« 2012年5月 | メイン | 2012年7月 »

2012年6月

2012年6月16日 (土)

道州制を手掛かりに 上野真也

Ueno 上野真也熊大教授の「地方行政の論点を学ぶ――道州制を手掛かりに」の講演を聞きます。結論から先に書きますと道州制への反対論です。大きな話や固い話は、私はあまり好きではない。ですが当日、付近に居り、ついでにお寄りします。

 

熊本の道州制論議は、九州の中央に熊本がある。州都は熊本という前提になります。ウイッキペディアで検索すると九州と言われず、福岡州と書かれます。九州という呼び方より福岡州が普遍性があるかも知れない。つまり熊本州都も判りません。

 

上野教授の話もそういう意味合いがありました。道州制論拠のひとつに政治的な網目を大きくしてコストダウンできないか? 行政コストを下げる話があって、上野教授は、そしたら地域が割りを食うの主張があります。

 

私は体育館やプールに通います。市のプールでも県のプールでも同じですが、県は市内ではないが、熊本市寄りに県プールを作りました。熊本が州都になると、州都プールは熊本市、その付近に出来る可能性が高い。

 

福岡州になったら州都プールは、博多か北九州に出来ましょう? その可能性が高い……そうすると入りに行き辛い。あまり面白くはありません。そういうレベルの道州制が大半で、取らぬ狸の何とやら、州都熊本論、熊本が儲かる話です。

 

冷静に海外を含め、周囲を見回すと都合が良すぎます。それでも仮に、州都庁の建物を建てるとして、内輪に見積もって幾らか?県庁や市役所の廃止にも、結局は金がかかる。それは幾らか、コストダウンにはならないのでは?

 

東日本震災前の日本ならいざ知らず、電気の不足を言われる今、どう衣替えをする。誰が費用を払うのか? 道州制に賛成の人は夢想家が多く、その辺に具体的プランがない。

 

いえね、熊本市には多量の湧水があって、今の所は水の原価が安い。すでにプールはいっぱいあります。8月の乾季にも水が替えられる。北九州や博多では、こうはいかない。

 

同じ九州でありながら特殊な状況にある。道州制になったら、こういった特殊性を誰が把握するか。行政の網目を大きくしたら細かい把握は出来なくなります。

 

熊本市はともかく、何とか町の町立体育館が障害者リハビリに使えるか否か、判らんでしょう? 行政の網目はもっと大きくてもいい。その意見が正しいかどうか、本当のことは判りません。

 

つまり道州制はやってみないと判らない。言い方は私流に具体化しました。上野教授は今の行政コストは世界標準から見ると安い、優れていると言われる。私にはそれは判りません。

 

現在は国立大学は法人となり、教授は公務員ではなくなった。ただ、みなし公務員ではあり公務員と同じ。なお一般論では大学も定員割れとなり、廃統合の流れにある。ムダをいうなら教授も多すぎる事になる。

 

 

 

大きな話や固い話は、私はあまり好きではない。仕組みを変えれば得をする人や、損をする人が変る。こうすれば自分はもっと得が出来る。その話を一般化し、損を他所に回す。本日、上野教授の話に、そういう所はありませんでした。

 

 

 

 

 

●大前研一「変な言い方になるが、実現するために国民に理解してもらおうと説明すればするほど、反対派が増えるのが道州制の問題なのだ。むしろ国民に必要以上に説明などしないで、強引に推進するほうが実現する可能性が高いくらいだ。言ってみれば、小泉前総理のようなやり方だ。わたしはああいうやり方は好まなかったが、道州制に関しては、あのくらい強引に進めないと実現できない事業といっていい。」

 ●第2回熊本元気塾 7月26日 18:00 石橋妙子教授 台湾で活躍する若手経済学者 演目「台湾から見た日本経済」℡096・377・2091流通情報会館での要予約

2012年6月14日 (木)

ジャッカルの日 映画

Kikuti 追われる身を意識し、それでも何かを追うように見える。そう見えるだけかも知れませんが、逃亡者パターンです……逃亡者だって、たとえが古いなあ。行動テンポが速ければ知的に見えます。

 

すぐ横で見てても、よくよくの理解はできない。逃げるのに大事な物といえば、まず現金。一千万の金を確保しておいて監視カメラをかいくぐり、どこか地方に向けて逃げます。

 

市橋達也の場合には金がなく、徒歩や盗んだ自転車を使ったと言われる。一度は羽交いじめにされたが振りほどく体力、はいていた靴下を脱いで警察犬をかわす。逃亡の知恵が本能的にあった。

 

髪の色を変えメガネをかける。変装は自分を変える事だが、私たちは自分が何だか判らないまま、変化を嫌う。まるで守るべき何かがあるかに、今の自分にこだわる。その辺も自由といえば自由ですね。

 

持って回りましたが、これは逃げ回っている元オウムの高橋容疑者の事ではありません。昨日見た映画「ジャッカルの日」のジャッカルの事です。営業は殺人、特殊な銃での暗殺を請け負う。

 

ジャッカルの日はフォーサイスさんの出世作で、ご本人にも似たような試みがあったとか。半フィクションとも言われます。監督のジンネマンさんも「真昼の決闘」から「尼僧物語」「ジュリア」、なぜか孤独な主人公を描く事に熱心です。

 

それと共通点はないが、追いかけられるのが私も判る。老いが私を追いかけてくる。障害者にとって追手の足は早いのです。油断をすれば私の体力が落ちます。落ちる前に筋肉を取りもどす必要があります。

 

何度、腕立て伏せが出来るか。また立ちしゃがみが出来るか。身障者だからそんなの出来ない。泣き言を言うのは容易く、パソコンもケータイも出来ない。そう、いい訳も簡単です。でも追い詰められるのは自分自身。

 

手で杖を突く。身障者は手の筋肉を健常者以上に必要とします。筋肉がなければいくら杖をついても、こけてしまう。だから車椅子を使う人もあります。車椅子は電動になり、ボケれば外出も難しくなる。

 

そういう風に、どんどん重度化する。そうしない方法は簡単、杖を突くために握力を保持する。パソコンやケータイでの買い物も出来る体制を取っておく。少なくともある意味でのスーパー障害者になっておく。

 

スナイパー・ジャッカルに学ぶ事は殺害方法ではなく、自分の自立性を高める事でしょう。キレイに言えば、無意味な自分は脱ぎ捨て、今の自分自身を作ることです……汚く言えば。

 

平田容疑者の逮捕時に、高橋容疑者は菊池容疑者との別れを考えたか? 高橋容疑者は二人の1500万をそして折半にしている。菊池容疑者はその金を高橋寛人氏に貢ぎ、用が無くなった所を通報された……そんな所ですか?

 優れた映画は現実に重なり、そうでない映画は誰とも重ならない。時代に重なり誰かと重なり、変る事のない永遠とさえ重なる映画を名作という。「ジャッカルの日」という旧作は今、この日と重なっている。

2012年6月13日 (水)

二十歳のころ 本

Hatati 「二十歳のころ」という本は東大に行った立花隆さんが「聞いて書く」ゼミを開講した。その経過も交えて本にまとめた物です。先日書いた「信者A」とは後先ですが、この本を紹介します。

 

最初の対象者は大江健三郎。公開で大江さんに、立花さんがインタビューをします。大江さんは東大の出身で、二十歳のころに1浪して文学部に入った話から始める。

 

浪人、ストレートではない事は初めて知りました。大江さんが失敗した話に学生はドッと笑う。なぜ、立花さんがこういうゼミを始めたかは、まだ見えません。大江さんの講演を、私は別な場所で聞きました。

 

ノーベル賞を強調しない講演でした。仏語なまりの口調で大江さんは、ユーモラスに三枚目を演じた。このインタビューもそこはそれに準じます。趣旨としては普通の青年が普通に生きて行く事を応援する。そういう内容です。

 

聞いた講演もそうでした……ただ私が聞いた改装前の熊本市民会館、2000弱の観衆。取材では東大キャンパス、エリートたちの前、同じとは取れません。本全体はゼミ学生の編集で、670ページ量に対し2200円です。

 

立花ゼミは内容をゼミを公開し、取材対象も募ったらしい。大学外から糸井重里さんが手を上げ、入ってます。奥さんの樋口可南子さんも……。意外にもAV女優や監督、その関係取材も多くありますねえ。

 

まあ好きな所から読めばいい。実は私も、これと似たような本を出していて「調べて書く」と無関係ではありません。以前の本は、言われる事を信じて書きました。疑いを持ったり事実の確認は、あまりしなかった。

 

いわゆるノーベル賞作家と違う大江さんが出てくる。立花さんは大江さんを呼ぶとこうなる。予想があったと思う。そこは大江さんも計算済みで出てくる。そして学生をドッと笑わせます。

 

東電事故で見えた。現実は意外な現実です。つまり日本はみんなが思ってるような国ではなかった。調べて書くと、そういう現実が出てくる。誰でも調べないで信じる。なぜか、それが楽ですもの。

 

ある日、信じた事と違う現実に愕然とする。たとえば日本は間違っていて、それが判った今も、それは正せない。日本は事を正せないないまま、間違いを押し通そうとる……

 

物は信じて考えると間違う。面倒でも見て聞いて、実際に見聞きして考えた方がいい。立花さんは見聞きの秘伝、取材の極意を裏表紙に書いています。これだけでも読んだがいい。その方法は庶民だろうが東大生だろうが大差がない。

 

立花さんが20歳のころ、何をしたかも取材させています。誰も20才に帰ることはない。だが40才に出発しても60才に出発しても、再出発すれば問題は同じになります。

 ●新潮文庫820円、私が読んだのはbookoffの旧のもの。旧はいく通りもあるようです。

2012年6月12日 (火)

ミュージック・フロム・アナザー・ルーム 映画

Myuj_2 それほど気にしなくてもいいが、これはアンナ・カレーニナを翻案、ハッピーエンドに直した映画です。主人公の名前がアンナな訳です。いくつかの恋愛が平行して同時進行します。「Music From Another Room 別の部屋からの音楽」

ここで音楽とは恋愛の意味で、このタイトルは日本式に言えば「男女7人恋物語」です。そういう訳で翻案に無理があり、不自然さもあります。さんま・しのぶさんが盛大に口喧嘩するシリーズを、私は連想します。

恋愛はカップルの共通点が多いと、穏やかにまとまりますが、面白みはない。両名の差が大きくお互いにない物を補い合うと、大筋まとめるまでが大変です。そのかわり強固なカップルにもなる。本作では後者を肯定します。

前者がいいと言う人も当然あって、投票で決を取ると前者の方が多いかな? しかし恋愛は決を取るものではなく、恋には落ちるもので……あなたの恋愛はどちらだったのでしょうか?

映画はそういう風に考えさせ、さらにもう一つテーマを設定をします。アンナはすでに婚約しているが、その理由はエリックがハンサムで裕福だからです……そして展開は違う側面を見せ始めます。

アンナの母は病弱、妹は視力障害、つまり家庭は不安材料を抱える。無意識にアンナはエリックの金をアテにしている。露骨にではなく潜在意識で都合のいいように操作している……らしく見えて来る。

「ねえ君、不自然だよ。それで君の幸福はつかまるのかな」と映画の作者たちは問いかける。なぜなら、原作のトルストイは、恋愛より信仰が大切の主張があって、そのようにアンナ・カレーニナを書いている。

この映画には一種、反共ともいうべき主張があります。そこで私は思います。恋愛は自由で、その象徴のようにさえ言われる。本当でしょうか?……アンナはお金に恋していたのではないか。

たとえば豪邸を見るとポーッとなる女性って、いないでしょうか。お嬢様でないと恋愛の対象にならない男っていないでしょうか。健常者が対象にならない身障者は……それとも、それはそれで合理的なのだろうか?

障害女性は晴眼者でないと対象にならなかった、のではないか。つまり愛の純粋は神話に過ぎない。この映画で、トルストイ神話が裏返されたように、私ももう一度、映画を裏返そうと思うのです。

コインの裏に表を張り合わせたトリックのように、ウラのウラはすでに表ではない……この言い回しは本作を観れば判ります。ドラマの設定を引っ張ったさんま・しのぶさんは、本当に結婚してしまいました。

やっぱりドラマはドラマに過ぎない。結局、二人は別れ、今はそれぞれの道を歩きます。トすればハッピーエンドがハッピーと限らず、結婚で終る恋愛も幸せと限らないのでは?

……それほど気にしなくてもいいが、ハッピーエンドはいつでもアンハピーに直せます。世界中には、いくつもの恋愛が平行して同時進行します。その事をミュージック・フロム・アナザールームと言います。

●ミュージック・フロム・アナザールームhttp://www.youtube.com/watch?v=r-1avlEZYy8

2012年6月11日 (月)

cafe kounyusya

Cyoko_2パフェが好きな訳ではなく、グルーポンがなければ、これも私は食わなかったと思います。グルーポンでの外食がシリーズ化出来そうで、今日の所はチョコパフェ+コーヒー、350円のリポートをします。

 

巧乳舎と書いて巧の字が、私も怪しい。熊本では老舗になりますが、最近は知名度が下がります。駅前で場所を聞いても判らない。「こうにゅうしゃ」も「コウニュウシャ」も飛ばしてKounyuusyaに名前を変えた。

 

それで駅の構内、入口の店で聞いたら「そこ」と、すぐ奥に店はありました。ローマ字への変更は、よかったか悪かったか。チラ見しても名前が結びつかない。奥の店と、Kounyuusyaのネーミングの相性は……いきなりダメ出しの私もどうかと思うが。

 

そして店内、客は誰もいない。紹介写真のように本当に誰もいません。グルーポンには平日利用に限るとあったような……駅前の図書館、プラザ店から一息つくのに使えるかと、一枚買いました。

 

飲物とパフェがそれぞれ選択になっていて正規には倍額、700円という。無人とはいってもウエイトレスは居られます。予想通り、コーヒーはエスプレッソで私のタイプではない。文句をいう筋合いではない。ここには書かないが、今日は一息つきたい訳があった。

 

その訳を取り出して読むのです。フランスやイタリアではコーヒーといえば、もはやエスプレッソという。それがエスプレッソカップではなく普通っぽい小さなカップで出てくる。それも文句をいう筋合いではない。

 

歩かないと足の具合が悪くなる。歩き過ぎても悪くなる。その間で立ち止まり一息をつく。飽きあきしてはいるが自殺を考えるほどではない。私の人生はそんなモンで……いや誰の人生だってそんなモンだろう。

 

珍しい事なら書きようがある。御覧の通り私の日常は平坦で、事さらの書きようはない。いつもの町で見知った店で食う、このグルーポンをシリーズにして書く。うまくいくか、ご心配の向きはないでしょうか? それはこうするのです。

 

コーヒーから間を置いてチョコパフェが来ます。店の売りはチョコではなくイチゴです。イチゴは赤く、赤が立てば視覚効果は上がります。しかし私はイチゴは躊躇します。和風パフェもあるが、どういうものか絵の説明がない。

 

来る前それにするつもりが、先にも書いた訳に疲れたか。画像のチョコを注文した。現物を見て気が付いた。私はパフェは食べた事がなかった……旨いか? ウ~ン、これは水を請求するといい、かもしれません。Eki

 

記憶の彼方、幼児期の記憶は確かでないが間違いなくチョコパフェは食べたことがない。比較は出来ない。不味いとも美味しいともコメント出来ません。今度来る時は、和風パフェします。

 

どこか遠くの見知らぬ街に、初体験があるとは限らない。もはや体力はない。遠くや、あこがれに向かう事自体に、無理がある。概知の中を確認すれば、見知らぬ風景が見えて来る。それもやり方ではないでしょうか。350円の安っぽいリポートはこの辺で。

 

●遠くへ行きたい 詞を書かれた永さんも、今は車椅子でリハの毎日だそうです。

 http://www.youtube.com/watch?v=-y0Y61lTS_g&feature=fvwrel

2012年6月10日 (日)

信者A

Oumu 新潮社「二十歳のころ」に元オウム真理教信者のインタビュー掲載があります。しかも重点がかかって、少ない人の3倍の分量で、取材時間はもっと長いらしい。今、高橋ニュースで関心が深まってるし、これを題材にします。

 

元信者Aは男、文学専攻、宗教にも関心があった。死の向こうは何か、霊的なものが欲しかった。簡単な方法で、死後かあの世を覗きたかった。当時、麻原は「生死を超える」いう言い方で勧誘していた。

 

仏教大学、そういう進学をしたら良かったろう。だが大学では具体的なあの世は教えない……漱石を読んでもエッチなシーンはないから詰まらない。そういう話でしょう。三四郎とか、よく読むとあるんですが、マいいや。

 

Aはヨーガや経典に当たっています。もう一つ、ひとりでやるのはイヤ、宗教的なセクトにも属したくなかった。同一していいかどうか? 障害女性に、AVを借りて来てくれ。私は頼まれた事があります。

 

OKして「どんなのがいいか?」ト聞くと何も判らないという。AVは知らないから観たい……そういう話でした。女友達同士で相談すると誰が借りに行くかが決まらない。例えていうと、そういうレベルの話でしょうね。

 

障害がある。自分自身を生きるのに限界があるトいうより、予め自分自身に関心が薄い。だから前提としての死の向こうも、何もないかも知れない。そういう方向では考えない。考えたくない。

 

映画でも見るように、ロマンティクに期待して、なるべく集団で確認を取りに行きたい。取れるはずない。ホラーやサスペンス小説を、チラチラ見して先を確認し、主人公がどうなるか見ながらでないと本が読めない。つまり大人に成れない。

 

Aはオウムで、ヨガでの不思議体験をします。薬が使われた、ただの噂を流した部分も。Aはオウムを離れた今も(本は98年の刊)そういう体験を求めます。止めたが懲りていない。

 

言っていいか? 障害女性は、それで私とAVを観ようと切り出した。女生徒は教員室に行く時、誰か友達を誘います。初デートに同性の友達を連れて来る人がありますが、最近は男も、初デートにはお母さん連れて行くとか……マいいや。

 

Aは「ぼんやりした不安みたいなもの」という。Aはそこから出発して、欲をオオムに増幅され、掠め取られた。Aは半ば間違いを認めながらも今も反省はない。明確な自己を求めようとしない。

 

そんな点をオウムにつけ込まれ、金を出せば体験できる。悪事を働けばステージが上がるという。麻原は悪いお父さんを演じ、思うように操った。

 

弱い自分をどうしたらいいか判らない。まして小さな変化でも起きればなお、判らない。やがて家にも、自分にも帰れなくなる。障害女性は自分の部屋で、AVへの小さな好奇心さえ満たせない。

 

私は見た事がある。10本ほどのAVを抱え、そのコーナーから出て来る女性を……2、3日絶食すればフラフラになる。あの世は見えないだろうが、フラフラになって死んでいく自分が少しは感じられる。

 

AVくらい、自分で借りに行けばいい、死ぬほど恥ずかしいだろうが、それでも死にはしない。小さな現実に意味はない。だが体験すれば確かな自分を受け止められる。行動前より行動後は、はっきりする。

 自分が曖昧、現実が曖昧、さらに曖昧なあの世をチラ見したい。来世があったとしても無かったとしても確かな物は見えない。今を確かに生きなければ見えない。信者Aのオウムは何だったか、よく書けていると、私は思います。

●何の関係もありませんが、ここで一曲。中森明菜「少女A」

http://www.youtube.com/watch?v=yWqOVmIcRms&feature=related

2012年6月 9日 (土)

ホープ・ツリー

025009 単純に「事実を受け止める」という、そう表現します。何かが悪いのでもなく誰かが原因でもない。そういう意味です。昔は不条理とか実存とか神の不在とか、難しい表現しました。

 

 

これは東電事故や、与野党の駆け引き、政治の話ではありません。小さい子供に言う時の、親のガンを何というか。小さい子供が親を看取れるモノかどうか。そういう話です。簡単ではないにしろ、ない事ではない。

 

 

 

看取りには子供からいっての、祖父母の納得が得られないそうです。自分がガンでない一般にとっては、そんな小さな子供がガンを看取るなんてとんでもない話という。

 

 

 

秘密にして隠すべき、なかった事にして置きたい意見が大半で……もう一方でガンになった親にすれば事実は事実、消しようがないのです。

 

 

11才の時、実際に私が見たのは、子供の死が決まる事。泣き崩れる母を「泣きいな」と女の子が叱りとばす光景です。私より1つ下、その子は10才でした。子供が母を叱るなんて、ありえない。常識ではない光景が、実際にはあるんです。

 

 

父親は散歩に出かけると道で棒切れを拾って来て、ナイフで棒切れを刻み、こけしを作る。父親は父親で悲しみを隠し切れない。それが私にも見えました。11才の男子と10才の女子では、女子の方が大人です。

 

 

実の母親の、そんな露骨な悲しみ方が何を意味するか、その子に判らないはずはない。「泣きいな」という不快の表現、女の子は通りかかった私を見つけて声を変える。蒼ざめた顔のまま、陰鬱から逃げ出すには本の中、物語しかなかった。

 

 

 

「本、貸して」という。それで「なんか本ない? 本、貸して」その子はいつも私には、そういいました。媚というには当たらない。あのキツい声の表情はなりをひそめます。奇妙な本の貸し借りは映画「禁じられた遊び」に似ていたかもしれません。

 

今はガンになった親の会が出来ていて、ホープツリー(Hope Tree  責任者小林真理子准教授)という。いや、パパやママがガンになった子供たちの会というべきか? そんな会があるそうです。

 

それは死んで行く親を送る、他人の会、親の会な訳です。本当は子供の親族が集まって、生前葬でも上げるように、ガンで死ぬ親を送って上げればいいのに、そうはならない……今、ブータンやチベットなら、そうなりそうな気が私はします。

 

その頃の私の担当は、医師としては劣等生の研修医でした。優秀な研修医とタッグを組んでいて、何かというと私の処置もその研修医にさせてしまうのです。私の担当医は、隣の空いたベッドで私の漫画を読んでいました。

 

優秀な研修医の声が、ふとしました。それを聞きつけた私の担当医は叫ぶように言いました。

 

「××先生、神さんな居らんて思わんな。オレは居らんと思う……罪のなか子が何で、こがん病気せなんと……神さんは居らんと思わんな」

 

むろん優秀な研修医は何も答えませんでした。廊下のどこかで立ち止まった気配はありましたが、何も言わず廊下を歩いて行きます。私の担当医はまた、ベッドに寝転んで漫画の続きを読み始めました。

 

 

 

●がんナビ がんの親を持つ子どもの心、どうサポートする?

 http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/all/cancernavi/report/201109/521496.html

2012年6月 8日 (金)

図書館で2

Tosyo 「すぱいす*spice」への便乗記事です。もっともスパイスの前に先行記事は書いていて、視聴率がよくて続編を考え、取材しあぐねておりました。先を越されたあ~ぁ。

 

まずプラザ館の使いこなし、季節は限られますが、借りた本を館外のベンチで読むのが爽快です。スパイスには企画催しに、わざわざ行くと言われています。近代美術館の図書室は、場所柄、待ち合わせにいいですね。

 

市立図書館はネット連携されています。本の所在をネットで検索出来ます。あれば借りる。遠くにあれば注文、貸し出されていれば本屋、あるいはBOOKOFFを探す方にします。いらない本は寄贈出来ると、読みたくなればまた読める。(図書館に電話相談を)

 

珍しい本で実際に読んだのは、岸洋子「さくらんぼの楽譜」。文庫化されておらず、ネットで2800円のプレミアムが付いてます。あまり高くなるようなら貸出し禁止にすべきかも。

 

検索用でなくパソコン借りられます。プラザでは30分の貸出し、空いていれば延長が可。ただヤフオクなど、アクセス出来ない所もあるようです。

 

「すぱいす*spice」記事にはおススメ本が出ています。司書はどなたも女性で、ほぼ洋本を押されています。私としては出来れば和の、男本を押したい気がします。それでは推薦合戦とまいりましょう。

 

まず鈴木奈緒子司書はアランの幸福論、白水社を推薦。「幸福になるために自ら行動を起こす」とコメント。私は葉隠とかあるんですが、戯曲です。メーテルリンク「青い鳥」自分のでなく、他人の青い鳥を探すのがポイントになります。

 

蔵座江美司書の推薦は安房直子「ハンケチの上の花畑」あかね書房。私も児童ファンタジーで「かいじゅうたちのいるところ」センダックさんの絵本原作で、最近映画化、DVDも出ています。

 

古賀加奈子司書も児童書、エレーナ・エステス「百まいのドレス」岩波書店、いじめや差別を扱い、後半では誰もが納得できるとのコメント。立花隆「二十歳のころ」新潮社、東大ゼミ「調べて書く」から生まれた生徒たちの本です。市立図書館にはありません。

 

森田由貴恵司書の推薦はエリザベス・コーディー・キメル「エンディアランス号大漂流」あすなろ書房、遭難から奇跡の生還、リーダーシップや勇気について。渡辺一史「こんな夜中にバナナかよ」人間の自立の意味。これもノンフィクション。

 

松下美智代司書の推薦は村井昭夫他「雲のカタログ」草思社。活字ではない本というコメント。アラーキーは空を撮るのを空写と言いますが…… 沢木耕太郎「天涯」集英社文庫。いうなれば写真版の深夜特急です。

 

ネタがない。私のは推薦という程のことはありません。読んでほしいという程もない。何か上げて書かないと記事にならない……読まなくていいかあ。

 

●図書館で 1229

 ●「すぱいす*spice」http://spice.kumanichi.com/backnumber/

2012年6月 7日 (木)

NEXT 雑誌

Next そういう訳で単科目よりは多目科が有利です。私の場合、月曜に筋トレしたら火曜日には水泳を、そして水曜にはTVゲームのWiiにします。Fitですね。木曜はサボって、金曜からまた繰り返す。

 

筋トレと水泳、両方という人は少ないようで、障害や老化のリハにしている人はないという話です。……していると一本化を薦められます。水泳大会が近くあるとか、遠泳会に出たら面白いのでは……それも確かに悪くないですねえ。

 

でも事実として、勧める方は水泳だけを筋トレだけされています。会に出るという事は結局、1本化、ないしは1本化に近い事になる。そういう意味になります。私としては、もう1本するとすれば、何でもいいが違う事をやりたい。

 

変化です。そういう時代です。豊かさの意味は、あれもこれも、そして全体バランスを取る。ひとつきりでも在れば幸せ、昔は何もない時代でしたもんねえ。記録をそして金メダルいうのは、前時代、昔の発想でしょう。

 

一般に昔が切り替わっていない。体育館で取ってる雑誌にNEXTというのがあります。6月号はピラティス&ヨガが特集になっている。ピラティスは最近、注目を浴びたトレーニング法で、これはもう少し知りたい。(下記)私も判らないながら、NEXT6月号をもう少し説明します。

 

ランニング、ボクシング、ラグビー、アスリート一般の、あるいは産後ママのリハ、心の安定化といった効果が書かれます。ピラティス&ヨガは独立して行うのでなく、一般スポーツへの取り込みの模様、その効果が記事にされています。

 

それでトレーナーに聞きます。しかしピラティスは判らない。新しいトレーニングは基本的に、ここはやらない方針という。曖昧ながら、そのようにも聞こえる答えです。

 

最近はどんなスポーツも色んなトレーニングを取り込んで強くなる。そういう時代です。少なくとも熊本ではピラティスに対応出来ない。取り込み不可。このNEXTによると対応している県はあります。

 

私はピラティスできない事、自体問題と思いません。ピラティスに対応出来ないように、新しいトレーニングには何にも出来ない……となると問題と思います。認識、対策が遅れたいう事です。

 

私が水泳への1本化を勧められたように、熊本お家芸その選手、野球やバトミントンや柔道や剣道、スポーツ1本化で強くなるように強いられるなら、ならばだが違うのではないか? 熊本の選手は頭打ちではないか……多分リハも同じ運命になります。

 ●雑誌NEXT ピラティス&ヨガ特集http://www.fujisan.co.jp/magazine/1281682301/?link=related

2012年6月 6日 (水)

記録や金メダルより

Kin 吉永小百合さんの水泳CMが流れたのはいつの頃だったか? 吉永さんは泳ぐ日には3キロ泳がれたらしい。今、奇跡の66才と言われるらしい……らしいばかりですが、いろんな俳優が体力保持に水泳に注目し、泳ぐのが珍しくなくなります。

 

例えば桃井かおりさんは、宮沢りえさんを誘って水泳教室に行ったという。そういう話があったのをTVで見ました。桃井さんはそう言ってませんが、吉永さんに右習いかも知れません。

 

これは良いことで、何も悪い訳ではありません。俳優のスポーツでは筋トレも珍しくない。堤真一さんは「筋トレはあまりやっても……」とコメントを入れます。

 

演じる内容を広げるための筋トレで、筋肉をよけいに付け過ぎても、演技範囲を狭めるトの見方です。過ぎれば筋肉の鎧がジャマして自然な演技は出来なくなる。

 

もう一方で嵐やジャニーズ系の若い世代のタレントが細マッチョ、そう言われる体型を目指す。直立不動で歌うのでなく、動きながら踊りながら歌う事が標準になる。基礎体力が問われるからです。

 

身体や、基礎体力への考え方は変っています。やり方として、サッカーや野球で地域ナンバー1を目指すのは古い。私の世代は長嶋選手にあこがれ、野球するのが流行りました。

 

この辺をねじめ正一さんは「長嶋少年」という小説で詳しく書かれます。野球をサッカーに変えただけでは変りません。何とか一筋では解決出来ません。従来のリハもこれに準じます。

 

たとえば80代女性が水泳を覚え、90代で世界のコンテスト荒らし、金メダル集めという勇ましい。むろんスポーツがスポーツとして機能してるので、これが悪い訳ではありません。

 

勝間和代さんは経済評論家、フィナンシャルプランナーです。勝間さんはスポーツを3科目、いや4科目される。スカッシュ、筋トレ、水泳、もう1科目は自転車です。

 

最後のは交通手段でスポーツに入れるべきか否か? どちらにしろ勝間さんは身体を一生に渡って管理し、効果を最大にする? 本人はそう言われませんが、お金のマネジメントをするように身体をマネジメントして使うという考えです。

 

言われませんが、私は勝間さんに、そういう視点を感じます。これはスポーツの新発想にもなります。リハにも似た事が必要ではないか。瞬発力と持続力、バランス力と動体視力……どんな力も平均して訓練出来る万能のスポーツはない。

 

あれを少し、これを少し全部足し合わせて、全体で機能させたい。すると2科目よりは3科目のスポーツを行う。記録や金メダルより実質が欲しい……合理的効果を狙ってもいい。

 記録や金メダルはいらない。集中ではなく分散、これが新トレーニングと言えないか。身障や老化からのリハを発想すると、そういう考えになります。