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2012年6月26日 (火)

椰子の実はいくつ?

Yasi これは松岡正剛さんから聞きます。声読、朗読から黙読に移った時に、無意識が生まれたのではないか。そういう事を言われる。松岡さんが説を立てられたのではなく、そういう考え方があると言われる。

 

それと別に、黙読を朗読にもどすと文の意味合いが変る。そういう説、意味合いを主張される方もある。私はどう思うか。朗読に向く文があり、黙読に向く文がある……そう思います。

 

別な話で、いわゆる心理テストで「あなたは無人島に泳ぎつきました。その島にはヤシの木が1本あり、ヤシ実が落ちている……ヤシは何個ありますか」そういう質問というか、遊びであります。

 

心理テストはある心理学者が、テレビ番組のアルバイトで発明したゲームで、発明した学者は当たらないト断言している。ところがその心理テストは流行りに流行り、TV番組が終っても、学者と別な人が、次々問題を作っています。

 

物事には表面の意味と違う、別な意味があります。当たる当たらないとは別に、バイト学者の考え方は容認されてしまった。それは自分が思う自分と、別に自分がある……あるのではないか、との考え方です。

 

空想の島や空想のヤシは同じように見え、個人それぞれで大きく食い違う。どうでもいいように見え、どうしてもそうでなければならない部分もある。一端、ヤシが3個落ちていると思うと、1個や5個にどうしてもならない。

 

漱石は先々代の落語家、小さんが好きで……それは判っています。多分ですが漱石は、小さんの口調で文を書いたと思われます。私はそんな前の小さんは知りませんから、先代の小さんで間に合わせます。頭の中、小さんの声で三四郎を読みます。

 

ある友人は小さんより円生がいいというので、円生の口調で読んでいます。小さんがいいか円生がいいか、どうでもいい論争になります。ゴチャゴチャいう位なら誰でもない、完全黙読にした方がいい。そういう意見も当然、あります。

 

ヤシが何個、落ちているか?「三四郎」は小さんの声で読んだがいいか円生の声で読んだがいいか? 自分という物の正体は、その辺にあるのではないか。どうでもいい、その毎日の集積が自分ではないかト私は思います。

 

朝飯は御飯でもパンでもどっちでもいい。しかし御飯がいい言う人は、どうしても御飯と言います。思い込んでいるだけです。パンを食わせても別人になる訳ではない……しかし、その人の習慣を一つづつバラして行くと、どこかで別人になって行く。

 

ああ、ヤシの実の数は、これからあなたがしたいと思っている恋愛の数です。最近は女性も恋愛は、ある程度は数こなさないと損した気になるそうです。昔、男がそう思いました。最近の男は、あんな面倒なことは一つで沢山と、そう思う物でしょうか。

 ●ヤシの実 http://www.youtube.com/watch?v=H58nV1VEOQM&feature=related

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