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2010年6月

2010年6月30日 (水)

ストレッチポール

Stretch

雑誌ターザンによると筋肉は鍛えすぎてはいけない。(540号、細マッチョ)ト書かれ、私もどうもその域に近い。ウエストが減って胸が張っています。水泳での浮きがよくないのです。

筋トレの回数を、週2から週1に減らす方向で考えてます。少なくとも上肢については。この一年で胸囲、ウエスト共に3センチくらいの増減があるようです。

私の場合、リハビリいうより障害対策で、ルックスは問題にしません。ターザンの表記ではどう見えるかに重点があります。一般にルックスからの意味は大きいと思われる。

割れた腹、短パン仕様の足、精悍な小顔という訳です。スタローンやシュワちゃんの時代があって、ヨン様がムキムキの写真集を出した時期があって、その後、中村獅童さんがCMで裸の腕を出す。

氷川きよしさんやV6、アイドルの男の子も、今は例外なくジムに通っています。体が資本、そして営業の一環と思われます。そういう時代、それで普通、障害者だけが不健康いうのも変な話になります……私の言い方が悪い?

筋トレルームにはそういったマシンと共に、バランスボールとかストレッチポールとかマシンと毛色の違う道具も備えてあります。そのストレッチポールをインストラクター同士で教え合っておられる。

近くで私はジッと見ています。目が合った、何か言う場面で。

――いえ、TVやネットで見ていて、興味があったので……

そのまま続けていう意味だったのですが、

「それなら是非。私がコーチしますから……」

床に仰向けに寝て、事前の感触とストレッチ後の感触を確認するのだが、事後には体がべったり床に着く。そのべったり感に、リラックス出来てなかった時との違いがある。

それで私は筋トレに戻ろうと2、3歩、歩きかけて判った。事後は歩く感触がはっきり違う、歩きやすくなっている……ただ、それがどれだけの時間続いたかは判らない。

わずかな感触の違いに過ぎないト評価する事も出来る。それでもプログラムに入れるべき。どれほどの意味かは判らないにしても、身体に関しての準備、成すべきは昨今、変わっています。

タバコは呑まないのが普通になったし、スタローンやシュワちゃんがして来た筋トレは流行らなくなった。筋トレ全体が消えたのではない。形が変え一般化し、むしろ進んでいます。

●ストレッチポール http://stretchpole.com/use/index.html

2010年6月29日 (火)

集団決定法の効果性 篠原弘章

放送大学で篠原弘章教授の「集団決定法の効果性」を聞きました。

「心理学が専門です。人は『喫煙が雁の原因になる』ことを知っていても、なかなか禁煙できない。時速60kmの制限速度を知りながら、速度オーバーは多い」

「このように知識と行動は一致していない……知識と行動の一致を目指した集団運営法である集団決定法を用いた研究を具体的に紹介しながら注意事項について話します」

実は私、この惹句というかコピーがピンと来ません。簡単に禁煙に成功して時速も守る傾向にあります。ただ後者の方はもう年でスピードが怖いからかも知れません。

身体障害があって他人に合わせるのが得意ではない……マイペースにやった方がいい……からかも知れません。クルト・レヴィンの集団社会学はドイツに始まります(ユダヤ系ドイツ人)

工場の仕事で生産性を上げる。能率をよくするには工員を6人~12人のグループに分け、手抜きをしないように申し合わせる。どうすればいいかディスカッションさせるのです。

今、ワザと「させる」と書きましたが、するようにさせる。出来ればしようと思わせる……結局、自主性を持って思うのが一番いい訳です。書くまでもない理屈です。

講義の中には出ませんでしたが、今、角界の意識低下が甚だしい。まず朝青竜がだらしない思われましたが、朝青竜の反省がいつまでも見られない。これはむしろ、協会がだらしないのではないか?

朝青竜が引退したら協会は締まったか? これが依然として締まりません。角界は特殊な団体という事が判り、簡単には反省しない。反省が出来ない集団と判って来ました。

集団が反省し習慣などを改めるには、なかなか難しい事が待っています。他人から言われて自分を変えるのは難しいのが当たり前のようです……そこで私は、ふいと思い出します。

中谷彰宏さん等、ビジネス講演会の論旨がまず外側を取り込み、

「私は仕事に向けて頑張ります」誓約の大声を上げます。とにかく大きな声で誓い、約束する。

次の段階では本気で、心を込めて誓約する訳です。そして同じ事をいう。仕事に自分を集中する。本気で課題を実行する。一種の洗脳という説もありますが、ほぼ同じ事にポイントがあります。

しかしタバコは止めた方がいいし、制限速度は守った方がいい。まず間違いなく集団決定の効果性は発揮した方がよいのです。ひとつ気になったのは黒パンと白パンへの嗜好です。

会場から質問もありました。黒パンというのは雑穀を入れたパン、白パンは小麦粉だけのパン……質問は、日本では白への嗜好が強くないか? 教授のお答えは、最近は黒パンに向いている。

日本では米も米だけを銀シャリと称し重視した歴史があります。私は今、雑穀を入れています。パンは米粉を入れるのが流行っていて、あれは白いんです……白パンとはいえ一種の雑穀パンなのか、どうなのかなあ。

2010年6月27日 (日)

練習中

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熊大のキャンパスで練習中を、いきなり撮りました。

――今日は。

「今日は」

――今、撮ったんですが、これです。

「振り返った後で、顔は出てないんじゃあ?」

――いえ木影ですが、きちんと顔が出てます。

「出てないと……あ、出てる」

――ブログに出していいですか。

「出していいです」

出ていないのは前に立てた譜面台。

後ろに入った二人組の自転車はタイミングがよかったのか悪かったのか?

人づきあい

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人間関係の悩みは皆おなじ。ただ各人各様の、様相が違うと同じとは思えない……のでは? たとえばホームページ、ブログ、プロフ、ミクシィ、ツイッターというネットでの流れも、こう見れば意味が通じます。

パソコンが出来ない人の意見を聞くと、あれはパソコンに動かされているト言います。パソコンに支配されてるト……確かに映画「ターミネーター」での物語の流れはそうなっていました。

すると未来はインターネットから、今にロボットを送り込んで来るはずです。しかしロボットのシュワちゃんも流体金属のロボットも見かけない。アンチパソコン派のご心配は、残念ながら外れのようです。

ここの解明は出来ます。実際に会うより電話が早い、世に電話魔という人がいます。何かというと電話をかける。用があるかないか判らない状態で、すでにケータイを取る。

横で見ているとビョーキです。まるで疑問や不明点が出るのが怖い、辞書を見るなり本を調べるなりは出来ない……第一、本がない。図書館に行く習慣がない……それで電話をする。

もうお判りかと思うのですが、電話をネットに変えると同じようにコミュニケーションが出来ます。その一端を持つのがホームページで、あれは更新が簡単ではありませんでした。

ホームページを簡易化したブログ、掲示板やメールの機能も取り込んで、更に簡易化してツィッター……あれは自己顕示ではないか言う人もありますが、発信すると情報が集まるんです。

慣れない人が見ると自己顕示に見え、本人にとっての情報収集が行われます。物事を調べ図書館に行くのと代わらない……日記を書く人は多いが日記の意味でもあります。

最近のブログは索引がついていて、物事から検索するとその月日が判る。大学ノートに日記をつけると去年だったか、一昨年だったか調べるのも大変……ブログしない人の気が知れません。

パソコンの付き合いは簡単です。このブログに、ひんぱんにお出でななるツバメさんやCR―V乗りさんと、回数を呑み会で交流していたら大変でしょうねえ。月末の度に夜逃げしなければならない。

昔、男の情報収集は酒でした。情報通になるには肝臓が丈夫でないといけません。飲んだ勢いで怪しい所に出入りする……これが男の付き合いだぁ(笑)ビョーキのオミヤが付きます。

人間関係から情報を取る必要はないとまで言いませんが、まあ能率が悪い。図書館の本棚、本の山で調べ物いうのに似ています。パソコンのようにgoogleでいきなり核心とは行きません。

生きる悩みは皆おなじ。ただ様相が違うので同じと思わない。ホームページ、ブログ、プロフ、ミクシィ、ツイッターの構造と流れを見れば意味が通じます。

2010年6月25日 (金)

なつかしき笛や太鼓

034007 近所に神社があって、盆の夜にカラオケを歌います。今時、カラオケはどうかとも思うのですが、太鼓も叩きます。和太鼓の音はやたらにデカい。あれは近隣に聞かせてやろういう音量です。

カラオケいうのも基本そうで、聞きたくなくとも聞けいうメッセージがあります。そうでなければPAで音量を上げる必要はなくなります。悪く言うと強制的に聞かせる。

音量の出しものは、もともとは神楽だったのでしょう。神楽が楽器を鳴らし歌を交えて踊る。神様は天照。それが隠れなので呼び戻す策が祭、使命というか、明らかな名目になります。

すると最初は夏にではなく、冬に行われたのではないか? 冬至の頃に昼が短く夜が長くなる。どこにでも昼を呼び戻そうとする祭があります。クリスマスや正月です。

大袈裟に騒ぐ理由はあるト思う。神楽が洗練されて能楽になります。能楽の成立には武家の社会進出が重なります。武士が神楽を変えて能楽にしたのでしょう。

神楽は廃れることなく平行して進みます。能楽が、神楽を止めろとは言わなかった。これが面白い所で、似たような物なら廃止するのが普通です。やがて能楽に対抗して歌舞伎が出ますが、これも平行して発展します。

歌舞伎を支持したのは武士以外の人たちです。楽器を鳴らして歌って踊るいう形式は能楽と同じ。この時も大元の神楽は昔のようには盛んでなかったが、それでも残って行きます。

熊本には清和文楽が残っていますが、いったん無くなり四国にわざわざ教わった。文楽も言わば歌舞伎からの流れです。田圃仕事の後に多く人が集まる。清和文楽はお集まりと祭の形です。

歌舞伎はやがて映画になる。役者は映画俳優になる。映画俳優はやがてTVタレントになる。TVが普及すると映画の隆盛は消えますが完全に消えるのではなく、ビデオになって共存します。

それは世界中どこだってそうで日本だけではない。ただ米を沢山作った頃の文楽と、TVが共存するのは不思議な光景です。それが際立って日本的なんです。

これは私が言ったのでない。加藤周一さんが焼物を例に取って言いました。私は焼物は得意でなく、話を映画に変えただけです。健常者が障害者になると、映画俳優がTVタレントになるような……

いえ、役者が映画俳優をやるような感じになる。日本にはそういう特性がある……俳優と役者、能楽と神楽を一緒に行う感じになります。すると、どこに本当の自分が居るのか、自分でも判らなくなる。これは喜劇であり悲劇です。

自分の国が、実は植民地とは思いたくない。属国とも半人前とも思いたくない。かって私が自分は障害児と思いたくなかったのに似ています。私には日本がよく理解できます。

2010年6月24日 (木)

政治と精神

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朝から何だか変でした。懐具合はいつも悪いが腹具合が悪くなった事はない。これが夕飯を食った後も悪く、夜になって熱が出てきたのに驚きます。冷蔵庫を漁って、仕舞ってあった古い薬を出します。

およそ3年前の抗生剤と解熱剤が出て来ます。何に使ったか覚えていない。それを一錠づつ飲んで……もう一度、体温計を挟むと38度ちょうどです。ヤバ……

寝ようとしたが寝れません。これもトラウマの一種かもしれない。ヤバと思うから不安が、なお増して来る。股関節発病時とつながるからです。起きていてもどうにもならない。寝てしまうに限るが……

岸田秀さんの心理学の本を開く。近代日本のあせりとあがき、歴史の話です。本を間違えたかと思い表紙を見直すが、間違いはない。これがホントの表紙抜け……いや拍子抜け。誰か座布団を下さい。

それでサブタイトルが外的自己と内的自己、漱石みたいな口調に聞こえる。漱石は日本が滅びると予言しました……管総理は沖縄では顔がない。なぜなら日米は外顔では対等ではないからです。

岸田さんは日露戦争で、日本は勝っていないという。勝ったのは日本のバックにあった英国という。ロシアの船は自国の生産で、日本の船は英国の生産というのが根拠になる。代理戦争というのです。

司馬遼太郎さんが生きていたら目を剥きそうな話ですが、日露戦争には客観的な情報がないという。あれば日本に不都合、日本には外側の顔と内側の顔がある。それが大きく矛盾するという。

内的に自立した日本を演じ、外的に隷属する日本を演じるからと岸田さんはいう。日米関係はいまだに対等ではない……とすると話は簡単でしょう。菅総理の顔もすっきりします。

それは日本人としてのプライドを持った方がいい。しかし私たちの使っている字は、もともと漢字であり、仏教もインドから中国を通して伝わった物でしょう。日本には本当の自分がない。これが漱石の口調です。

腹具合の悪いときに妙な説を読んでいると、ますます妙な感じになって行きます。卑屈になってはいけない。では嘘をまことで塗り固めるか……それではいけない。

内側の顔と外側を認めるのが第一歩といいます。この辺も身障児になった時の体験と重なります。内側では健常児を通そうとするが、外側は身障児そのものです。

矛盾と葛藤を抱えアンバランスそのものの私、いえ歴史上の日本が妙なリアリティで迫ってきます。今の日本にもリアリティがあります。腹の具合とリアリティがシンクロする夜……

シンクロ・ナイト・リアリティなんちゃって、危ない人には怒られそうな、下らないダジャレを飛ばしといて、そろそろ寝ますか。(幻想に生きる親子たち、74ページ)

2010年6月23日 (水)

歌手・大竹しのぶ

Ootake

大竹しのぶさんがホスピス慰問をしているそうです。内容は小曽根真さんのジャズピアノとの共演らしい……頼まれて仕方なくではなく積極的に続けたいという。

正規コンサートの方はチャリテイという表現で、世界の子供にワクチンを送る。国境なき医師団への手助けという、明確な目的意識が感じられます。

「それは自分のための喜びのために始めたコンサートなんですけど、喜びの中で広がってガンバリ続けて行けたらいいなト思っています」

そういう表現でした。前から好きだったそうですが、大竹さんは最近はCDを出していて歌手として経歴がある。俳優はセリフをしゃべる関係から誰でもある程度は歌えます。

大竹さんの歌は、ちあきなおみさんの喝采とか、かなり難しい歌をこなします。原曲を超えるのではないが、場面が浮かぶような歌いっぷりです。(youtubeからデビュー曲か)

この事に関して、大竹さんは寡黙で口ごもり勝ちです。どうも女優としての仕事とは違う、何か一線があるらしい。それはこのように表現されます。

「音楽を聞く事によって心が安らかになってくれるのが判るんですね。あと今、生きていることを実感できるし、今、ここにいる事が楽しい事で、今、ここにいる事が感謝すべき事なんだと判る……」

「患者さんがそうだし……私もそうだし……真さんもそうだし……家族の人も看護師さんもそうだという事を、患者さんに逆に教えてもらいました」

この下りを聞いていて、私は前に書いた自分のブログ記事を思い出します。千住真理子さんがコンペを総なめにした後、引きこもり状態になった話です。

これはパート2になると思い、書いている訳ですが……一言でいうとコミュニケーションです。コミュニケーションは短い場面では一方がもう一方に伝える事をいいます。

長い場面では伝えた事が、伝えた者に帰って来る。それもコミュニケーションの重大な要素です。おそらくホスピスのロビーは、コンサート会場のように暗くはならず、患者の顔がよく見える。それは伝わる歌や音楽の一曲一曲の反応もよく見える。

映画やTVではカメラがあるだけ、観客の顔すら見えない。演技や音楽は難解な方に向いて行きます。ホスピスや病院では基本的な方向に向いていく……そういう事と思われます。

それにしてもコミュニケーションとは不思議なもんです。

●ラジオ深夜便 大竹しのぶ後半

http://www.nhk.or.jp/r1/shinya/jyoyou.html

●千住さんのバイオリン 

 http://hata1.blog.bbiq.jp/blog/2009/02/post-613e.html

●大竹しのぶ「みかん」 

http://www.youtube.com/watch?v=5AXvDAtSvvs

2010年6月22日 (火)

グーグーだって猫である 2

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一昨日の「グーグーだって猫である」の視聴が上がっています。通常の倍以上の数字で、原因に思い当たる所はない。で判らないが、どうも犬童監督の前の映画と重ねたのが原因のようです。

それで話を蒸し返して二番煎じ……この映画、主演が小泉今日子さん、この人は未だに人気です。そういえば私もコンサートLDを持っています(笑)だから小泉さんの悪口じゃありません。

映画での前作が「風花」でしょう? ストリッパーの自殺願望を演じたヤツです、傑作です。今回は死期を自覚して遺作めいた物を書くマンガ家いう役どころ、映像では死ぬ訳ではない。

死なないでも生き物は老化すれば死ぬ。それを実存的に受け止めよう……いうのが私の主張です。大筋の主張は、犬童監督も同じです。つまり女性が卵巣ガンで子宮を取ったら、女として死んだいう事です。

映画のタッチはコメディで、小泉さんが演じると陽性には見えるが、この死は動かない。前の「ジョゼ……」では、ここを池脇さんが身体障害の設定で演じました。同じ意味です。

私は身体障害ですから、その辺りの因果関係に敏感で読み取りは早い。小泉ファンがいて、もっと若い上野樹里さんファンもいて、この映画は厚い支持があります。だが、そこは読めていない。

いえ読めない人もいます。ここで身障の意味を言っておくと、実年齢より死が近い、身障者はこの状況が全員読めているか? これを大雑把に書いたのが、昨日のブログです。

「猫」を見た女の子は「私は若いのだから」女の子なんだから思っている。しかし10代の子は、やがて20才になる。まだまだと思っていても、5年立てば20代が後半になる。年月に容赦はありません。

誰もが例外なく30才になり40才にもなる。旅行に行ってしばし現実を忘れても、たいして意味はない。確実に時間は過ぎていく。モニター旅行にタダで人吉に行っても、違いはありません(笑)

つまり考えない人は考えない。若い人も高齢者も、健常者も障害者もあまり関係ない。認識を深めて生き方を少しづつ変える必要がある……そういう工夫が出来てない。その理由は判りません。

役の中の麻子は自覚して変化しています。そこを読まないと映画見た甲斐がありませんが、どれほどの人が読み取られているか? 私には判りません。

ただ犬童監督のこの「猫」についてはDVDを買ってもいい。そういうブログを書いてる女性はいます。「買ってもいい」とは、積極的に買いたい。絶対買う意味とは違います。

映画が潜在意識に訴える何かは感じるらしい。ジョゼと猫の間に、犬童映画には「ゼロの焦点」があります。私は状況から、これも見た方がいいようです。そのうちDVD「ゼロの焦点」を借りようと思います。

話を最初にもどして、一昨日の記事で視聴率が上がるのは、私の狙いは満更でもない。少し自惚れていい事になります。

2010年6月21日 (月)

福祉協会の活動

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実存的に関心を持たなければ……そういう昨日の話の続きであります。福祉協会ではそんな話は出ません。協会がまた実存的ではない。今回は、またまた旅行に行きたい言う話です。

頸椎障害の人のお集まりもネットで見たのですが、旅行については、同じような傾向です。福祉協会の高齢化が進んでいます。これ以上、高齢化が進むと、あまり遠くへも行けなくなる。

そういう心配で、今のうちに行って置こうと考える。私はそうは考えませんが、一般にそうなる。

「中華料理と台湾料理は違うとだろか?」

中華は一般に広東料理をいう。次に辛いので有名なのが四川料理です。四川料理の父は陳健民氏であると言われ、その直伝の女性が熊本にもあられる。教わる事も出来る……あれはどこか、市政だよりに載ったような。

広東料理はもっと一般に熊本にもある。台湾料理もこれが主流ですが、その辺の知識は質問の御仁にはない。何も知らない。知らないから行きたいと思われるのでしょう。

行けば判ると思う。その意味での考えは残薄です。縄文杉の話題もそういう風に出ます……縄文杉は千年杉というので人気があるのです。杉でなければ楠、クスなら千年ものが珍しくない。

人吉、青井阿蘇神社の楠が千年を越えている。神木的な扱いを受けています。熊本城には千年いかない数百年ものがザラで、中にはどうも、それと思しき大楠があります。

祇園神社という神社に至っては千年を遥かに超えた……大きさだけで言うと1500年もあろう? 不明の大楠があります。どうも熊本県は一面、楠の森だったらしい。千年楠が山ほど、それほどでもないか?

千年木というので無闇に有難がったり粗末にしたり、ただ遠くというのでは筋が通らない。縄文杉に行くにはヒルいる道を行くそうです。血を吸うヒルが足元から、首筋にも落ちて来る。

つまり大事なのはヒルに吸われる事ではないでしょうか。遠くなんてDVDで行ける。お土産もスーベニールもネットでお取寄せが出来ます。見も聞き出来ない体験はヒルに吸われる位です。

ヒルだけは花岡山に行っても金峰山に登っても、もういない? 別にバカにしている訳ではないがバカバカしい気はします。協会運営、他にやりようもあろうと私は思いますが、これ会員の総意という。

私はどっちみち行けません。縄文杉の件はその辺りがネックかどうか、結局、流れたそうです。ヒルの山道を車椅子や電動車椅子で行くのが実存的かどうか。私には判りません。

2010年6月20日 (日)

グーグーだって猫である 映画

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猫話です。猫は人間の数倍の速さで生きる、映画では倍数も言われましたが計算が合わないので、ここに書きません。数倍で生きるとは奇妙な言い方で、正確には早く死ぬという事です。

子猫と思っているとたちまちサカリが付く。他所の猫を追いかけて数日は帰って来ない。それで普通だが何しろ、マンガの先生の家に飼われた猫だから普通には済まされない。

麻子先生は、センセーにしましょか? センセーは子供の頃にマンガを志して以来、ひたすらマンガに集中して来たのです。集中は中に集めると書くが、その外は祖化されている。

中に集中されるほど、必然的に外は雑になる。別に私は麻子センセーを批難するのではなく、物の道理としてそうなると思う。その証拠として麻子センセーは未だに独身です。

麻子センセーは家出したアメショー猫のグーグーを探し、アシスタントと連立って吉祥寺公園を探し回るのです。今までの人生で潜在的に失った物を、つまり探そうとしている訳です。

マンガ家をしていなかったら得られたかも知れない何か……そんな物が判るのか? 映画ですから、ある程度は判ると思います。男とそれに付随する家庭、子供ですよね。

いない子供の代用品として猫の意味が大きい。センセーは卵巣にガンが出来ていることが発覚します。結婚しないとガンになる意味はむろんない思います。

ただ人生のつけは、多く自分で払う事になる。近隣の誰かに負担を願える場合もある。アシスタントのひとりは才能がない事を自覚して米国に行くと言い出します。

上野樹里さんが演じるアシスタントは、センセー役の小泉今日子さんと演技の質の違いを見せつけます。他人にあこがれるより自分の現実を生きろ……ここには、そういう主張がある。

犬童一心は「ジョゼと虎と魚たち」の監督で実存性の追求はつながっています。男を雑に扱ってマンガに集中すれば、男には浮気をされる。作れる時に子供を作らなければ、後で取り返しは効かない。

夢がないと空しい……言われましたが、実は夢があってもなくても空しい。空しいからこそ生きなければならない。自分らしく自分のすべてを賭ける。自分が集中した物は何か。粗雑にした物は何か、時に自分に聞いてみる事です。

猫のグーグーが指す現実の意味は、鋭く人生を堤示している訳です。気が付こうとつくまいと、正確に時間は過ぎて命には終りがある。アシスタントの樹里ちゃんが行こうとする米国に何かがあるかないかは別としてネ。

      ジョゼと虎と魚たち http://hata1.blog.bbiq.jp/blog/2009/10/post-39ef.html

http://hata1.blog.bbiq.jp/blog/2009/10/2-17b6.html

●画像は話と関係なく、捨てた種から育ったカボチャ。