。

読んだいう人の話を聞いても、きっとこうだったんだろうトいいますから……それを違いないと説明しますから……聖書はかなり読んでもキリスト人物像は見えない。こういっては何ですが清正みたいなモンです。

清正には古文書、本人が書いた手紙が残っています。キリストの書いた手紙はないです。唯一の古文書が聖書で、あれ早い話が伝聞でね。私は虎退治の粋を超えないと思う。

キリストは人だったのか神だったのか。人だったの解釈と神だったの解釈でも、人物像に違いが出ます。キリスト教信者さんの中にも熱烈なヒト派がいて、同じようにカミ派もいます。

ホントかどうかは知りません。映画の中ではヒト派とカミ派が論争、そして論争から逸脱する。暗殺者になってヒト派の物証を揉消そうとする。今日の話、ダ・ヴィンチコードは、実はそういう映画です。

ここまでの進行からも判ると思いますが、私はあまりキリストさんを信仰しません。何百年の楠(クス)を見ると敬けんな気持ちにはなります。佐賀や福岡でもそうでしょうが、千年超えたような楠はあちこちあります。

色々やった人ですから西洋の人も、キリストいうとその気になり、尊敬するんでしょう。映画では、キリストを水の上を歩いた人として意識してます。

清正を虎退治の人としては私は尊敬できません。むしろ金を稼いで浪人やとった人として見たい。尊敬と敬けんな気になるのと、信じるというか信仰とは違うかも知れません。

信仰から暗殺者になるいうのと同じくらい違うと思う。批判的にいいますと、キリスト教と回教、つまりマホメット教は元は同じ宗教だったそうです。ユダヤ教も元は同じ……それが分派枝分かれして現在に至る。

同じキリスト教の人が、ヒト派とカミ派に別れて暗殺者を差し向ける。同じ宗教がキリスト教と回教の2つに別れ、戦争をする。無意味いうことでは似たようなモンです。

それより私は百年だか千年だか判らない古木を仰いでいた方がいい。古木の下を秋風が吹く。古木の下を時間が過ぎる。数年は一瞬、10年も一瞬、千年の時の長さに比べれば愛も憎しみも幸福も不幸も一瞬の、ただの風に過ぎません。

●ダ・ヴィンチコード予告編 http://www.youtube.com/watch?v=XiIKxLCrNjY

2012年9月18日 (火)

うつの症状

Utu 映画「プレッジ」の中で精神科医は、無理にも犯人像を出すように言われる。だが精神科医は切り返すように探偵本人への疑問を言う。「あなたにはセックスはあるか?」と……

 

 

 

映画ではなく現実で、内科医は患者の精神症状を聞く。患者も聞かれれば答える。さすがに「セックスはあるか?」では露骨すぎるが「眠れるか?」という質問ならありうる、無難でもある。

 

 

 

セックスと睡眠じゃまるで違う。そうお思われますか? すでに聞かれた事があるんじゃないですか? かかり付けの医師に風邪をひいた時とか。それは怪しまれたんです。 

 

 

 

夜の寝つき、朝の目覚め、そして熟睡感はあるか。睡眠についての質問は食欲についての質問にも等しく、前項と同じ意味も持つ。御飯はおいしいですか、体重は減っていませんか? 最近、仕事や趣味は楽しいですか。ゴルフとか飲会、麻雀やタバコは、今も続いてますか?

 

 

 

あの質問は、そういう事と同じ意味とされる。食う寝る「する」は気分と関係し、ここに障りがある事は気分障害と診断される。どういうことか、障害はうつ状態という意味になります。

 

 

 

裏返せば自分は正常か、健康な状態にあるかは、自己診断が出来ます。眠れないのは隣部屋住民と薄いベニヤ壁のせいではない、限らないという意味ですが。最近ラーメンを食いに行かないのは胃が悪いせいではない、これも限らないの意味ですが。

 

 

 

老人性のうつである、可能性もある……本当の事なんか認めたくない。仮面のうつが睡眠や食欲の不調をとおして見えてくる。そういう例はある、だから内科医は、それとなく聞く訳です。

 

 

 

むろん私は医師じゃありません。ただの身障者相談員で、身障者というのも、うつにも成りやすい。ノイローゼ気味とか、依存率が高くなるとか、そういう傾向はぼんやり見えます。

 

 

 

家族のある方はまあ、私は家族に電話します。でも私が気になるのは家族のない方に多い。気になって詰まらないムダ話をし、面白くない落ちで落としサヨナラするしかありません。それ以上の権限はむろんありません。

 

 

 

うつは最悪、自殺につながります。病院には画像の内容がありました。

 

 

 ●こころのはなし http://www.e-heartclinic.com/kokoro/senmon/utsu04.html

2012年9月17日 (月)

敬老の日

Keiro 敬老の日という。昔はデータがなかったので記録をたどるには、端的に老人に聞くしかなかった。インターネットがなかった頃は図書館に行って文献をあたるしかなかった……というようなモンです。

 

紙の文献の前には木簡とか、木の記録があって字の記録の前には記憶という方法しかなかった。1代目から2代目に記憶係は、代々、記憶を職業とした……のだろうか?

 

年齢が1つ多いのは、1年分の記憶、経験が多い事を意味します……いや、だろうと言う方が正しい。ほとんど同じ事をもう1年すれば経験値はほとんど変らない。それでもまあ少しは変るのですが……

 

1年の価値を大きく変えるには、あらかじめ経験を大きく変えなければならない。あるいは多年の文献をあたってデータから意味を引き出さなけばならない。データから詳細、来年に向けての結果までも引き出すという事。

 

何をもって正常、あるいは普通というか。若い時と中年期との時間の流れと、高齢でのその感じ方では違います。はっきりいうと若い時の記憶はいつまでも新鮮だが、高齢になってからの記憶には鮮度がない。

 

昨日の記憶は10年も前のように薄れ、10年前の記憶が昨日のように感じられます。特別な事件でもあれば多少は違うが、記憶についてだけ言えば高齢の意味は薄いと思う。

 

思うとは今の私、64才においての自分についてです。他人については知りません……そうは言っても似たような事をいう人は多く、書けば読まれて共感される方もあるでしょう。

 

一番出しのお茶が美味しかったから二番出しを出して、三番出しを出そうというのに似ています。いくら美味しいお茶でも、出涸らしになったらマズい……ましてコーヒーは二番出しでもネエ。この辺りでコーヒーを立て直して。

 

意図的に違う生き方を企画して、経験値から違う結果を引出そうとする……そういう努力をしなければなりません。そうしないと生きる意味にまで辿りつかない。マンネリズム、マンネリになってしまう。

 そういう意味では若い時より高齢化してからの生き方はむつかしい。今までどうりには行きません。敬老の日、自分で考えてどこか行きましたか? もう何年も惰性で生きていませんか?

2012年9月16日 (日)

プレッジ 映画

Purショーン・ペン監督作品では主人公が善人か悪人か、その事自体がテーマになる事が多い。「プレッジ」は約束の意味だが誓約と固い意味を帯びる。冒頭、タイトルの前にジャック・ニコルスンがつぶやく女の子の約束は、誓約に当たるかどうか?

 

邦題を「約束」にしないで「プレッジ」としたのは、その辺の関係かも知れません。害者家族との約束が拘束となって約束を守ろうとした老刑事とするか、自己の欲望に抵抗しきれなかった男とすべきかで、善悪は大きく割れる。

 

刑事が引退後、私立探偵をやるという設定はよくある話で、この映画もそういう風に見られるが、引退までの描写が執拗に過ぎる。前半はそれで終る。

 

なぜならサム・シェパード、ミッキー・ローク、ヴァネッサ・レッドグレイヴさんといったアカデミー級の俳優が次から次と出てきて、主人公と演技合戦をやる。その意味でこの映画は大作でして、カメラワークや音楽のクオリティが高い。

 

 

 

それは例えばPニューマンさんの「動く標的」や「評決」を思い出させる。だが映画としての格は違うように見える。「プレッジ」の方が上、ニューマン映画が娯楽作のように見える。つまりニコルソン版「評決」を狙ったと、私は思います。

 

 

 

後半に入るとすぐ、精神科医ヘレン・ミレンさんが出て来て、探偵役のニコルソンに犯人像を述べる。ヘレン・ミレンはTV「第一容疑者」シリーズの英女優です。ここからサイコサスペンスに移行するか思わせて。

 

 

 

精神科医はニコリともせず「いつからチェーンスモーカーになったのか?」「セックスは持っているか?」と探偵自身の問題を読み解こうとする。これは笑ってしまう。長年の仕事を失くした主人公の精神状況は正常ではない……のでは。

 

 

 

人によって60の定年を超えても5年くらいなら、まだ仕事が続けられる。ただ65才にすぐ成ってしまう。70才まで75才までと定年延長が出来るかというと、それは違う。高齢に伴なう問題は出てくる。いつかはバトンタッチしなければならない。

 

 

 

するとPニューマンさんの言ったカンバック、まだやれるにも限界がある。いつかは引退、現実を受入れなければならない……という内容で物語はラストに入る。主人公は自分を受入れられるか? それは善か悪かト問いかける。

 

 

 

この監督で「イントゥ・ザ・ワイルド」も見ている。ニコルソンさんが演じる老後の善悪も善悪なら、青春の善悪を描いたのが「イントゥ・ザ・ワイルド」で世代対立という意味はない。映画一家の映画によせる思いの複雑さが少し見えてきたようだ。

 

 

 

●プレッジ予告 http://www.youtube.com/watch?v=7Oh6Av_Z1Wk

 http://www.youtube.com/watch?v=KoddQUi5loo

2012年9月15日 (土)

炎のメモリアル 映画

Honoo_2 「炎のメモリアル」は「海猿」に似ている。消防士ジャックは高層ビルで救護活動中、爆発に会い階下に落下する。救助を待ちながらも脳裏には、赴任から今までの事がメモリアル、走馬灯のようにかけめぐる。

 

 

 

いわゆるアクション物を期待されると外れる。消防士へ敬意を表した実録風の内容です。消防局長にJ・トラボルタ、奥さん役にJ・ハレットさんがモデル出身の華やかさで顔を出す、私はつい海猿を連想する……そういう映画です。

 

 

 

ホアキン・フェニックスさんはグラディエーター(2000)での悪役ぶりが印象に残る。2006年にウォーク・ザ・ライン/君につづく道の後、(このブログでは12182008年には歌手への転向を計ったという。現在は俳優復帰している。

 

 

 

いろいろあっての俳優さんでその背景、屈託ぶりは演技に出ている気がする。人を助ける活動への情熱と共に、火事に対する恐怖がじわりじわりと内面的に効いてくる。構成はアクションで見せる映画と違う。

 

 

 

バックドラフトやタワーリング・イン・フェルノが結局、ストレス解消の娯楽映画にすぎなかった事を見せつける。その必要があるのか? ある。つまり911のニューヨークでは映画のような事が実際にあった。

 

 

 

熊本では大洋デパート火災(1973)が知られていて、私は火災直前のデパートを電車の窓から眺めて過ぎた。その時、デパートを一瞬、意識した……それ以上は何もない。帰ってTVを付けると火災の実況をやっていた。私は震え上がった。

 

 

 

ニューヨークの911テロも、むろんTVで見た。強い国に弱い国が歯向かう時、戦争では何でもやる。つまりそれが戦争という事だが……強い国は弱い国に向う時、もっと当然とやるべき事を行う。この時、カミカゼとの日本単語が使われた。

 

 

 

テロで亡くなられた被害の何倍、何百、何千の死者が、それからの戦争で出た。主な使者は米国の相手側からだ。私の認識では、先の戦争では米国に負けたという認識が強い。すると率直なところ書いたような印象が出て来る。

 

 

 

もう少し若い世代、20代とか30代は米側に立って、テロが酷いテロは酷いと思ったらしい。らしいというのは、酷いは酷いがそれが戦争とは思わなかった。その感覚の違いを言うのだが……映画の製作は、911テロを意識している。

 

 

 

戦争の話ではなく、救出の話に移ろう。実際には障害で私は何もできない……では出来ると仮定したら何かはるだろうか……やるような気もする。書いたように震え上がるだけかもしれない。

 

 

 ●炎のメモリアルTVでの予告 http://www.youtube.com/watch?v=oJ5svcDVNPU

2012年9月14日 (金)

舞台とリハビリ

Hira 能役者の飯本さんに聞いた。一番、大事なのは膝と言われる。正座が長時間は出来なくなる。重りを付けたソックスで回復を試みられたが、完全に元にはもどらない。油断だったという。

 

「これ以上、悪化させてはならない」話の様子から不真面目な感じはしない。能役者からの印象もあって生真面目な印象がある。そういう方にして、気がついた時は手遅れという事です。

 

ご承知のように私の障害は、股関節にありリハビリも下半身にあります。筋トレ室に行くようになって2週目で良い感触があって、2ヶ月でじわりと効いて来るのが判ります。しかし、それは上半身のこと。

 

早く効いた上半身は、具体的には杖を使う時に判ります。握力や肩の筋力からフラ付きが無くなる。それで足取りが確かになる。コケる率も低くなります。比べて下半身は効きが遅いのです。

 

――平幹二朗さんは舞台で、正座で長セリフを言ってから刀をつかんで立ち上がる。その演技が出来なくなったそうです。侍役だからヨタヨタ立ち上がってはマズイ。

 

飯本「それは戻られたのですか?」

 

――平さんの場合、単純に歩いて1時間とか1時間半、交換用の下着などを背負って歩いたト、汗かくとビル影で下着を交換したそうです。演技が戻った後の発言です。

 

年配役者が筋トレ、あるいは水泳をしたいう話はいろいろあります。森光子さんの立ちしゃがみ、吉永小百合さんの水泳……桃井かおりさんも宮沢りえちゃんを誘って水泳教室に行った話を聞きます。

 

飯本「私はもぐりをやるので自信をもっていた。自分はそうならないト……」もぐりとは何か、素もぐり、映画「グランブルー」で知られたジャック・マイヨールさんの、あの素もぐりです。

 

スキューバダイビングより奥が深いそうです。ただ冬はやらない、夏だけ、イベント的にもぐっても体力につながらなかったのかも……週2とか3とか定期的に体を使う。老齢化するとそこが問われます。

 

飯本さんの能は十分に効いていて、印象的に発声で言葉が明瞭、営業に役立ったらしい。立ち振る舞いも年齢を感じさせない。ご両親が90代まで健康だった、遺伝的にも丈夫でおられる。

 

それでも油断がなければ、もっとイケタろうト、そういう話であります。そうすると、私のまとめとしては50代になったら油断できない、そういう話になります。

 

ただ50代まで油断した人は60代になっても油断を続けるでしょう。歳になったら油断を止める。そうはならない。リハも2年続けると、また少し変わる。健常な場合も2年後というとガッカリされる。

 意欲が続かない。もう変えまいと思う……仮に変ったとしても、まだ甘い。私も甘いかもしれない。生き方の地を変えるのは、それほど大変ということです。

2012年9月13日 (木)

ノーベル賞は……

Nobel 英ラドブロークスは、10月中旬に発表されるノーベル文学賞受賞者を予想するオッズ(賭け率)を発表し、村上春樹氏に8倍とトップの評価を付けた。この文章の最初、英とあります。

 

 

 

主催のノーベル賞、ノルウェ、スゥエーデンとは関係がないのです。賭けは選考とも関係がないのです。ノーベル賞と言うと権威と思われ、偉さが強調されます。しかし主催国はヨーロッパ、経済状態もあまりよくない。

 

 

 

それを言えば日本もよくない。賞が欲しい賞を取りたい、わが国にこそ賞をト……気持ちは判るが、ああり目の色を変えるのも如何な物か。ノルウェ、スゥエーデンの賞担当に対し「大丈夫なのか」援助の申し入れはト、そう思うのは私だけだろうか。

 

 

 

さてノーベル賞を辞退された方がおられる。平和賞辞退はレ・ドク・トさんで、ベトナム戦争終結の功績に与えられれたが、受賞時ベトナムに、まだ平和が戻っていない、との理由で辞退された。

 

 

 

文学賞ではジャン・ポール・サルトルさんが「いかなる人間でも生きながら神格化されるに値しない」と堂々辞退。本意は判らないが権威を否定して、一文学者、あるいは哲学者でありたい。そう解釈すれば、立派な姿勢です。

 

 

 

引き合いに出すのも何だが、アカデミー賞を辞退した人もある。「ゴッド・ファーザー」で主演男優賞を授賞したマーロン・ブランドさんは、アメリカ・インディアンの差別抗議のため辞退します。

 

 

 

授賞式会場にインディアン女性を送り込み「ハリウッドがこれまでインディアンを悪者として扱ってきたことに抗議して受賞は断る」と声明を読み上げさせます。お祭り状態に冷水を浴びせた形でしょうな。

 

 

 

同じくジョージ・C・スコットさんは主演男優賞と、助演男優賞には複数回ノミネートされたが、いずれも辞退された。反骨精神の権化のような方です。私が若い頃、こういう方がポツポツ居られ、偉いなあト思ったものです。

 そのせいか、今もブランドやスコットさんの映画は一段上にある演技のような気がします。こういう時勢です。ノーベル賞も賞だけは貰うが賞金は辞退したいトカ、冒頭の思いやりは……流行りませんか?

2012年9月12日 (水)

薬のよく効く飲み方

Yunmi薬は「大量の、熱いお湯で飲むと効く」という話を聞きます。首を傾げる話です。言った情報元は、置き薬らしい。これを私が書き始めている段階で、正誤は判っています。根拠のある情報を元にします。

 

一言でいうと正しいようです。薬を飲む水または湯の量は、150~180mlが適当とされます。これは一般に思う量より多い。少量の水で飲むのが一般なので、それを常識とすれば180mlは多くなる。

 

ついで「水よりお湯の方が薬の吸収は速くなる」のも現実、風邪薬など早く効かせたい。薬を飲むケースとは、そういう場合が多いはずです。そうすれば一般には、水より湯が適当と言えます。

 

高齢者中心に、お茶が好きな人が多い。水や湯やほかの物を飲むとソンをした気になるそうです。「何でいけないのか?」怒られます。お茶でもいいのですが、お茶にはタンニンなどが溶けている。

 

すると薬の溶け込む余地が少ない。風邪薬など早い吸収をいうなら、暖かい湯がより適当になります。効きが遅くていい、効かなくてもいい……そういう場合は、あまりないと思います。そこを簡単に言えば薬は、大量の熱いお湯で飲むと効く。

 ●高知薬剤師会 http://www.kochi-kenyaku.or.jp/kusuri-q&a/nomikata.htm#2

2012年9月11日 (火)

演歌が消えていく

Uta_2どこかのラジオが演歌は無くなるのか? トいうような話をやっています。それに重ねコメンテイターは、「演歌・援歌・歌」といった方向に持って行く。それは五木寛之さんが藤圭子さんを論じた時の話だろう。

 

1969年あたりから歌謡曲はワケが判らなくなった。岸洋子さんがシャンソンではなく歌謡曲として「希望」を歌っていたし、フォークの南こうせつさんも「神田川」を歌謡曲で歌った。他にも……

 

「泳げタイヤキくん」や「黒猫のタンゴ」は何年だったろう? 概念からは童謡のはずなのに歌謡曲の枠で歌われた。流行歌なのだから演歌でもカンツォーネでもいい、商業的に成功すればそれでよかった。

 

今は演歌ではペイしなくなった。ポップスやクラシックがペイしないようにペイしない。それに歌謡曲という枠も無くなってしまった。すでに歌にジャンル分けはない。

 

当時の五木さんの演歌論は、情感という事を書いていて、それは今を限りに消えて行くものト、読めた。大衆小説とか中間小説とか言われた。その中での当時の五木文学のありかを示そうとしていた。

 

実際に演歌か歌かトいうエッセーは、哲学的な論考だったのです。今、邦楽でもラップがありJポップも、何とかもある状況、演歌が無くなったとしても特別な感慨はない。むしろペイしない音楽は消えて行って当然です。

 

たとえば新聞から谷垣自民は消え、野田民主がまだ残りそうトいった事と変らない。センチメンタルが私たちの心にそぐわず、ドライでクールな歌も同じくそぐわない。私たちの歌は何処へ行ったのか?

 

演歌や歌謡曲といったジャンルの音楽があったのに、今は音楽自体までが無くなったか? そういう事ではない。ポップスは民族音楽にルーツを求めます。そのポップスにJポップスはルーツを求めようとしている……かもしれない。

 

初期の五輪真弓さんは、声が似ているというのでキャロル・キングを意識します。しかし音楽的方向はシャンソンに流れる。長谷川きよし、因幡晃さんも似たような物で、フォークにもそういった情感路線がありました。

 

ラジオでの話題にもどれば西野カナさんの情感も、それと似ている気がします。今は今の情感がある。昔の歌には昔の情感がこもるが、今の情感は流れない。古い歌は消えていく。どんな時代であろうト、歌はそういうものと思います。

 ●参考文献 五木寛之「ゴキブリの歌」演歌と援歌と怨歌 1970・6・9