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2010年12月

2010年12月31日 (金)

新年へ

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2010年12月30日 (木)

受容

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知り合いのお父さんが亡くなられ、残った兄弟がややこしいのです。ややこしくなるのは判っていて、お父さんは何も言い残しませんでした。死因が何か、どういう事情か……ここに書く訳にも行かないのです。

でまた週刊新潮の49号を出します。記事のタイトルは「有名女優の介護日誌」です。まずは磯村みどりさんが出られます。ボケたお父さんを立てるとあり、実の親で当り前と言われる。ただ磯村さんトコは症状が軽く、内容にも罪がない……当り前とも、いっていられる状態です。

荒木由美子さんの場合は違う。「私はご飯食べたかな?」というお母さん。嫁が「食べさせてくれない」の意味合いがあります。宅配便が来ただけで「由美ちゃんに男がいる」お母さんが言い出す。どうも心の底で、嫁の由美子さんを受け入れていないのです。

敵意といっては何ですが、時々不安を表明される。このあたりから老いの現実、問題点が見えて来ます。そしてだんだん当り前とも済まなくなる。先が見えなくなり気が狂いそうになる……と荒木さんも自身を表記されます。

なぜ悪い方にボケるのか? なぜ兄弟のためにお父さんは遺書やエンディングノートも残して行かなかったか。話は、そうつながります。介護日誌3つ目のケースは、坪内ミキ子さん70才。亡くなられたお母さんは86才でした。

転んだのを切っ掛けに寝たきりに、しかし「体ではなく心の傷で殻に閉じこもってしまった」と坪内さんはいわれる。坪内さんが夜は隣部屋に泊まるが「オシッコ」と起こされる。それだけではなく枕がずれた。「もう一度、布団を押さえてくれ」坪内さんは5分置きに起こされます。

寝られない、それで夜だけでもオムツにしてと頼むが、「それだけはやめて」とお母さんに固く断わられる。繰り返します、お母さんは心を病んだ。その時は理由も判らないが、今となればト坪内さんはいいます。

夜に限って手を取る理由、私から簡単にいうと死への不安です。年を取ると不安がなくなる訳ではない。体が悪くなり年齢がいくほどに、死は具体的なものとなる。私は11才で病院暮らしを経験します。死とも馴染みますが、誰でもそうはいかない。

いい年をして注射が怖い人もあれば、やっぱり死が怖い人もいます。体調が悪くなるほど、やたら旅行に行きたがる言う症状の原因に、これがあるかも知れません。不可解な行動の、原因のひとつになります。

死が迫れば迫るほど、兄弟のお父さんは遺書やエンディングノートを作ろうとしません。受容できない人にも最後はそれでも来る。判れば判るほど、自分の死と折り合えない。その思いはお父さんにも強かったのではないか?

お父さんが亡くなった後、兄弟は家をどう分け合うか? 今も悩み続けます……あなた、ご両親はご存命ですか。ご両親はご意見、今後について文書で残されてますか?

2010年12月29日 (水)

愚か者のランプ

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明るいか楽しいか、将来に期待が持てる話題が少ない。端的にはないのが現実です。私の友人にはTV、新聞の一切を止めてしまった人がいます。私自身はそんな事はしませんが、気持ちは判ります。日本は成長を止め、世界は閉塞しているようです。

週刊新潮49号が「愚か者のランプ」とTVの悪口を書く。報道でのコメントの質が落ちた。日テレは特にその傾向が強い。そもそもニュースに、なぜ芸能人コメントが必要かといいます。白痴的、小学生的との内容が言われています。

確かに単純化が過ぎる。判り易さも通り越せば、間違った内容になってしまう。TVは事件を加害者と被害者に分け、被害者を追及するコメントはいっさいNGになる。造りとしてTVニュースは一律化する面、面がある。

ましてやCM、バラエティやテレショップでは、TV的な歪みが出来る。それが常識や良識の言葉を駆逐しているのではないか? そういう問いかけになります……TVは信頼できず基準にもならない……のに、なのに基準なしに生きて行くことも、また出来ない。

結局、私たちはあてにならないTVを基準に生きているのか? その他の基準文化もほとんどない。たとえば私は映画を得意ジャンルにしていますが、映画は一切みない人があります。

本はおろか新聞をみない人もいます。食べ物や着物に関する常識が間違いとは言いませんが、何やら変です。信頼とは言いませんが、オカルトや超能力に対しての深い関心が、一種の信仰にまで拡大解釈されてしまう。そして愚か者のランプです。

同号には水嶋ヒロさんの文学賞の内幕も出ます。ちょっと考えると判る通り、残念ながらKAKEROUは傑作小説といかないようです。出版界では傑作小説、有力新人を待っています。そこに間違いはないが、出て来ないものは出て来ない。

出版も閉塞しているので何でもいい。ベストセラーを作りたい。小説を読むという行為を人々に取り戻して欲しい。イケ面でスマートなタレント、事務所とトラブル含みで同じ芸能界に妻がいる。作家のキャラとして面白いのではないか?

凄腕の編集者を付けて才能を開発する。水嶋ヒロプロジェクトですなあ……かって、そういう事はあった。材料につまった芥川龍之介さんに、編集者の体験を提供した小説、あなたも読んだ事があるでしょう? トロッコという、あれは無理やり作った作品です。

有力新人が出て来ないから、無理やり作った新人、必ずしも悪い事でもない、私はそう思います。それともトロッコはインチキだ、感動できない? 芥川さんの他の作品とは質も違うからダメと却下されますか?

経過がどうあれ異質感がどうあれ、トロッコは面白い小説ではないでしょうか? 水嶋ヒロプロジェクトも育つものであれば、私は育って欲しい。もう一度、小説の面白さを教えて欲しい。もし出来るものならネ……しかし水嶋さんは賞金を辞退したらしいですヨ。

日本は成長を止め、世界は閉塞している。本当には理想をいえば、現実を切り開くのはTVでも新聞でもなく、ましてや作られた英雄ではなく……生きていくあなた、生きている私……その励ましあう力のはずです、が。(映像は週刊新潮49号表紙から)

2010年12月28日 (火)

ライアー・ゲームファイナル 映画

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TVドラマでお馴染み、あのライアー・ゲームファイナル、映画版です。主人公は戸田恵梨香さん扮する直、バカ正直のナオの仮名で性格に縛りがかかります。相手役はニヒルでハンサム、天才詐欺師の秋山深一、そのロマンスが縦糸になります。

物語の横糸は信頼と不信に騙し騙され、賭け金を取り合うゲームの進行……科学的にも証明されている。男は女性よりは少しだけ単純に出来ています。ここでの秋山深一は直に無料で雇われ、直への裏切りは一度もない。

お約束の特別な関係にあり、これは正確にはロマンスではありません。少し前の時代の男女では、男が女性に家来になれという事でした……男は女性の主人になろうとするのだが時間を経ると、なぜか女性の家来になっている自分を見つけます。

最近は女性の方で、結局そうなるのだから最初から家来になりなさい……男にそういう風に迫るようになる。ここでも戸田さんの直がキレイだから、秋山役の松田クンは手も足も出ない。そう解釈してもいいような気が、私はします。

秋山がいくら頭の切れ具合を説明しても、カッコよく立ち回っても、私は意味がない気がします。なぜ掛金を得なければならないか、なぜゲームに勝つ必要があるのか。いつも主体性は直にあるからです。

秋山がゲームに勝つ理由は勝っても負けてもいい。状況を冷静に観ているからで、頭がいいのは副次的なことに見えます。秋山の心はスポンと抜けて、生きていく理由が見えません。それは他の9人の登場人物にもいえます。

ただ他の9人はどう生きるにしろ、金があった方がいい。副次性を第一に考え、結局、本当の主体性を放棄している。男であれ女性であれ「お前、オレの家来になれ」と宣言するには、そこを明確にする必要があります。

神崎直にどういう主体性があるか? 子供の頃に隣の子供と兄弟のように育った体験が、たぶん今の人にはない。自分と隣の誰かが同じように感じられ、その快さにナオは今も正直を通そうとする。私は正直ではないが、かなり偽善の善を通しています。

90%の正直で知ってることは教えます……というのが身障者相談員の役目ですネ。お金で解決のつく事とつかない事がある……つかない事にブチ当たるというと、困るんですよネ。生きてるのが嫌になるほど困る。それを棚に上げての嘘つきごっこ、いう事です。

……たとえば、秋山さんだって刑務所出たばかりでしょ? この後は就職口を捜さなければならない。ないと思いますよ。顔がいいからホストクラブとか? 虚無的で態度が大きくて勤まりませんよ。法に強そうだから司法書士のお手伝い?

直さんの方がつぶし効きます。ホステスでも店員でも……あちらも就職口、すぐにでも探さないと……ロマンスなんて後回し。映画の中はカッコばかり付けて一円も稼げてないんだモン。

2010年12月27日 (月)

ゲット・ショーティ

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これは夢のような映画、夢といってもディズニー式の夢とは違う。映画への夢をそのまま映画にしてしまった映画です。判りませんか? ストーリーも一応はあるが、物語の辻褄をきちんと合せる、いわゆるストーリーではありません。

マイアミのヤクザがロスに行くことになる。それで夜の空港に行ってみると飛行機がなくて、スチュワーデスにバンのキャデラックを渡される。唖然とするヤクザをJ・トラボルタさんが演じます……どこかが面白いのか、それが、ただそれだけなのです。

他に意味はない。ヤクザは取立屋を仕事にしているが、映画が大好きという設定で、マイアミからロスに向うのが内心は楽しくて仕方がない。なぜならロス・アンジェルスは映画の都、その位は知っていなければ、この映画を観る資格がない。

それは差別ではなく、映画を観る意味がないというだけ……まあ、難解な部類の映画に入ります。それも違うなあ……たえば年末年始の深夜映画で見たら腹も立たない、いいのだけど。一枚80円にしろDVDレンタルで借りた、借りたなら……

プレイヤーから出すなり叩き割りたくなるような……(笑)そういう映画ですよね。「ゆれる」の西川美和監督とか「萌の朱雀」の河瀬直美監督とか女性映画は、基本が夢で現実は考慮されない。その意味で同じ作風と思われます。

いえ女性監督を叩き割りたい……そういう事を言っている訳では(笑)まあ、少しあるかも知れません。取立屋のレイは30万ドルの取立てのカタに映画の台本がある事を知り、金を取り立てるより映画を作った方が面白いのではないかト思う。

そこはロス、会う映画人ごとにカタの映画の話をする。ひどい所は、このシーンはこういう風に演じると、どうのこうのと演出論になり地のトラボルタさんになる。話に熱中したかと思うと、リハの立ち回りに、いきなりギャングが入ってきて銃をぶっ放す。

虚虚実実。映画文法にこだわらない表現といえばいいのか。判り易くいうと「ゆれる」と「萌の朱雀」を足して「ピアノレッスン」で割った感じです。このシャレ映画には、またジーン・ハックマンさんが名演を披露します。

タイトルの「ゲット・ショーティ」は、チビの意味、あるいはかわい子ちゃんとされます。登場人物が必要もないのに次々と殺され、これギャング映画だからという顔をする。実際にはゲスト出演なので、長い拘束は出来ない。

友情出演、制作費の関係でちょっとだけよ……ゲット・ショーティ。そういう意味と思います。違っていたらゴメン、責任は負いません。儲かったとは思えないけど、映画へ寄せる思いが温かい。続編まで出来ていて、そちらはBe Coolのタイトルです。

    ゲット・ショーティ

http://www.audio-visual-trivia.com/2005/05/get_shorty.html

2010年12月24日 (金)

かけはし110号、準備中

かけはし110号、準備に入りました。暫くお休みします。

2010年12月23日 (木)

漱石さんの俳句 大高翔

Photo 俳句や短歌を作ろうとした事は、私も過去あったのですが、結局、何も出来ませんでした。それが大高翔さんの話を聞いた後で、嘘のようにスルスルと作れるようになります。たとえば、

自販機の灯りぬくもる冬の闇 hata

出来るというだけで句の上がりがいいのか悪いかは知りません。よくないと思うなあ。その大高さんに「漱石さんの俳句」という著作があって、これを借りて来ます。

大高さんは漱石の好きな句に、自分の句を重ねる。時代と場所を違えた怪しからん2人句会です。そういう句会には私も割り込んで入って、盛り上がらなければいけません。それでは3人句会の始まりです。

漱石は理屈っぽいと大高さんはいいます。理屈に対抗する言葉はロマンティック、この場合の理屈とは裏づけのある言葉、ロマンとはそれがない言葉と解釈していいでしょう。

春雨や柳の下を濡れて行く 漱石

恋人と二人だったか、別れて一人になってからかト大高さんはいうのです。歌謡曲「たそがれのビギン」じゃないんだから、これは漱石の体験かどうかは怪しい。

笹鳴きや捨つべきものを捨てるのみ 翔

女性の恋には社会参加の一面があったのて、不倫だろうが何だろうが問わない。社会的な発散に見える時もある。ズバリそういう光景を持って来られると、今さら恋もないでしょうト私は思います。

春の宵初のデートに瘤のつく hata

通り過ぎる男女を見かけて作る句もあれば、うまくいかない現実に重ねて恋とするもある。理屈とは科学的に、現実的に裏付けを考慮する。激しくはないが長く続く関係もまた小粋と、私は思う。これは句として作ったもので体験を言われても困ります。

星一つ見えて寝られぬ霜夜哉 漱石

「かな」は漢字で「哉」と書きます。大高さんは星に東洋的な、国文学的な意味を重ねます。女性は占いの意味が大きく、信仰の対象にさえなる。そういう物と決別し、漱石は西洋に対応できる日本を作りたかった。

春の夢黒き光の刺客団 翔

信仰まではないのでしょうが、ロマンがあれば何でもいい。根拠のないものに心を動かし、期待しときめく。三四郎と美弥子の恋もそう言えます。しかしそれは自立ではないと否定した。そこに漱石がいたように思います。私の星とは手相にある星です。

掌にある星ひとつ師走かな hata

漱石の句は、いわゆる俳句のドラマチックな部分が抜けます。大高さんも子規も、もう少し句にドラマがあって盛り上がる。淡々、いや淡々さえ越えた漱石の句は小説のためのスケッチという気もします。

三人句会に、まだ残ったのがあります。お題は手紙です。解説なしで、ただ並べます。本人が面白ければそれでいいのです。どちら様も、こんな風に作られてみてはいかがでしょうか?

親展の状燃え上がる火鉢かな 漱石

かじかんだ手で真っ白な封を切る 翔

メール鳴り年の終わりのひとよこい hata

2010年12月22日 (水)

黒い試乗車

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なぜか変り映えしません。作った人は変えたつもりでも受け入れ側には生ぬるい……といっても政権の話でも社会の話でもなく、ニュースの大要も要約も、その見解やイメージが全て古びてしまう。悲しいとは言いませんが、悲しいような風景と思います。

もっと具体的にはクルマのコンセプトが変わらない。世界では、グーグルが開発中のクルマは運転しなくいい。行く先を指定すれば車内会議をする間に……もっとヤヤコシイことをする間にも、自動的に行く先に付いてしまう……自動で送る自動車だ、そうです。(孫正義さんの話では)

ロシアで開発中のハイブリッド車は60万円、世界最安のハイブリッド車になると言われます。むろん日本国内にもアイデア自体はある。すでにトヨタが開発している一人乗り、電動車椅子型の自動車を標準に道路を考えると道路作りが飛躍的に安価になる。

一人乗りでは物の流通が困る? 物と人とを分離するという発想が必要になります。それが出来ないのです。手塚治虫の昔から馴染んできた未来を、なぜ私たちは忘れてしまったか? 欧米では日本のことを、中国に負けた太った敗者というそうです。

う~ん、ニューマンさんの映画でいうとモノカラーの方のハスラー、あの映画にミネソタ・ファッツという登場人物があります。玉突きの腕は主人公より上なのですが、ボスの配下にあって満足している。つまり自立心が足りない太っちょ……

失礼しました、今日は映画の話ではない。普通のクルマのスピードは100キロも出ればいい。それ以上は過剰性能で一般には必要がない。どこかに目を付けて、あとはバッサリ削ってしまえば、ハイブリッド車も電動車椅子なみに安価になる訳です。

配送便とマニア車は、ノーマルと色分けすればいい。ダンプと軽とが並んで走る状況は危なく、それ自体が間違いではないか? クルマひとつ取ってみても、そういう合理性に欠ける。ガンダムを真似っこしてガンダムとは違うと撤去した幼児性を、あまり笑えない。

現実、クルマは一人で乗るのがほとんどなのに、その倍の二人標準にしてもいい、5人乗り縛りから離れられないのは、それが欧米の縛りからではないか……私の乗ってるクルマ、アイの元はツインです。

ツインを選んだ、三菱の設計サイドはそこそこ新しかったが、販売サイドは古かった。たとえばイリジウムプラグの性能も知っていて使わなかった。そこはトヨタレクサスの採用判断とあまり変わらない……日本的というか、状況判断をやっていると思います。

2010年12月21日 (火)

評決 映画

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週末にTHUTAYAのDVDレンタルが80円というので何となく店に行きました。ことさら借りたいタイトルもなく、ボーッと棚をながめていると、昔見た映画が何本も並んでいます。

時は過ぎ行き私は残る。身体は老いゆき映画が残る……THUTAYAは、このコーナーに発掘良品なんてコピーを書きます。まあ昔でいうと場末の名画館、クラス会で会ったお友達とまた付き合い始めたような、そのようなお安いノリですねえ。

たとえばP・ニューマンの「評決」は好きで、もう何十回も見ました。手に取るとS・ルメット監督の解説コメンタリーがある。また借りる事にします。そういう訳で今日は、「評決」です。珍しくないですなあ。

P・ニューマンという俳優さんには監督作品もある。自分に関する部分は特に自己演出する俳優と認識があります。評決に関していうと、アル中でタバコ呑みの設定が台本で、その表現は自己演出です。

アル中で手が震える。ビールは口からもっていく。充血した目の色を隠すために目薬を指す……口臭剤の大仰な表現は、今さらながらやはり、そういう事かと思います。この辺が外国映画は伝わり憎い。ニューマンさんがやると、そう見えませんが人間のレベルが低いという役です。

監督は基本カラーを秋にしたいと色彩設計をしたのだそうです。具体的に設計に合わない色の物を排除する。それから人物をカラヴァッジョ調にしたいと言うので横からの光を当てる。(このやり方に気付いたのは、私はクレイマー・クレイマーあたりから)

もう少し前から一般的な表現と思ったのですが、S・ルメット監督あたりの発想らしい。ニューマンさんは無論、S・ランプリングさんも映画の主題には大賛成だったらしい。台本を読んで欧州から米に駆けつけたそうです。

カラバジョはおろか、お二人は何もしないでも絵になる。落ちぶれた中年、みじめな老人の感じがどうしたって出ません。ニューマンさんの考えた意図も、残念ながら空転している。

映画を絵のようにキレイにまとめたい監督意思と、贖罪を求める人間像を担う俳優たちにギャップがあります。もっと端的にいうと、もともと「贖罪」とキレイでは矛盾がある。

オリジナル台本は最初からダメと決め付け、いい人が勝つという物語に、制作が書き換えたそうです。後発、同じ仕掛けの映画で「エリン・ブロコビッチ」「評決のとき」がそうなっています。

一般にはサクセスストーリーが好きで、贖罪の意識は低い。だから贖罪の物語を作っても受けない。映画人も常識人だから仕方がないが、評決のときのプロデューサーはあのコッポラさんと聞いています。何とかならなかったのか? 結果は評決に惨敗します。

いえ、内容的に営業的には知りません。やはり観点がなかったのです……私もブログでの記載を、一度バラバラにして、それをジグゾーパズルよろしくつなぎ合わせ、別な物語を作れないか? 時々、考えるのですが、それはまた別な話。

●画像は無断借用。

2010年12月20日 (月)

大高翔さん

FMに「『坂崎さんという番組』という番組」日曜AM8:00~9:00、ややこしい名前の番組があります。ゲストが俳句の大高翔さんで、俳句の作り方を解説しています。

具体的には、こう。小学生にトンボの句を作らそうとした。上手くいかない。クワガタの句だと上手くいったそうです。その子は体が小さいなどの理由から強い物へのあこがれがある。

その分析は大高さんではなく、その子のお母さんによると思うのですが、その辺りがなんとなくしっくり来ます。ネットで検索すると大高さんは子規でなく漱石の句がお好きなようです。

FMでは一言も漱石の話はないが、道理でと私はひとり納得します。なにせ漱石フリークですからねえ。それでは大高さんからの手ほどき、間接で漱石の手ほどきか……よく判らない3句です。

メール便 宛名字ほそく クリスマス

空の中 桜葉震える 12月

羽ばたきの音まで白く シクラメン