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2010年4月30日 (金)

家族狩り~終盤~

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読む前からおよその想像はついていました。小説とは言え、これは家族論です。ある種の犯罪一般の原点には、社会問題のといってもいい。個人を超えたイエがある訳です。

身障者問題の根底にある重点にも、それはあります。ある部分ではつながっている。その観点から私は本を読みました。そしてほぼ予測した着陸点に着陸します。本の終りにあるのはハッピーエンドではなく、現実その物と言ってもいい。

イエは米国にはありません。イエは父が居て母が居て子がいる。子の子、孫の誕生によって生まれます。たとえば父はそうでなかったが、母が逆子で生まれた。子が同じく逆子で、どうやら孫もそうらしい。

すると家の伝統いうか。関係のない父をおいて、血脈をそう意識せざるえない。あるいは父が親友の保証人になって連帯責任を取った。たまたま子も人がよく同じようなハメになったとします。

それは血ではないが、孫に向けて連帯保証人になってはいけない。家訓のような物として向けらます。それがイエです。本来なら誰の連帯保証人になろうが、なるまいが個人の自由です。

本来を束縛するイエの存在が日本にはあります。少なくとも米国よりは濃厚にある訳です。子が親とは違う家庭を築こうとする。最初の難関は子育て、教育方針という形で出てきます。

お父さんはもっとお母さんに協力しなければならない。ベビーシッターを雇うためには、もっと収入を増やさなければならない。それが無理ならお祖母ちゃんを呼ぶ。お祖父ちゃんに経済協力……するとイエ、伝統を認めざるえない。

いきおい個人の自立は実質、危うくなる。もう一方で教育から立身出世を図るのは難しい現実があります。東大を出ても必ずしも高収入いう訳にいかない。となると家庭は何を目指すか?

目標を喪失します。中学にも行けば、子供本人は、こんな事をしていても自分の為にはならない。それが自ずと判ります。子は判るけど親はそうでない。もっと上、もっと上に子の幸福も自分の幸福もある……と信じる。

根拠はない、思うのではなく信じる。宗教と言った方が正しいでしょう。明治以来、敗戦の時さえ関係なく信じられてきた教育という名の宗教……その崩壊を書いた小説です。

なぜ私がこんな風に読むか言うと、漱石の時代にすでに問題の芽はあった。漱石は生なリポートで出して来て、天童さんはホラー仕立てで出して来た。生で出しても売れない。商売にならないからと思う。

書き直しの文庫版も売れたようで一応、商売にはなったと了解します。ではこれで理解がいったか? どこかの家庭に教育方針は立ったか? 立たなかったろうト私は思います。それどころか天童さん自身の目標が立っていない。

国の将来もかかるだけに大変です。同じ問題をよく似た形で出しているのは桐野夏生さんグロテスクではないか、思います。手の内も見えましたので文庫版は省略させて頂きます。

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