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2010年8月

2010年8月31日 (火)

暗いところで待ち合わせ 本の1

Kurai1

視力をなくし、独り静かに暮らすミチル。職場の人間関係に悩むアキヒロ。駅のホームで起きた殺人事件が、寂しい二人を引き合わせた。犯人として追われるアキヒロは、ミチルの家へ逃げ込み、居間の隅にうずくまる。他人の気配に怯えるミチルは、身を守るため、知らない振りをしようと決める。奇妙な同棲生活が始まった……

以上が「暗いところで待ち合わせ」の背表紙にあるコピー文です。小説にはトリックが必要なので、全部を事実に即して埋めていく訳にはいかない。ウソといえば、ここにも幾つかウソが混じります。

この話は実際にあった事件ではない。でも大学生の頃に事故で失明した本間ミチルのような人はいるかも知れません。しかしミチルは事故の前から静かで、今も静かなのです。

ミチルのガイド役を買って出た二葉カズエは、中学の頃に性格が変り、積極的になります。ここでいう積極的とは、友人に誕生日のコがいると、誕生会をしようト言い出すことです。

静かとはいいますがミチルは誰かが誕生日でも、誕生会をしようとは言い出さないコなのです。悪いとはいえないのですが……友達が3人いて3人が3人、静かなコだけだったら、5人が5人静かだったら、それは詰らない友達であり、お集まりでは、ないでしょうか。

大石アキヒロも同じタイプのコです。同僚の名前を覚えようとしない。人間関係にも溶け込もうとしない。そういう設定になっています。これも悪いとは言えないにしろ困った面はあるのです。

なぜそうなのか? どうしてそうなるのか。ミチルはこれからカズエのようになったのかもしれません。でも事故に会い、カズエのようにならなかった。そういう風にも読めます。

アキヒロには明確な欠点が指摘されます。アキヒロはうっかり癖があります。印刷の仕事でインク缶を見失って、それを同僚の松永に見咎められてしまう。インクはアキヒロのすぐ後ろにあり、

「てめえ、どこに目をつけてるだ」と松永は怒ります。

それと関係あるのかないのか、アキヒロは若輩の若木にもナメた態度を取られてしまう。仲間の輪でアキヒロは陰湿ないじめを受けるようになります。

それは障害を理由に家に閉じこもるミチルと何やら似ている。他人の気配をカズエにも警官にも告げず、事なかれ主義を決め込むミチルは変といえば変なのです。

カズエはミチルが持ったコップを、すっと取り上げてミチルを慌てさせます。

「なぜそんな意地悪を……」ミチルが抗議するとカズエは、

「ミチルが可愛いから」と答えます。

カズエと松永のしている事は根本でつながっていないか。むろんイタズラとイジメは違う。カズエのした事は許され、松永のした事は許されないと思います。

そうではなく私は、誕生日がきても誕生会をやってくれない友達へ寄せる苛立ちのような物は、基本的に同じと思うのです。このコピー文だけでなく、小説の文章はミチルやアキヒロに寄って、好意的に感じられます。

話に奇妙な点があるのを、主人公2人への好意でごまかしているように私には見えてしまう。以下次回。

     手島葵 別な人

http://www.youtube.com/watch?v=wNFZXN5UvPQ

2010年8月30日 (月)

視覚障害の人

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映画「暗いところで待ち合わせ」を観て、面白そうなので乙一さん文庫の原作本を買います。

面白そうというのは、視覚障害では同じ部屋に誰かいても判らないのか? 判らないはずがない。いわゆる気配で感じる……つまり服のこすれるザワつき、人がいると小さな雑音がある。

誰も気配を完全に消すことは出来ない。にも関わらず、視覚障害で見えないから、同じ部屋に他人がいても判らないという設定を考えたのはナゼなのか。それが気になったのです。

私の視覚者との付き合いは深くありません。小山さんは弱視と聞いていました。正面を見たまま話す癖があるので、あまり見えていないのだろう。漠然と思っていました。

ところが酒が入ると自転車に乗ったりする噂があって、かなり見えるらしいのです。その癖、素面では紳士で、自転車にも乗らない。チグハグなところがありました。

「ああ、自転車にも乗りますよ。ただ、酔った時だけですよ」

その小山さんに通りで会います。小山さんには連れがいて、すれ違い様に、小山さんと私はいいかけました。

hataさんじゃないですか?」いいかけた私より早く、小山さんは声を出します。

ただ「ないですか」の語尾が上がってクエッションマークが付いた。見えないはずの小山さんは、本当は見えるのではないか。私は本気で思います。通りではすれ違っただけでしたが、後でそれを聞きました。

「ええ、判りました。なぜか判りました」小山さんはそう答え、それ以上を説明しません。私は頭を抱え、それから一つの回答を出しました。

――服の色じゃない?

着ている服はその人によって限られます。その種類を大方、覚えてしまえば推測が効く、確信はないが名前も上がってくる。

「ン、そうでしょうね」小山さんは肯定します。その目はぼんやり前を見ていて、顔の表情は薄く、何も思わないように見えます。視覚だけでなく身障者にはそういう人がいます。

思いついた考えに自信を持っていいのか、悪いか。私は判らなくなります。物事によりけりで積極的なのか、消極的な性格なのかは、自分で自分に判断も、下しようがない。いったい私自身はどうなのか?

小山さんに関しては、他にも観察力の鋭さが指摘されます。そして本当は見えるのではないか、お決まりのギャグでオチになります。中でも酔うと自転車に乗る話は有名で、小山さんは電信柱にぶつかってケガをしたという。

物語は視覚をナメた設定に思えました。

2010年8月29日 (日)

イントゥ・ザ・ワイルド 映画

Intoイントウ・ザ・ワイルドは「荒野へ」と訳されます。実在の冒険家ジョン・クラカワーが残した手記の映画化、ニュアンスこそ違うが沢木耕太郎さんの深夜特急を連想させます。その筋で有名な作品らしいです。

 

大学を成績優秀で卒業した主人公は親の要望を聞かない。提供された学資を寄付して無銭旅行に出かけます。理由は父親への反抗なのですが、直接の原因と別に、物質文明への反逆があると思われます。

 

反抗、反発、反逆、どれも自分のイメージがつかめない。嫌悪感が先に立って取りあえず違う方法を模索する。そういう状態をいいます。親の提案する進学が嫌だったら、就職しての自立でいい訳です。しかし主人公の生き方はそうではない。

 

バイロンの詩に「人間より自然を愛す」の一行があり、題はそれによる。実際には労働の場面もあって、ジョンの関心は最終的にアラスカです。よりハードに自然を求めれば……言葉を変えると自殺願望になります。この点、沢木さんは理想郷を求めている。

 

ヒッチハイクや鉄道のタダ乗りは既成の鉄路。既成でない道はありませんから、そこで野生を求めると登山になります。だが登山もルートがあるので見えない道の上でしかない。道を外れれば死ですね。

 

原野に捨てられたバスに定住して執筆するシーンが多いのですが、気持ちはよく判ります。金を少し持っていて、米を買って来て食っている事が後で判ります。原野で狩りと採集だけで生きているのではない。

 

日本の自然は豊かで、アスファルトの道端にも食べられる草がかなりある。それなりの勉強をすればホームレスの暮らしも、多少なり様相を変えてきます。しかしアメリカの自然は簡単ではない……にも関わらず、ジョンはさらにアラスカを目指す訳です。

 

判らない言えば判らないが……日本にも星野道夫さんいう線があります。過酷であればあるほどいい、そういう自然の中で自分の本能いうか、予感や直感のようなモノに従って生きる。他人にも知識にも頼らない。そういうのが好きなのですね。

 

ヒッチも今はやりません。危険すぎで、その危険度がはっきり見えてしまう。自然に生きる、一人で生きる。そういう主張も子供っぽく見えてしまう……バイロン詩集も本屋には見かけなくなりました。

 

♪運が悪けりゃ死ぬだけさ。死ぬだけさ。

70年には、そういう歌も流行りました。歌はあまり本気ではないが丸っきりウソでもない。今さら本作を肯定しませんが否定的にもなりません。団塊の世代としては、こういう映画はなつかしいです。

 

 男たちのメロディ

http://www.youtube.com/watch?v=E6Spf_YGGVo&feature=related

2010年8月28日 (土)

野火 映画

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市川昆監督の映画「野火」(59)を生き方習得術として観ます。船越英二さんが扮する田村は肺炎を理由に、実質は食減らしのために隊を追われます。野戦病院は病院で、ここも食料がない。動けることを理由に隊に帰れという。

田村は少しの芋を持っただけで帰属のない、宙ぶらりんの兵隊です。レイテ島を彷徨うことになる。市川監督は「犬神家の一族」で家に集まる家族のエゴを描き「木枯し紋次郎」では個立する人間を描きました。

田村とは、その中間に立たされた人間いう位置づけになります。軍隊と言っても、すでに体を成さずバラバラ集団です。それは隊長より、実権を持った副長が仕切っている。そういう風に表現されます。

田村は優秀な使い道のある兵隊ではない。家族内でも使い出のある人間は大事にされ、使えない人間は粗末にされます。家で言えば長男は後取りとして大事にされ、次女はミソっかすいう感じでしょ。そうであってはならないのですがネ。

昔の肺病いう設定は身障者とほぼ同じ位置付けか? 田村は廃村に来ると、残った夫婦を襲い、塩を収穫します。しかし夫には逃げられる。この場面で田村の生きる実力が表現されます。

滝沢修さんが演じる上等兵はどこで手に入れたのか、塩に対応してタバコの葉を持っている。自分では吸わず食料と交換するしたたかさを持っています。ミッキー・カーチスさんが演じる永松をこき使っています。

それは軍隊の上下を超え、生きる技術の上下になります。永松はひとり生きて行く力がない……それはレイテで生きるために、完全な知識や技術は誰にもありません。ここで他人の配下につくか、リスクを背負って自立するかは難しい問題です。

技術や力がなければ習得する必要があり、学校、教室、あるいは団体に習得に行かなければ身に付きません。これは戦時中でも戦後でも、今後も変らないと思います。人の中で学ばないといけません。

いじめは困りますが、しごきにも耐えなければならない。しかしそれに辛さだけを感じる。ひきこもっていれば楽、楽を選べばいい言う見方が、身障者はおろか健常者にさえあります。

野火は人肉食で有名な小説ですが、そういう意味で喰うか喰われるかの人間関係も描写されています。永松には甘いところがあって生き残れない人間から、鍛えられて上等兵を喰う下りで、生き残る人間に成長します。人は群れにあるべきか、個であるべきか。

市川昆監督といえば「ビルマの竪琴」も有名ですが、この辺のテーマはこの野火と重なる。今、20代前後の人は自己形成をどう考え、どう実行していくか? 映画のテーマが残ります。

昔のモノクロ映像だから、記念日前後の戦争映画だから……不鮮明なモノクロ画面は見難い、そういう事は確かにあります……が、人間関係と社交の習得、生きる力として見ると面白い……言葉は適当でないがこの際、お許しを。

船越さんは絶食で体重を落し撮影に入られたそうです。しかしカーチスさんとのやり取りは軽くてユーモラス。市川演出は思うほど時代に受け入れられなかったのではないか? と私は思います。

●映像は、「いくらおにぎりブログ」からの借り物です。物語は同ブログに克明。

http://blog.goo.ne.jp/langberg/e/b8c2f4e511448735db40e8ecf336dc4e#comment-list

2010年8月23日 (月)

紙の「かけはし108号」編集に

紙のかけはしの編集に入ります。しばらく休載させて戴きます。

2010年8月22日 (日)

コンタクトレンズが怪しい

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コンタクトレンズが怪しい。回収があったのはジョンソン社で、私が使っているボシェロム社ではない……どちらにしろ世界シェアでしのぎを削っている大会社です。それが……

ジョンソン・エンド・ジョンソンの場合は、アイルランド工場での製造であり、その製造工程に原因を特定しました。その工程でレンズ洗浄が不十分だったので利用者が目に痛みを感じた。複数の利用者が同じ主張といいます。

同社は「長期的な健康への影響はほぼないと考えられる」と説明しています。「ほぼ」いうのが不安といえば、まだ不安、最大手のジョンソン社いうのも意外でした。

安全宣言をするのは早い。なのに無理をして宣言に踏み切った所に、会社の事情も透けて見える。大きいから安心、大量生産だから安定もアテにはならなかった。利用側からいえば皮肉な結果です。

ボシェロム社は安心かというと私が使っていて気がついた事があり、送付先にコメントを入れた所です。問題は最初、封を切った時の問題です。注意して装着してほしい。どうか過信のないようにと申し上げます。

コンタクトも安定市場とはいえ、まだ新型開発が行われ、ジョンソン社のもワンデイタイプ、高性能の新型に属します。新型は高価で会社としても販売に力が入る。ライバルとの競争もある。

私などはワンデイタイプより2ウィークタイプの方が精度も上がり安いと考えていました。ところが安い製品にはコストをかける訳にはいかず、それなりの国で安手の生産に入る。

コストダウンはいいが、下げ過ぎれば性能がバラつき、あるいは劣化、それが予期せぬ出来事となって帰ってくる。古いと新しいの間にも相関関係はあり、どちらがよいとも言えなくなる訳です。

コンタクトに限った話ではありません。私、最近、合鍵に興味をもって鍵屋のブログを見ていると、T社、N社、S社の大衆車については、今となっては開け易い鍵という。

自動車としては信頼のT社が? いえ大衆車に限ってはTもNもない。商売ですからソンのない範囲で鍵も提供された。高級車は別です。大衆車の安全は範囲内、それを攻略された。

大メーカーである為の欠点いうと、がっかりされる方があります。寄らば大樹の陰ですか。買う時の価格は低く、買った後の信頼は高く。見られる時には実際より高そうに見せたい。自分をもそう見られたい……大いなる矛盾の中にあります。

話もどして、個人輸入のコンタクトいっても安手が取り得です。怪しい所もあれば欠点だってあります。封を開けたら品質に注意、この際はくれぐれも用心されて下さい。

●コンタクトについては異常のあった事をサポセンに報告すれば対応がある。なるべく状況を保持し、メールで異常内容を報告すること。この記事の続編は9月8日。

     クルマの合鍵 鍵屋のブログ

http://kagiko.seesaa.net/category/4495208-1.html

2010年8月21日 (土)

ペット・セメタリー映画2

Petseme

そして出発点に帰る。小学校のあの教室の、春の窓辺に。

あの頃は同じ制服だったのに、その同窓会には制服を着て行くわけには行かない。中学に行っただけで小学校を懐かしむ人もいます。

大学に行ってすぐ高校が懐かしい。結婚すると独身が懐かしい。どうも前向きになれない。二人の子供がいて、それで生き方が決まらない……同窓会では小学生に帰りたいナンテ、思うのでしょうか?

小さかった子がいい体格に、太っていた子がスンナリと細くなっている……同窓会は不思議な所です。それぞれに育った大人、その大人たちがもう一度、実際に最初にもどるとしたら……死でしょうね。

ホラー映画はその死を露骨に見せてしまう。子供が最初に出会うペットの死、不意に来る友人の死も、逃れようがない肉親との死、ただ表面を軽く浅く、興味本位になぞります。

身体障害も人生の否定的な面として、軽く触れる。医師の妻、今は成功した女性にも、早死にした脊椎症の姉がいます。脊椎の表現は事実無根のグロテスク、姉の顔には灰色に死相が浮いています。この扱いは差別です。

身障者の、可能性はゼロではない。可能性を沢山に抱えた人も全部を実現する訳ではない。可能性のひとつを確実に実現すれば、それでいい訳です。可能性を持つ事に関心が行って、実現に向かない。悲劇はむしろ、そこにあります。

現在の妻は若く美しく健康で、記憶の中の姉は醜く歪んでいます。映画の中で姉は早くに亡くなる。それなりの生き方をする……姉には姉の生き方もあったはず、そこを見ない。失われる若さに関心がある。

若ければ若いほど美しければ美しいほど、老いは受け入れ難く死は納得できません。しかし現実は、納得しなければなりません。それで集約、一番やりたい事を選ぶことになります。

うつろう、時は移ろう。ちょっと差別を通し端的すぎる表現で示される。人は変る人は老いる……可能性は集約しなければ意味がない。作者はそう言いたいのに自分でも気がつかない。

いつか終わりが来ることに集中がいきます。終わりを暗示をするモノとして怖い、集約には気がいかなければ、中学生だって小学校を懐かしむ。生ははかない……身障者の私としては大目に見るとしましょう。

時のうつろいを上品に描けば、たとえば、

♪泣きながらちぎった写真を、手のひらにつないでみるの。

ユーミンの「あの日に帰りたい」を小野リサさんが上手く歌っています。ユーミンは早くに青春の終わりを上品に悟りました。

始まった人生はいつか終る。しかし終るまでの生はあなたのモノ、私のモノ……一日あれば出来る事、一週間あれば出来る事、一年あれば出来る事、出来る事はいろいろある訳です。私の出来る事は、私がモノにします。

あなたが出来る事はあなたがモノにして下さい。出来なかった事は砂のように指の間からこぼれていく。運命は過酷で、家族をうばって行くかも知れません。それでも、残った家族と共にふるい立っていく。めげてなどいられないはずですが……

主人公も観客もめげてしまう。この映画は興味本位で、深い現実が描けていない。そういう意味です。ここまで来て、キング作品の葛藤をもう一回追うか、別な作品に移るか迷うのですが……このテーマでまたそのうち。

     小野リサ あの日に帰りたい 

http://www.youtube.com/watch?v=Rtu_Mj1Be4Q

2010年8月20日 (金)

ペット・セメタリー 映画

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「ペット・セメタリー」という映画は、1989年時にマニア系で評判になりました。LDでハードオフに出たのを買います。ホラー特有のサラウンドが効いて、オーディオにつなぐと昼間しか見れません。

例のトラックが爆走するシーンで、近所の犬がワオワオと吠え出し騒いだので、これは昼間でも考えもの……暑さしのぎとはいえ、こんなバカをやってはいけません。

S・キング(画像)原作で、キングさん原稿を上げた後、発表をためらった。カミさんが反対したというのも判ります。しかし映画化に際しては脚本を手がけ、チョイ役で出てます。

本当はどうだったのか判ったものではない……で、私の判定は、間違いなくこれはB級映画です。キングさんの品格はこの一本で知れます。すごいおセンチ、しかし感情的もこれだけモロだと逆に面白い。私の品格をかけても取り上げます。

基本は誰でも死ぬのは怖い。オウムの麻原は人は必ず死ぬといって怖がる人をあおったトいう。そして全財産を召し上げた……財産があっても教育があっても、世間の評判何があっても怖いものはコワイ。

不安や恐怖をあおるだけの教えは信じない方がいい。死ぬのがコワイというおセンチも、出来るなら早くに克服したがいい。うかうかしてると死ぬんです。死ぬから生き物は一番したい事を優先します。

生き物が一番したい事は繁殖です。人間も生き物だから、それセックス……にはなりません。そういう人もいますけどね。人間のスゴイところは本当にしたい事を、自分で探し出してする。

自分だけで出来なければ人に頼む、子供に頼む孫に頼む、友達や知らない人にまで頼む。自分でも大分やった、後は人に頼んだいうと安心して死ぬんです。

ただいつまで経っても自分が何をしたいか判らない。毎日まいにち漠然とその日限りで生きている人はいます。そういう人の不安は消えないでしょうね。いつまでも死ぬのがコワイでしょうね。

この映画の主人公がそうです。立派な医師になっているのに本当は何か違うことをしたい気がする。いい家を買ったけど、もっと違う家がよかったような気もする。生き方が決まらないのです。

違うカミさんの方がよかった。カミさんの実家は結婚には反対している。義理の父とはうまくいかない。すると違う家族がよかったような気もしてくる……不安が形になるのが家の前の道路です。

家の前の道路をトラックが爆音を立てて走りぬける。するとサラウンドがかかる。犬が吠える。大騒ぎして私のドアの前まで犬がやってくる。(笑)それはもう大変です。

明日もこの続きをやるのでオチは言いませんが、この映画は後味が悪い。その後味にキングさんのカミさんが反対し、本人も発表をためらい。悪い方の評判も高いのです。

すると反対に、悪い後味に快感を感じるマニアが出る。その理由とは、だからその解明に乗り出します。さあ明日、結論の期日も迫りましたなあ。

2010年8月19日 (木)

老人会の困り事

0270182 老人会が困っているそうです。思わず笑ってしまうが、私も立派な老人であり、笑ってばかりもいられない。いえ問題というのは、老人が老人会に入らない。入りたがらないのです。

老人数はむしろ急激に増えている。しかし会員数が95年あたりを頂点に2割ほど減っている。老人数からの参加率はどうなるのやら? 身障者の協会参加数も、実は似たようなものであります。

何がたたったか、協会に入る身障者はどんどん減っています。95年というのはWIN95いうように、この頃はパソコンが大きく伸びた時期です。福祉協会はそれに関心を持たなかった。老人会も同じでしょう。

パソコンだけでもないが、時代が変化する時、変化に背を向けるとどうなるか。教訓となる現象と思われます。福祉協会では会員から役員を選び、役員から会長を選ぶ。会長は会の方針を出し、会員はそれに従います。

一方、パソコンとは情報です。会をはさむ事なく一人ひとりに情報を伝える。一人ひとりは自分で判断し自分で行動する。誰かに従う必要がなくなりました。ただ責任は自分、迷いも失敗も自分で被ることになる。

協会には、それが出来ない人が残ることになる。端的にいうと会長判断に自分を任せる。自分では判らない、あるいは出来ない言う人が残る。極端なことを言いますと情報化社会とは、他人を頼りにしない社会です。

自分をみがいて力をつける社会です。肩書きや学歴がある人に従う必要はない。実際の情報をさばき、絶えず勉強すれば力がつく……そういう者が勝る。会にある意味で、意味がなくなった。それが95年頃の背景にあります。

それで老人会はどうしたのか。本会名は変えられないが愛称を募っています。いきいき、さわやかさをイメージする名前を求め、老人のイメージを払拭したいそうです。

「老人会の名称には抵抗が強く、入会をいうと侮辱と感じる人が増えた。団塊世代はとくに声かけもできない」状態といいます。そういえば私にも、老人会から声がかかりません。

まあねえ、やはり笑ってしまうしかない。元を正す事が出来ず、名前だけ変えても姑息でしょう。地道に根本の問題に取り組む事です。現実に合わない会は多いのかも知れません。気の毒とも思いますが深い同情も出来ません。

2010年8月18日 (水)

おひとりさまの老後 上野千鶴子

Ohito

おひとりさまいう言葉の意味づけは、上野千鶴子さんと思っていたら、一般には観月ありささんのTVドラマみたいです。そこは違っていたのですが噂の「おひとりさまの老後」を読みます。

老後は何才くらいを指していうか、ちょっと疑問に思います。つまり上野さんは体調がいい方らしい。体調には個人差があるので、どこまでを基準とは言えないが、老後をいうなら今より落とす事が前提になります。

5年先、10年先の自分、さらに落ちていく事を前提にしなければ老後にはなりません。むろん実際そう成らなかったら、それはめでたい事ですが、考える前提には老化した自分いうことです。

本の文面では、上野さんに老後は感じられない。身障者言及はあるが上野さんは健常者で、私は身障者なので仕方がないのか……では社会状況をどう捉えるか? それも首を傾げます。

4章「おカネはどうするか」では上野研究所で秘書ひとりの求人を出します。100人の応募があった。これは年齢の制限をつけなかったからなのだが、上野さんは年齢差別と表現してます。

高齢者向けの求人は少ない。本当は働かないと食べていけない高齢者が多いのではないか……と私は読みます。上野さんは、ある高齢男性を面接で落とすが、高齢者職場が足りない事への言及はない。

男だから落しても高齢だから落しても、研究所の自由です。おひとりさまの現実をどう思うか、この展開では判らない。全体は気持ちで勢いをつけ、老後も元気にやろういう、本の趣旨と見受けます。私もそこに反対はない。

だが実際はそうもいかないのでしょ? 認識はあるようだが、どう考えているか首をかしげる。男はダメよ、でも女なら何とかなるのよ。(書き出しはそう取れる文脈)そうであれば、男の私は残念だが、それはそれで「良かったネ」とエールを送ります。

そうでもない、ようです。全体では何を言いたい、さっぱり判らない文章は私も得意としますので、コレ有料か? などと品のないことは書きません……あ、書いちゃった。その意味で老後の足しにならない。

私なら、こう言います。老後へのカネでの対応は難しくなる。酒やタバコでもダメ。そなえるなら、なるべく早くに筋トレなどスポーツをして体力をつけた方がいい。ケータイ、パソコン、コミュニケーション道具の大切なことにも男女差はありません。

●おひとりさまの老後 言及しました冒頭部分はネット内、アマゾンで読めます