« 2010年10月 | メイン | 2010年12月 »

2010年11月

2010年11月20日 (土)

牛乳と軟食嗜好

050_00212牛乳は飲んだ方が体脂肪率は下がる。つまり痩せる事を鹿児島酪農がまず記事に出し、私は半信半疑でした。読売記事が同じ事を出して疑いが信に傾いた時に、同じデータを元としているト気がつきました。

酪農は牛乳を売るために記事を書き、新聞社は新聞を売るために記事を書く。今は痩せる記事は売れます。書きさえすれば真偽はあまり問われない。太ってない私は痩せ記事には半信半疑のまま保留姿勢を崩しません。

牛乳を飲む量に比例して体脂肪が低くなるという、グラフの表現は出来すぎ、いや面白過ぎです。太った人にケチをつけても仕方がないのですが、柔らかそうな食材を選んで大量に消費する……ように私からは見えます。

たとえばハンバーグ、ハンバーガーが判るような判らないような……私の子供の頃にハンバーグはありませんでした。いうより食物自体が大量には、ありません。それでギャル曽根さんの食べっぷりが羨ましいような不気味な感じがします。

量、食べる事を前提にすれば、確かにステーキよりはハンバーグになります。量食べる事を前提にすれば柔らかいステーキも良い事になります。肉というのは元々は硬いのですが、柔らかい事を条件にして大量消費する訳です。それで柔らかと高級化が進行する。

パクパク食べてゴクゴク飲む。ずばり、それが大量消費という事です……これで正しいでしょうか? 硬い肉の以前に大きな魚があり、大きな魚の前に小さな魚がある。小さな魚を嫌う事から始まって、今の嗜好に落ち着きます。

つまり小さな魚を食べていた頃には肥満はなかった。理由は単純、小さな魚の小骨を取っていればパクパク食べる訳にはいかない。ゆっくり会話でも進めながら食うしかない。今はロクに話もしないでひたすらパクつく。

痩せたければ小魚を食え……では格言にはなっても具体策としては条件に欠けそう。ハンバーグが好きという嗜好に疑問があり、その割に動物性油脂を恐れ、油だけ植物油にしました。植物油ではフライパンの高熱化が出来ない。

食品の高熱処理も出来なくなります。太ると怖いは、只のオリーブオイルさえ恐怖の対象に変える。油は太る、牛乳の油分も怖いと言う風に変えたのでしょう。牛乳怖い、ジュースがいい。

ノンカロリーコカコーラとかドリンク嗜好も変って行きます。それで柔らかく甘い物を大量に食べたい。ここに現在の志向がある。それは無論、それぞれの勝手ではありますが、健康を気にするほど健康とかけ離れるいうのが私の感想です。

●画像へのコメント、固いバゲットは嫌われ、柔らかい食パンが好まれます。特別やわらかい食パンを、さらにフレンチトーストする人もあるが……

2010年11月19日 (金)

眠りと入浴

569眠りを科学するとパジャマは綿100%より新素材がいいという。睡眠不足そのものが古い常識に何とか頼ろうとする。いわば無理から起こっている。考えてみればエコ概念は天然とは違う、綿の風合いも懐かしさも、眠りの条件にはならない。

何となく面白そうと買ってきた雑誌Tazan 569号の特集は「睡眠と入浴」です。買ったあと判ったのですが、私には眠れないという症状はなかった……面白そうという感覚は被害がない所で起きますナ。

平均8時間という睡眠時間も大人子供合わせての平均で、8時間寝なければならない理由ではない。大人の平均はもっと少なく、老人の平均はもっともっと少ない、それで正常という事です。ね、面白いでしょう?

睡眠に限らず平均に拘らない方がいい、そういう場面は多いはずです。しかし私は平均的な人だから、そう自分を規定して、深く平均に拘る人がいます。

ナポレオンは3時間しか寝なかった……あれは例外の人だから……
アインシュタインは10時間寝ないと……それも例外の人、私は平均の人……論理的なようで、これは論理ではありません。自分はどうしても8時間でなければという脅迫観念に近い。

いえ脱線しました。睡眠についての記載は、電気毛布はバツで湯たんぽがマル。冬場だけでしょうが半身浴はバツ、ぬるま湯に肩までがマル……いろいろ間違いはあるもんです。間違い、すなわち根拠のない思い込みとでもいうのか。 

思い込まれた物と事の理由をチェックして行くと、意外な概念に当たりそうですけどネ。単に入浴したいのではなく、入浴に少し別な事を重ねたい。眠りにも別な意味を重ねたいのですネ。そういう特別な入浴と、特別な眠りへの期待があるのです。

そういう特別があるかないかは別として、期待として高鳴る事が何なのか? いわば非科学の科学いうことになります。何を期待しますか? 終らない夢、3D画面のように飛び出す夢? 3Dメガネをかけて寝なければなりません。

結論は、もっと簡単です。疲れています。眠りや入浴では取りきれない疲れに取り巻かれて抜き差しがならない。それが原因で過剰な期待をよせるのでしょう? それは無理です。眠りは眠りでしかなく入浴はいつも、ただ入浴に過ぎない。

期待する事には1つづつを積み重ねるしかない。早道はなく地道な作業でしかない。入浴剤への期待と枕カバーへの期待を取り去った時に、むしろ満足な入浴とありふれた眠りが帰って来るのでは……こんな呪文を唱えます。

特別が普通なら特別でなくなり、むしろ特別を普通に返した時に別な明日は見えて来るはず。私にとっての面白そうは、いわゆる面白い事でなく、そうらしいに過ぎません。

tazan

2010年11月17日 (水)

インフルエンザ予報

Maskどうやらまたインフルが流行りそうです。いえ去年のように、ではなく、あれは警戒情報が行き渡ったので、インフル自体が大きく障った訳ではありません。身障者相談員としての責もあり、ここは違う意味で警戒をと申し上げます。

予防注射の評判が今年はよくありません。最初の取材の人はこうです。
「あんなのは……」行かないの意味です。どうしてかと聞いても首を横にふられる。

次の人も同じ返事で始まり、
「実際に注射するまでが大変で……」去年は手続きが長かったいう意味です。行政の不手際とまでは行かないがスンナリと行かなかった現実があり、コリていらっしゃる。

風邪とインフルを混同されてる方も、まだありまして、
「今までが大丈夫だったのだから」といわれる。抵抗力があれば、それはそうですが、身障者であればあまり大きな自信は持てないはずです。

去年は私、人を市役所に連れて行ったのです。文面では各当しなくて自身は受けるつもりはなかった。ところが窓口で調べると受けられる。連れて行った人の手前、受けない訳には行かなくなった。しかし今年は間違いなく各当しません。

ただ、もしかするともしかする。こんな人がありました。
「病院であなたはト一度、各当を言われたので注射したんですがね、よく調べたら各当しない。すみません。4千500円!」
それは詐欺罪に当たるのでは、横から意見が入ります。

去年は一時、薬が不足した事があり、電話で問い合せ「ない」言われると予約を入れました。あの病院この病院と、複数予約を入れて実際は一ヵ所しか注射はしない。それで注射薬が余ったのですが、廃棄については批判的になっています。

家族で誰か、今年も注射をした人もあります。接客の仕事をする人は一種、それが心得という事になります。ジムのインストラクターにも、もうマスクをした人があります。それで、
「予防注射、しましたか?」と聞きました。これが、してません。

接客筋の公務員はどうでしょうか? 本当の重要度、自分の抵抗力をどう見るか。家族に一人でも接客業があると、その辺が微妙になって来る。ひとり注射しなかったばかりに、そう言われたくない訳です。

「子供には注射をさせた。私はしてない」早い話が、そういうお母さんもおられる。経済的な理由は判りますが方法としては矛盾がありますネ。そういう私もしてない訳ですが……現段階で1割しか、2割はされていない。およそですが、そういう状況と思われます。

取材いうか、聞いて回るとそういう結果になります。予防注射には行かない。行きたくない人が圧倒的に多い……これは危ないのではないか? 私としてはそう推測します。お前の推測なんか宛てになるか、言われそうですが……東京都が同じ予想を出しています。

http://www.rda.co.jp/topics/topics1003.html

「今冬はA型(Aソ連、A香港)を中心とした流行」とのインフルエンザ流行予想を、東京都が公表している。 A型が流行の主流になるとみられる中、A香港型は短期間で感染が拡大する可能性があり、専門家は注意を呼びかけている。

2010年11月16日 (火)

古典文学と鏡 森正人

この講義への質問の中に「当時は、どれくらいの人は文字が読めたのか?」いうのがありました。無論それは判らない。私のブログも文の量は長い部類に入ります。最後まで読まれる人の割合は判りません。

新聞も見出しだけ見て、実際には読まない方があります。TVもドラマしか観ない、女子バレーしか観ない。ニュースはうるさい見たくない言う人もありますから、ニュースだけを前提にTV局を運営されても困る。

放送大学で「古典文学と鏡」森正人教授の講義を聞きます。今から見ると鏡の当時の意味は結局、よく判らないのかもしれません。ウチに来る犬は鏡を見て吠えます。自分が見えるので吠える。吠えるのに飽きて吠えなくなり、次に来た時にまた吠える。

犬は本当に賢いのか? 猫は自分の姿に一度は驚きますがやがて鏡に反応しなくなる。ご神体にもなるように鏡は不思議の道具です。鏡に映る物を自分と認識する事は単純ではない。そう思われる。

大鏡の序には、鏡を見て長生きした自分が恥ずかしいトあります。鏡には寿命を伸ばす力があったと信じられる。鏡裏の紋様に長寿の鶴を描いた。鑑は水鏡、鏡は銅鏡以降の意味。元は同じで、やがて自分を戒める。手本や模範の意味が重なります。

森先生は鏡をみるとお父さんを思い出されるそうです。鏡の中の面影は父に似ている。漱石は奥さんの、陰干しの着物を着て遊ぶのが好きでした。鏡の中に母を見ようとしたのかも知れません。

瓶に若い女が居る。夫は瓶の中に女を囲っている。つまり酒の鏡なのです……それは奥さんの嫉妬で、奥さんが男を囲っているという展開もあります。鏡の中に蛇がいるトいう話もあり、この場合、蛇は鏡に映る物を象徴的にしている。

鏡に映るのは今の自分というだけでなく、昔の自分将来の自分、自分の思い、貪欲や執着といった物になって行きます。今昔物語、鏡知らずの譚では、鏡は戒めに変化し教訓ともなっていきます。

昔は鏡が貴重なもので、ある意味で酒もそうなのでしょう。ほぼ同じ意味を持っていたのかもしれません。人生の究極、その向こうに何があるのかというような問いかけを私は感じます。

「鏡にはあまり色んな物が見える訳ではありませんで……」私の質問に森先生はそうお答えでした。
「光る風、草の波間を、かけぬける私が見える」思い出に何が見えるか。ユーミンの「あの日に帰りたい」の一節ですが、これも思いでという鏡に映した自分と言っていいでしょう。

日本文学は一番、判らないのは自分としてきました。その文学を、このように流行歌の一節で括るのは不埒かもしれません。鏡はロクに覗きませんが、ユーミンの書いた一行が、この所そぞろ身に染む私です。

読める人も少なく、大量生産も出来なかった頃の日本文学は、集約し教訓にする事を意識した。教訓として読もうとすると見えて来る世界がある。引き変えて私のブログは、教訓になるやらならないのやら。

●次回、放送大学講演会は法社会学の吉田勇教授。法的責任と道徳的責任12月12日13:30 県立図書館3F研修室
http://www.ouj.ac.jp/

2010年11月15日 (月)

おとうと 映画

Otouto悪いがこの映画は没ネタの整理だろう。書いた私は気に入ってる原稿なのに、言った本人から発表の許可が出ない。ボツにするしかない原稿がありました。原稿の束を惜しみおしみネジって丸め、チリ箱に投げる。そんな事は実際にあります。

寅さんの最後を、山田監督としては実はこうも描きたかった。映画会社の方針で寅さんは死ぬまで殺せず、渥美さんが亡くなった後ではむろん映画が撮れず、どのみちボツ脚本をチリ箱から拾い上げた、そういう映画になります。

ただ私としては笑えない。笑えない部分があります……身障者の「おとうと」は実際に結婚式に呼ばれません。それどころか死んでも遺影さえない。20才で亡くなった身障者があり、若干の付き合いもあったので葬式に出ます。

そうしますと赤ちゃんの本人写真、葬式では赤ちゃん遺影で本人は笑っています。何才かになって先天性障害が判ると、父も母も本人への関心を無くし、一切の写真を撮らない。早い死とはいえ記録さえ残らない影の薄い人の葬式に愕然とします。

そういう葬式に出ると、この映画は引っかかる。酒を呑むとどうしようもない失敗をし、呑まなくてもドジを踏む。身障者でなくてもそんな人はいます。金に困ると見えすいた嘘をつく、いえ手が込んでバレても困らない嘘をいう。そういう人も居るのですが……

そもそも酒乱とアル中に違いはあるのか。日本は、熊本は特に米で酒も焼酎も作ります。食べる米と酒米は違う……米を主食に出来たのは明治以降であって、それまでは粟や稗を主食にした村があった。そういう事になります。

金に困って米を買うか、まだ酒を買うか。酒飲みは迷うそうです。私は酒には迷いませんが、映画のチケットに迷いました。コンサートチケットや展覧会のチケットには高いのがあります。脱線……そんな話はどうでもいい。

強者を騙して金を盗るとまだ罪が軽く、弱者を騙して盗るのは許されない。同棲した頭のよくない女の金を盗るのは許されない部類に入らないか……私はそういう気がします。それとも盗れば誰から盗ろうと一万は一万、百万は百万いう事になるのか?

この映画はその辺に混乱いうか、整理がありません。寅さんの正体は、この映画では鉄郎いう事になりますが、あのシーンとこのシーンとで同じ事への解釈が違う。問題点を物語に散らします。娯楽映画であればウルさく言わなくてもいいか?

今や日本を代表する監督が、この作風はないだろういう気もしないではない。鉄郎はいわば一種の身障者だったのか。それとも悪の論理を感傷のオブラートにくるむ、小はつくが悪党だったのか。その辺は意図的にボカした映画と思われます。

笑うに笑えない、なら泣けばいいのか。人の死はどんな物なのか。首筋に冷たい風が吹くというに……もう歳という意味ですが。吉永さんもこんな映画に出るために出演を控えて来られたか。山田監督、もしかしてこれがラストなのか?

2010年11月14日 (日)

ある放送関係の講演 2

Tv2ブログ他で原稿を出している私ですが、最初からこういう事態を考えていた訳ではありません。「hataさんのかけはし」の前にワープロの「かけはし」があり、その前にはガリ版刷りのかけはしがありました。

かけはしの他に、私は月刊で書いたり年刊会報に書いたり、出版の経験もあります……そういう活動は顔、知名度とは結びつかず、言わなければ判らない物でした。むろん執筆で食える訳ではなく、言う必要もなかった。

ところが最近はブログが読まれて来て、Googleの検索トップにはさすがに出ませんが第1ページに出る記事がポツポツあります。これは想定外で少し困っています。

近所に知れると、すでに知れているかもしれませんが、私の方からは言いません。言わないから知らない振りをされる……かもしれない。そうすると人間関係に隙間が出来る。あるかなしかの隙間は人間関係に障ります。つまり困ります。

そう言った所から昨日の続き、ある放送関係の講演、続きに入ります。TVのデジタル移行は決まりましたが、それが成功するかどうかは、まだ判らない。米国が失敗した話は、私もどこかで書きました。

失敗するとアナログを残せいう事になる。もう一方では早くも3D化が言われ、まだ水面下ですが。3つの媒体が平行して進んでいます。講演者はこの上、3Dまで言われたら会社は潰れると言いました。

それはそうだと私も思います。私のメディアはパソコンという意味で一本化していますが、視覚障害者には点字や拡大印刷を必要とします。拡大印刷は対応できますが、点字化は出来ません。

聴覚障害者はFAXや手話の対応を言われ、私も前にはFAXを持っていたが、今は対応できません。視覚も聴覚も高齢者は誰でも「hataさんのかけはし」をパソコンで見てくれません。この状況はTVの状況と何やら似ていると思います。

TVは何のことはない。借金返しと機材買いに追われていると言います。私も5年前に買ったパソコンに10年前に出たプリンターを合わせる等のメディア参戦は、経済的にほめられた状況ではないのです。

身障者福祉協会はメディアの位置づけを間違えました。コンピュータを一時的な流行と捉え、社会の一部でしかないト思った。私の執筆活動はトヨタ財団の目に止まる。私への研究助成は協会としては不服だったらしい。

今も福祉協会は身障者同士の連帯を言います。私は健常者の理解や共感なしに障害者の生き残りはないと思う。若い障害者は協会には入らない。パソコンで情報を取る。協会は衰退の一路をたどります。

新聞が衰退すれば、やがてTVも衰退していく。ジャーナリズムの危機は民主主義の危機、国立放送には中立性に疑問と演者は言いました。放送がNPO化し大学教育と連携し、方法はない訳ではない。
だが寄付集めは大変で、破綻からの再生はむつかしい。

日本では米国のように寄付はしない……ホームページやブログも初期の頃は、障害者の書くものがそこそこありました。少しなら今もあるのですが個人は結婚し、子供ができると、内容が子育てブログに変って行きます。

さて新聞やTV、情報伝達は、これからどうなっていくのでしょうか? 私としても深い関心を寄せたいと思います。

2010年11月13日 (土)

ある放送関係の講演

ある放送関係の講演を聞きます……が「出来ればこの場限り」と言われまして、私としては名前を出しません。この方、出身は新聞で今は放送。新聞が特に危機的状況にあるという。原因はインターネット、読者が半数になった。広告収入もそれに次ぐ。

高齢者は読み疲れする。若者の活字離れが進む。そして不景気、景気は回復しても高齢者は基本的に金を使わない。グローバル化の波で外国企業と喰合いになっていく。同じ理由で視聴率も平均すると下がっており、TVもいづれヤラレルだろう。

日本の新聞は宅配体勢が整い、全体は世界一の発行部数を確保している。発行部数は概ねそうだが正確な部数は判らない。押し紙、積み紙という水増し数があるからだ。新聞の収入とは何か? 記事本体の売り上げと広告になる。時によっては広告収入が上回る。

私、hataはかつて全国紙を取りましたが地方紙がいいという人はあります。何で地方紙かというと、熊日は周囲の店のチラシが多く入る。このチラシが入らないと何処で何を買ってよいか判らない。奥さんの意見です。

全国、地方その中間をとって西日本新聞いう人もあります。講演の話にもどして読売が発行部数は多い事になってるが、広告は朝日が上、同じくらいではないのか? そういう推測も成り立つ。

世界レベルで見て日本の新聞は、あまり近代的な媒体ではない。それがインターネット社会になって、むしろ妙な腰の強さを見せた。持ちこたえている。世界レベルでは新聞の衰退はもっと著しいト演者はいわれます。

放送業界は就職先として人気はあったが、見栄えで入ってくる。女性が半分以上でタレント養成所と間違えている。仕事としては夜討ち朝駆け、実際のきつい汚いの3Kが出来ない。会社で何かあると実家に帰ってしまう。

若者は自分の価値観が確保できなくなっていて刹那的になっている。これからも経営は人を削るしかない。私は8000人の社員を5500に削るよう提案してヒンシュクを買った事があるが、4000でも危ない。

有名タレントを中心にBSTVで一緒に番組を作った事がある。BSから9人の不要人材が来そうというので削るように申し入れた。2人削れたが7人はやっぱり来た。現場はぬるま湯的という。

新聞は、読売朝日で同じ印刷工場を使うような合理化、適正化を計らなければならないが難しい。これは噂話としてあるが、毎日サンケイが何時まで持つか。当面、これを食い合って凌ごういう。ハイエナ的というか、嘆かわしい。以下次回。

2010年11月11日 (木)

古屋誠一写真展

Nizi写真展に行きました。一口に写真と言います。メモに残す写真もあれば人に見せる写真もあります。文に添える写真もあれば、コンテストに出す写真もあります。古屋誠一さんはそのどちらとも、あまり決りを持って見ない方がいい。(熊本市現代美術館11・28まで)

パンフの写真は古屋さんの奥さんで、それは写真展に行かないと判らない。坊主頭の人物が大部屋の病室で書物をしている。深く顔をのぞけば女性と判るが、映像は少年と解釈するのが普通です。寮の風景にしては変、無表情のこの人物も……そうは思えない。

精神を病んで自死したクリスティーネの最晩年の一枚と聞いて観ると、やはり感慨が押し寄せます。窓越しのガラスを通した映像は映りこんだ風景の、道路と建物に意味が見えて来る。道に面したその筋の病室は、日本では見かけませんしねえ。

どんな死だったにしろ、人が死ぬと残った者はその回想をつなぎ合わせます。出会いから一番輝いた時間、ありふれた時間と最後の思い出までをつないで、その人の意味にまで辿り着こうとする。辿れない事は判りながら、それでも回想を辿らずにはいられない。

人工の道や建物は映像の偶然と思われるが、回想、メモワールとなるとそうは片づけられない。日本の光景には自然が強く介入して来ます。樹木、草、虫……絶え間なく命が行き過ぎ、同じということのない多様な風景を形作る。

オーストラリアの、いや写真の風景は欧州なのか。空に向って花開いて見えるコスモスは特にか細く、雪道をどこか出かける猫はとても遠くに行くように見える……人一人の死はその分、重さを増して感じられる。

人が亡くなられた時に通夜に、その人の写真を上げた事があります。笑顔がよかったのでその人に上げようと思い、そのままになっていた一枚を受付に渡しました。それがご家庭にあった遺影よりよいという事だったらしい。

ご遺族から撮ったのは誰か、ネガ召集がかかり一騒動という事になりました。むろん写真はいい加減に、きまぐれに撮るもので、記念に残る一枚そういう大それた事は考えません。これもそういう一枚だろうなあ……思いながら鑑賞します。

今は一眼レフが安くなり好きな人も杓子も猫も、高級一眼で撮られます。あれはカメラマンの肩に重く、撮られる方には気にさわる。カメラなれした奥さんの無視した表情なのか。それとも病状なのか。判りませんなあ。

●美術館 http://www.camk.or.jp/event/exhibition/furuya/
●映像は本文と関係ありません

2010年11月10日 (水)

カムイ外伝 映画

Kamui私がマンガを卒業した時期に発表された白土三平作品で、これは読んでいません。マンガは読まないと決め読まなかった。忍者武芸帳あたりと違い、設定にも、やや無理を感じました。

山本薩夫監督の「忍びの者」にも同じ思想背景があって、そこは白土作品にも共通します。忍者ものいう事では似た感じですが、両者の違いは言われません。書かれた意味も理解されてない気がします。

当時は世の中が平等になると誰もが幸せになれる。そう信じる人がいました。しかし組織を作れば従う人と、従わせる人が出てくる。両者は同じにはなれない。矛盾には気がつかない……ふりをしていたのか?

支配者と民もそうですが、たとえばカムイと出会う前のサヤカには恋人があって、カムイの出現によって古い関係は御破算になっている。モテる人というのは男女を問わず10人に1人か2人と限られます。

映画やドラマはその1人、2人に注目して話が進行します。しかし現実には10人10色があって、誰もが満足の行く結果平等はない。色事がそうなら金儲けもそう、就職がそうなら大抜擢もそう、万事はそういう風に進んでいます。

支配者がいようがいまいが社会主義だろうが資本主義だろうが、平等よりも不平等が多い。その辺りに違いを感じる苦痛は消えない。ある程度しかたがない事です。白土さんはその辺を、体制の変化で乗り切れると考えた節がある。

小説や映画の「大菩薩峠」にも仏教背景があります。孤独でニヒルな主人公が幸せを求めてあがく設定は、そう読めばですが同じになります。似た設定があると私は思います。

大菩薩峠は主人公が視覚障害者になります。現実の視覚とは違い、ある種の超能力で周囲を見るのですが、その辺のフィクションは問われませんでした。抜忍、追忍の関係も全くのフィクションで、そのリアリティは欠けてしまう。

当時は忍術を一種の超能力のように見ていました。暴力が劇画調に描かれ興奮を伴い、暴力は代償行為として消費されたと私は思います。男の子専用作品と思っていたら、カムイには女の子のファンもいました。

全く同じではないにしろ女性にも暴力への衝動があるらしい。衝動が陰にこもってしまう人もあるらしい。私などもそれでしょうか?そういう意味で劇画調は馴染めませんでした。

松山、小雪さんの関係が怪しい言われ、ラブシーンでもあるのか思っていたら役柄上の関係は薄い。これは小雪さんがカムイ役に、松山さんにではなく、ニヒルなカムイに参ったのでしょう?

ニヒルたって木枯し紋次郎の中村敦夫さんみたいな美形ではありませんし、松山さん芝居うまいんだ。今頃、言ってますので私には、この映画版「カムイ外伝」もよくは判りません。

白土さんにはシートン動物記のマンガ版作品があって、今でいうエコロジーとつながる世界が出来ると思うのですが、それはなし白土さんはカムイ伝の続編を構想中といいます。

2010年11月 9日 (火)

地域とスポーツ

森川貞夫さんの「地域づくりとスポーツ」という講演を聞きます。行き辛さはどこから来るか。大きなテーマで全体の結論は出ないが、スポーツの地域活性化いうような構想があります。

総合体育には反対だそうで、みんな揃って絞ったスポーツをすると例えば野球とか。地域づくりになるらしい。熊本ではバトミントンとかハンドボールが盛んで、武術もそれに次ぎます。逆か?

弓や長刀、柔道、剣道は警察関係から離れて見直しが進んでいるといいます。柔道も精神主義から離れ、カラーの柔道着が出て来る等、スポーツ化が進んでいるという。

意識を持たないとスポーツはアヘンといわれる。水泳中毒とかスイミングハイと、私はブログで書いていてますが、客観的にそういう現象があるようです。スポーツ自体が楽しい、それで目的化が必要となれば森川先生の場合、地域が出てきます。

地域やナショナリズムについての感じは、昨日、ラーメンで書いています。私の場合は事さら意識しなくても、自然な結びつきが生まれる。このところスポーツは盛んになりつつあるようです。

ただ、スポーツしている人は、よりする傾向にあり、しない人はよりしない傾向にある。するとしないの両極化が進行しているという。私の取材からも森川意見は正しいと思われる。

たとえば名前の知られる某高校野球部は、2年ほど前から筋トレを始めまる。生徒に聞くと監督が代わってからという。レギュラーでトレーニング室にやってくる高校と、レギュラーではなく時々くる野球部もある。

そういう風にルームのインストラクターは言います。「強い野球部になるほど中央から監督を連れてきて強化を図ります」
持続力には水泳がよいトいうのは前から知られ、瞬発力に筋トレいうのは新しい理論のようです。

「理論自体は前から言われていた事だが実践には予算や改革力を伴う。実践した部が強くなる。この理論はサッカーや他のスポーツにも云えるが、今のところ部でトレーニング室を使われることはない。

渡辺先生は総合スポーツには反対とのご意見だが、私はそうとも限らないと思う。見れば判る。スポーツは秘密裡に行うことが難しく、よく見ていればヒントにはなる訳です。

山本ケイイチさんの「老けない筋トレ」で見たように、今のスポーツには矛盾する理論と理論が交錯している。少し経つと整理が効いてくるだろう。決定的なことは言えないのではないでしょうか。

むろん私はこういったスポーツ理論がある程度、リハや身体障害対策に使えると考えています。それ自体を求める訳ではないがスポーツはコミュニケーションであり、個人にも集団にも活力をもたらす。目的意識を持って取り込めば大きな力になりそうです。