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2012年1月27日 (金)

日々の生活と千日行 藤波源信

Azyari 藤波源信住職は千日行を終えられた阿闍梨という。阿闍梨とは何か、生き仏さんという意味で、一山宝珠院の周辺では住職を「阿闍梨さん」という……まあ見当が付くような、付かない話です。熊本元気塾講演を聞きに行きます。

 

千日修行というのは7年がかりの行をいい、最初の3年は百日修行というのをやります。比叡山の道なき道を1年百日、普通に歩けば3時間くらいの工程を8時間かけてお参りする。春から夏にかけて300ヶ所をまいる。

 

参るというのは石仏や、水源、樹木、岩を拝むことです。比叡山にはこれらが300ヶ所あるといいます。300年以上の樹木や大きな岩を拝むと言う事は、自然崇拝です。生きるも死ぬも自然と共にいう心境を求めるのでしょうが……言葉としてはありません。

 

師の言葉では「伝統の方法には合理的な意味がある」白装束は動物を嚇さない。熊やハチにヤラレない為に必要」であるトいう考えです。確かに一理あります。書いたようなプログラムは慣れてくるとなまけたくなるそうです。

 

時期的には9月の初め、怠けたいけど怠けられない。修行の道の要所要所に接待のお茶が出してあり、それに手をつけないとバレるそうです。そういう意味の仕組みは上手く出来ている。4年目以降は200日修行とか何とか、ハードになっていく。

 

いきなりは出来ないが順を追うと行は出来るそうです。ただし戦後12人目で沢山、阿闍梨が出来た訳ではない。クライマックスは7日間のまず食わず眠らずという行で、これも詳しい人は判別が出来るそうです。寝たら首筋に出るとか……ここは判りませんでした。

 

修行とは、生と死のギリギリの所まで行く事のようです。比叡山だけでは足りなくて京都の街中まで下りてきて、とにかく歩く。歩く歩く……お分かりの方もあるかと思います。これはランニングハイになります。

 

こう言ってはいけませんが、修行プログラムというのは筋トレや水泳プログラムと、そんなには矛盾しません。修行によって神がかりの能力や、念力が出るといった事もない。師のいう行は神秘的なことではない。

 

ネットで検索すれば「自然とともに生きていれば、 自然が守ってくれる」という言葉が印象に残ります。講演では「ある意味での修行は日常でも行われている」という意味合いの言葉もありました。行が完成すれば、再びその一部も、行われることはない。

 

会場からの質問が意地悪で体重を聞いてました。師は写真よりは太っているのですが「歳なんです」とお答えでした。週に2日も3日も走る人はあり、そういう人は60代でも痩せています。行にも終わりにしてはいけない部分ありそうです。

 

修行と日常の違うところは緊張、覚悟を伴うところで、私たちの日常は緊張感のなさすぎ、不覚悟に過ぎるところでしょう。修行では歩けなくなったら自害する覚悟と、縄を持って修行に出るのだそうです。

 

 中外製薬インタビュー

 http://www.chugainippoh.co.jp/NEWWEB/n-interviews/Nint/n-d031004.htm

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