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2009年11月

2009年11月15日 (日)

反逆のバリアフリー

Speed

バリアフリーなんて言いますが、ここだけの話、あれは判りませんよ。熊本県ではUD、ユニバーサルデザインといいます。身障者や老人にはバリアフリーが必要といい、みんな当前と思います。

だけどバリアフリーは100%、必要か? 違うでしょう。健常者は階段で段差が解消する。老人や身障者にはスロープが必要、だからスロープを作ろう。簡単にいうとそれがバリアフリーです。

50%とは言いません。30%バリアフリーはいりません。つまり逆説に近いが、UDは障害を深くしていないか? さても刺激的な書き出しです。段差のある空間を使うのと別に、人間は段差で場所や空間を意識します。

段差を無くしたらその認識力を剥ぎ取ることにもなる。家に、わざと狭い入口や傾いた廊下を意図的に設計する建築家もおられます。荒川修作さんという建築家がそうです。

逆もまた真なり。無下に否定は出来ません。卑近な例で申し訳ないが、私は今、競泳用のパンツを使っています。競泳会には出ないので、必要はない。競泳用でない普通な方が穿き易い。健常者は100%そう思われます。

不自由な足には穿き易いパンツがいいのではないか? いえ、それが怪しい。30%程度は間違っているのでは? ある程度と、条件をつけますが、穿き憎さの負荷をかける。かけ続けると身体は自由が利くようになるのです。

競泳パンツを1年使うと、私はいつの間にか何でもなくなっています。それで先日、突然、言われました。

「パンツ変えた? 競泳用はカッコいいもんな。ブーメラン型、ビキニタイプもいいなあ。足首まである長い競泳用もいいなあ」そう言われる方がある。

ああ、そうか。なるほど競泳用はカッコよく見えるのか。カッコ悪いよりは、好い方がいい。しかし長いパンツは障害の身体には……返事にそう言いかけて、いや待て! 競泳用の長いパンツも慣れ、もっと自由に成れないだろうか?

穿き憎さを負荷として使う、長パンツです。そう考えればユニバーサルデザインも逆の発想でリハビリとして使える。家を建替えなくても建築家、荒川修作さんに学ぶ事は出来ます。便利が不便なら、実に不便こそが便利になる。

いえ、そういう事実もあるんです。お祖母さんと孫世代の為に、子の世代が家を建て変えます。ビルの家にエレベータを付けました。だけどお祖母さんは、エレベータの中で内緒で私に、こう言われました。

「う~ん、ここだけの話、エレベータって足、弱りますよ」

話はここまで。ご感想は? 私? 私なら実行までに距離があります。

エレベーターの取付け予算は2、3百万はします。長い競泳パンツは、幾らでしょうか? 今のパンツは5000円、その半額処分でした。私がスピードのパンツを買った翌年から、すごい人気化しますがネ。

●ウィッキペディアでの荒川修作 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E5%B7%9D%E4%BF%AE%E4%BD%9C

2009年11月14日 (土)

インストルメンタル・ジャーニー

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またFMを聞いています。カセットデッキを使うもので、昔の録音をかけた勢いでFMもかけます。番組としては「インストルメンタル・ジャーニー」なんていいですね。NHK火~土、24時。

この番組はジャズとクラシックを混ぜて放送します。これは他に類がない。ナベサダやマイルス、そういうポピュラーなジャズもかかりますが、もうちょっと硬いのもあります。

オーネット・コールマンとシューマンがつながると、いいですよね。音楽はこうして聞くもんだと言うように……ただ命がけの選曲という悲壮な感じも、たまにします。

デッキのリモコンを調達しました。安デッキのリモコンで、一応は出来たのですが、ちょっと操作できない部分もあって、それで買ってきたリモコンだと全部、操作できます。

古いカセットを止めてFMをかけて、そのFMの選曲が気に入らなくなると、またカセットをかける。両方を選んでおいて、あっちにこっちに行く開放感があります。

番組内に詩の朗読もあって、これも好きな理由です。インストの音楽に谷川俊太郎さんや吉野弘さんの言葉がフワリとかぶさって……谷川さんは知っていますか? 吉野さんはこんな詩をかかれる。

http://smile222.cool.ne.jp/f-sub1-7.html

ちょっと声に出して読んでみませんか。吉野さんの詩を夜中に読むとHかな? それとも誰かに聞かれると恥ずかしい? オーネット・コールマンやシューマンも違うように聞こえます。

DJは棚橋志乃さん。これも型破りというか、単にセクシーなだけなのか? 心地いいですね。棚下さん、芸名かな? 音では伝わり憎い苗字なので……違うかな。

アンナとかアリスとか、西洋コンプレックスの名前もそろそろ卒業したい。志乃って昔「忍ぶ川」って小説で有名になった名前でした。もう誰も思い出さない。モダンに聞こえます。

今度、子供が出来たらこんな名前にしたら? コーヒーのんでインストルメンタル・ジャーニーの旅に出るほか、何処にも行かない。行けてない。そろそろ今年も終わり……どこかカレンダーくれる所、探さなくては。

http://www.nhk.or.jp/fm-blog/200/18188.html

2009年11月13日 (金)

廃市生市

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熊本市の街の再編が進みます。ヤマダ電器がビルを立て直したのは、本や雑貨を入れての百貨店化のためでした。これに影響されてダイレックスが結局、電気機器の扱いを止めてしまう。

因果関係の特定はできません。しかしダイレックスは、店の入口付近に酒類品数を増やし、その奥に加工食品を入れます。店外に生鮮部の八百屋さんもある訳です。実質が食品スーパーその物と化している。

街は変わっています。ひとつの店の変化は、実は関連して別な変化につながって行きます。街は生きている。生きているとは変わる事と、思います。しかし年を取るとそれが大変。若い人はもっともっと早いテンポで変化したがる。

郊外店の変化がそうです。ヤマダの百貨店化をどう意味づけるか? どう読むか? 熊本市の場合、鶴屋が代表的な百貨店です。しかし身障者には使い易くはない。なぜなら……

サプリを求めようとすると薬屋ブースからファンケルのブースへ、端から端へと歩かなければならない。鶴屋だけでなく、実は都心の繁華街全体が基本的に、そういう構造になっています。都心は変われなくて今に至る。

その都心、繁華街に私たちは着替えして行かなければならない。ジャージーでヒゲをのばしたまま出て行くに、はばかられる所がある。そこが車椅子で行くにも敷居が高い。

こう書くと車椅子は伸ばしたヒゲのような物か? 差別的な表現と言われ言葉狩りに合いそうですが……ま、そういう面はある。マイラの高級車椅子といえども、伸びたヒゲに過ぎません。

ヤマダの新しさは郊外に、ジャージーでもOKな百貨店を作ったと思われます。従って車椅子身障者も気楽にいける側面が出てきます。身障者は、なりふり構わない生き方を余儀なくされている。

ヤマダやダイレックスの営業方針の変化からも、身障者の素顔が読み取れます。スーツ着て帽子でもかぶって、繁華街の端から端まで歩くような身障者でありたい。私もそう思う時はあるにはあるのですが……

あるのですが、もう変えてくれるな。昔のままでいいという考えは、慣れ親しんだ街を考えになります。明日はどうともなれ、それでは結局、死んでいく人の理屈なのかもしれません。

2009年11月12日 (木)

裏号外

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聞くところでは号外が出たという話です。号外の新聞は裏表になって、表が市橋容疑者、裏は森繁さんということです。直接は見ていないので逆かもしれません。どっちでもいいのですが、あんな小悪党と裏表で森繁さんは成仏できるやら……

市橋容疑者には女装の趣味、いえ、この場合は趣味と言ったものではなく、切羽詰った逮捕を逃れる唯一の方法でした。180cmの大男は、どう女装しても女に見えるはずもなく、ギャグとしか写りません。

出来の悪いギャグには批判的な森繁さんですから、面白いコメントを入れるかも知れません。

「顔をいじるより、君はネエ、足を20cmばかり削らないと効果はないネエ」

森繁さんが三途の河の渡しを待つ頃に、市橋容疑者は沖縄に渡るフェリーを待ったそうです。二人は船を待っていた。

いっその事、同じ船に乗せて上げたい気もします。そう思いませんか? 市橋容疑者はひとりを殺しているらしいので死刑になりません。死ぬ事が地獄であり、生きるが楽と考えるのなら……死ななかった市橋容疑者が惜しいような、考えになります。

いえ裏おもて、生きるのが地獄、死ねれば極楽と言う考えもあります。追いつめられて疲労困憊したらしい容疑者の、車内写真が出ています。生きてさえいれば人生かといえば、それも単純に言えない気がしてくる、そんな写真です。

実は私は、森繁さんが生きておられたと知りませんでした。TVで見かけなくなって長くなるので、もうおられない思っていた訳です……それもまあ、芸能人としての死を意味します。昔の社長シリーズを見たくなります。

すっかり見かけない。死んででもいるのだろうト、意識の端に追いやられる。それもまあ、身障者的な存在でしょう。存在の希薄化は差別ではありませんが、差別につながるひとつの原因です。

「そういえばアノ人はどうしているの?」なんて失礼な話ですが、時々あります。

「そうそう、あの人、何て言ったっけ……ほらアレ!」

「いやあ、私も出て来ないよ。名前が確かにあって!」そりゃ、ありますよ。

「前から影は薄かったからネエ……出ないなあ。あの人、体に障害があったネ」

「ああ、それで出ないんだ」

おい、あんたの記憶が悪いの。私の障害とは関係ないダロ。いい加減にしてくれ……そんな事まで私の足に責任、負わせるんじゃない。実害はありませんが立派な差別です。人には人権があって、百才近くなっても百才を越えても、ああそれでトいう事はありません。

市橋容疑者は黙秘権を使うらしい。それも人権です。他にもハンスト、飯を食わないという話です。それも人権でいいのですが、ハンガーストライキではブログのオチはつきません……やせ細って……やせ細って留置の格子を抜ける気でしょう。

はい本日も、お後がよろしいようで。

2009年11月11日 (水)

自動車のダンディズム

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健常者とはちがう。身障者には何事にも状況差があります。車椅子身障者の車は、基本がホンダ車でした。これは一頃、ホンダが身障者の車クラブを作って、身障者に車を勧めた所に由来します。その後、クラブは自立し、ホンダは関係を引くわけです。

それでも発端からの縁は取れず、熊本の身障者はホンダに乗る率が高い。私にもクラブ勧誘はあった訳ですが、私はどちらかというと所属、縁故は作らない。広い選択肢から情報を読む。思いきリ、よく言うとそうなります。

別にホンダが悪いのではなく、むしろよい訳です。自分に合った車を選ぼうとすると、色のついたクラブからは距離を持った方がいい。日本の車はトヨタであって、まずトヨタの車種から、それからそのライバル車も検討すると早道です。

で、検討すると、私はどうも平均的な車よりはアクの強いのが好きという傾向があります。スンナリとトヨタを選べた試しがない……そうなると私の理屈は合わない。ここで裏を取りましょう。全メーカーを乗ったと豪語するタクシー運転手に聞きに行きます。

――トヨタの車はそれほど優秀なのか?

「確かに昔はそうだったが今は……」と豪語の友人は首を振ります。

――実は、3流メーカー車を買おうと思うのだが?

「性能は同じ……いや車種によっては3流の方が上……なのに値段は確実に安いよね(笑)俺のも、そうだもん」

結局、まあ好きずきなのであります。メーカーへの信仰心が揺らぐと、担当セールスへの信仰が向かいます。あの人は信頼できる、この人は嫌い。一種の差別につながる問題なのですが、平気で言われる方があります。

車は人の差別感をにょじつに表しますナ。同一車の高いグレードにこだわる人の感性は、あまり穏やかではない。外車にこだわる人は、つまり外人好き……ある未婚男は、その筋の相談所で女性担当にいわれたそうです。

「まだ国産車に乗ってるんですか? 中古でもいいから外車になさい」

昔、「動く標的」という映画で私立探偵を描写します。主人公が立派なスポーツカーで出て行く。オンボロ探偵のくせに車だけはいい……そう思わせるのは運転席の側からの映像、助手席側から切り返すとドアが丸ごと別な色。はは~ん、事故車を中古で買ったな。そういうギャグのオチです。

どんなスーツより靴よりも、車は見られます。差別というほどではないにしろ担当女性の言葉は本当かもしれません。ああ、それで私は独身なのか! ここで納得してはいけません。そういう差別的な見方をはね返して、自己を貫くのが身障者のハードボイルドです。

権威に組せず他人を頼らず、何を聞いても、どの意見にも偏らず……自立とはそういう事を意味します。自分の自立に車を役立てたいのであって、誰かを差別したいのではない。差別といえない最初のきっかけにさえ触りたくない。身障者には、そういった状況差があります。

私がホンダの息のかかったクラブに入らない理由です。マツダかスズキなら……まあ、それくらいでは差別はなくなりませんがね。それでもポルシェに乗ると、自分が正しいト思える感覚は、感覚だけなら判らないではない。

何が正しいか判らない。だから権威に頼り他人を頼む。それが差別の始まり、根です。虚妄ですがね。身障者という現実と、身動きもならない不自由の状況から行動を起こす事、それが容易ではないのです。

2009年11月10日 (火)

バッテリー不調

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朝からエンジンが起動しません。いったん車の起動を断念し、半ば観念してコーヒーを入れます。いえメンテナンスが切れる前の最終メンテで、バッテリ交換を勧められ、止せばいいのに横着を決めた……つまりメーカーメンテもまだ切れてはいない。

昨日はジム行かずゴロゴロして、その前には歩いて行くプールで済ませ、車を使っていない。危ないバッテリは危ないように扱う必要があります……つまり上がる暇がないように始終つかう事です。

自動車保険のサービスでは、自宅駐車場で対象になったりならなかったりします。私の場合は先年対象に変わったような気が……のんびりコーヒー呑んでる場合か? 場合なんです。バッテリは休ませてから再起動した方がかかりやすい。

自動車保険のその前に、カーショップに電話します。バッテリは高い所だと5000円、プラス手数料。三菱のメンテでは純正の小さな方のバッテリを言わないか? ショップが見つかりました。手数料込みで5000円のところを1割5分引き……このカーショップ、ちと遠いのがタマに傷。

今日この場合、あまり贅沢は言えません。昔はもっと近場のショップもあったのですが、不況のあおりで店じまい。トヨタだってプリウスをあれだけ売って赤字が解消せず、他の車に見るべき物がなかったのね。車の便利は虚妄なのかもしれません。

車は「乗ってこ」とかのシェアリングの時代に入っています。乗ってことはネットを使ったヒッチハイク、相乗りのシステムです。あるいは時間単位でのレンタル車の試みが始まっています。物を持つことが豊かだった時代が終わろうとします。

便利は不便、不便が便利……どんな新車も必ず古車になり、古い車は必ずトラブル。バッテリ上がりはその最初の兆候なのです。ケータイを忘れないように再度ガレージへ向かいます。

キーを一気にねじ込むと、かかりました。寄り道も都合もつけず、電話したカーショップに向います。止まったら必然的にメンテを呼ぶか、保険サービスを呼ぶか? そういう事態になります。自分の車なのにサスペンス映画のように感じられます。

赤信号の交差点で、向こう側にも三菱アイ。やっぱり最近、増えました。どこにでも有りがちな車ですもの。知ってますか? ウイッキペディアにも、この車の解説が、好意的に入っています。

純正で32B19Lを40B19Lの普通用にしました。55とか、大きいの付けている人もありますが、そうなると価格は10000円とか、上がります。検索で観ると言われるほどの効果はないらしい。自己満足の世界か? メーカーの規定は44まで。

この所、バッテリ全体が軽量化され、昔の規定サイズを超え、大きいのが付けられる。さて、32から40に交換した私のアイで効果は、ありました。エンジン音が低音化して小さく感じる。ウーウーという感じからオーオ-という感じに変わる。

ウーだのオーだのいうので話が通じるのか? 根本的が変わるものではなく、感覚的な問題です。当たり前か? 安く上げて好転するから文句はないでしょう。この程度の変化なら55サイズにしても仕方がないか?

(バッテリ交換 6、7、26に旧記載)

(バッテリー不調2 11,24に続編)

2009年11月 9日 (月)

加藤和彦さん

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いまさら言うのもどうかと思います。「帰って来たヨッパライ」って生死の歌です。自殺と特定は出来ないが、そうでない確証も実はない。死んでしまった酔いどれは、神さえ扱いかねた。そうだとすれば、それは何か?

その後も、悲しくてやりきれない。あの美しい愛をもう一度……私はスモールカフェをアルバムで聞きます。曲想は似ている。同じ気がします。79年の製作で、CDにはボーナストラックがついたそうです。私のレンタルダビングのカセットに、それはありません。

加藤和彦さんの作曲は基本的に憂うつで、何度も聞くと、端的にいうと死にたくなる。加藤さんの特に後に残った曲は大抵、そうなのです。パパ・ヘミングウェイというアルバムは、枯葉舞うパリ録音という感じに、シャレのめしたレコードです。

全体に詞が短く、編曲での演奏を聞かせる。インストの要素が強い訳です。いかにもやさ男という声、鼻に抜ける発声がけだるく。睡眠導入剤を呑まされるような脱力感がいい、いいです。「リデオジャネイロでサンバを踊ると言った……二人で世界を回る」

「カジノで朝まで過す……二人で世界を回る」(アラウンド・ザ・ワールド)

ここで詞を担当した安井かずみさんはガンに倒れ、二人は相談の上で治療拒否を決めます。そういった事柄が行間からにじみ出すような……ガンの発覚はずっと後で、この段階で何もないと思うのですが、まるで予見したような印象があります。

「夢を語り、夢は流れるパリ。夢を語り、夢は流れるパリ」 

一般に青春期は誰にも楽しく、輝きに満ちています。中年になって輝きが消えます。消えない人はまれで、老人になっても人生の輝きを維持できる人はいない……断言してもいいと思います。

ここで言われるパリとは、青春期の事を指し、その時間をいいます。それが秋から冬に向う。いわゆる中途障害者は若い時代に健常者だった記憶が残り、身障者としての、それ以降の記憶は呪わしくさえある訳です。基本的にアルバムと同じなのです。

私の場合、健常だったのは10才までで青春とは言えない。そうすると、こういう口調で話せる状況になります。若かりし頃が決定的な意味を持つというのは、それまでの輝きとその後の陰りのコントラストと思います。

乾いた木の葉が……はなみずきとかさくらの赤くなった葉が,蝶のように羽ばたきながら飛んでいく。彼方には死しかないような……もっともそういう感じは加藤和彦さんにだけ感じられた訳ではなく、誰もが程度もんで感じる事です。

ジャズのスタンダードが枯葉であるように、小さな喫茶店で枯葉のリクエストしてみますか。小さな喫茶店、in a スモールカフェ……

2009年11月 8日 (日)

ハードルはどこに?

Photo五行歌という詩があるそうです。

『地域の小学校に

通えない

そのハードルを

「障害」

と呼ぶのです』

三行でも四行でもいい気がしますが五行だそうです。まあ、俳句和歌の流れと思います。詩の内容は先日、奈良県下市町の谷口明花さんの入学拒否問題につながる問題があります。

明花さんの場合、小学校は普通小学校に行ってうまく行った。本人にとって学校や先生にとっても、同級生にとってもうまく行った。それで中学も普通にと思われた。

ところが中学校や教育委員会が反対した。理由は詳しく知りませんが、あるみたいですね。明花さんは車椅子身障者で身体的に出来ない事が多かった。出来ない事を楯に入学を断わったらしい。

一件は裁判になって裁判所の裁定は、出来ることを見るようにとの内容でした。確かに、それが前向きという事です。しかし一件を見ていた一般の視線にも、以下のような厳しいものもあります。

「もし自分の子供が同じ中学にいて、先生に手伝ってと言われた場合、関わらないようにしろと言いませんか?」その意味を聞く人がいます。

「事故になった場合、手伝った子も心に傷が残りそうで怖いですね」そういう意味で答える人もいます。

この問いにも答えにも、ひとつ矛盾があります。それは小学校でうまく行った事が、中学生になると何で出来ないか? 他にもまだ小さいからとか、体験がないからとか……理由はあるのですが、いろいろです。

やりたくない理由はあるもんです。身障児とは同級生になりたくない。同じクラスにもなりたくない、そういう子供、特に親はいるんです。でも小学校でうまく行ったら大体、うまく行きます。

身障児が傷つくことも健常児が傷つくことも、それはあります。当たり前です。子供の成長ってそういうもんです。いえ大人も、ある意味で傷つくことで成長しています。人間の成長、生きること自体にその側面があります。

この親は自分の子に成長するな、そう言うに等しいのです。同級生にとってうまくいく意味とは、詳しく書きません……そのハードルを「障害」と呼ぶのです……ト、五行詩の後半を引用して今日はおしまいにします。

2009年11月 7日 (土)

見えない世界をみる話

Marubuti 弱視の人の講演を聴きます。むろん名前も判っていますが、今回は書きません。私と同じ年頃に、小5の頃に発病したそうです。それから目は次第に悪くなって、一度もよくなる所がない。その詳しい話があったのですが……判りません。

障害はいくら詳しい話をしても伝わらない。たとえば「ブラックジャックによろしく」を見ると、研修医さえ病気の詳しい内容がつかめない。その様子が判ります……健常者同士といえども、親友と言えども、お互いの理解には限界があります。

講師は理解されない。症状を説明すれば判ってもらえる。そういう思い込みの気がします。自分では、お母さんと葛藤があったそうです。お話にはお父さんも、ご主人も登場しない。多分、葛藤以前の関係にある……そう了解します。

つまり健常者同士でもあまり深いところは判らない。それは障害者同士でも、まったくの同病でもそうなのです。まして障害者と健常者では、お話しにはならない場面が出る。深いところを理解されようと思ってはならない。

ニヒルでペシミスティックに聞こえますか? そうではなく理解する方向には、その限りではない。割と広くに対応が取れます。見える人には見えない世界が見えない。半ばを見るから、見える世界も見えない世界も見えてしまうのです。

つまり理解されようと思わず理解専門に回れば、解決はつくのです。独自の役割も開ける。見えない人も見える世界は、理解できないのではないでしょうか? 誰かが介入して通訳する必要もありましょう?

講師は理解が開けていない。まあ若いからでしょう。年を取れば無条件に開けるか? 茂木さんの講演では坂本龍馬を例にとって人間の可能性について言うわけです。脱藩すれば認識が開けるという。ただ脱藩は間違えれば死です。

いや龍馬も暗殺されている。それをどう捕えるか? 茂木さんも面白いことを言いました。ハイハイの赤ちゃんがなぜ伝い歩きをするか……伝い歩きは危険な行為で、コケて倒れて頭でも打ったら。打ち所が悪ければ致命的になるそうです。

伝い歩きに挑む時期は誰もが龍馬になる。もし危なそうだから自分はハイハイで一生を終わろうとしたら……ここは私が言ったのでなく茂木さんが言ったのですが、困るんですねえ。大変、困ることになります。

人は誰でも脱藩しなければならない。大人になる柔軟性のある青年期に、挑戦する時期は短いです。時期を逃すと柔軟性は消えてしまう……のかもしれない。茂木さんが話たかったのは龍馬ではなく、そういう脳の働く意味についてです。

若い障害者の講師は夢について話します。で、私は思う。夢を持つ時期や語る時期はいつまでなのか? 目標や希望の方向についてと言い替えるなら……同じなのか? 講師の話はなぜか子供が大人に説教しているような、奇妙な印象を受けます。

茂木さんも私より年下です。年齢にも内容にも幼い部分があります。私はそういうのは誰にも感じます。渡辺淳一さんは医師の免許はあられるが医師としては若いままなのです。あの方は色事の書き手としての作家です。それは自分で判っておられる。

若い講師は講演の中で、客に向かって理解する人になって欲しいといいます。だが自分で誰をどのように理解したかについて触れられない……疑問を感じます。なったこともない病気、見たこともない障害、身近にいない障害者を、健常者が一般に理解するのは無理でしょう。

家族、そういう友人があれば別です。講演内容に無理がある……健常者が出来るのは、たとえば社会のバリアフリを進める事です。健常者の理解、たとえば健常者の老後を理解するのは、むしろ身障者です……共存の意味をそう感じました。

2009年11月 6日 (金)

回るメディアと回れない世代

Cdr

シティFMという熊本市のラジオ局があります。小さな局でオジサンが素面でクダを巻いています。「音楽は回らないと落ちつかない」という。レコードかカセットか、CDだって窓の奥で最初は回っていたトいう。

オジサンたって私と同じ、もうオジイサン世代です。Lカセなんて30代や40代では知らないはずですし、今の世代にはまったく通じませんもん。音楽なんて聴けばいい。前に聞いたようでも今、聞けば別、別な音楽のように聞くから関係ありませんよね。

昔は大変でした。聞いた事のない音楽は、タイトル演奏者、メモを取りました。そうしないと2度と出会えない。演奏者はどんな人か? 何を参考に、その音楽が出来たか? そういう事にも関心を持ちました。

あまり古い事を言っても何ですが、尾崎豊さんには井上揚水さんとさだまさしさんの影響がある。どこの街とも知れん街にロケしたような歌詞の作り、あれは揚水さんです。被害者意識がモロなところはさださんでしょう。

身体も大きくてゴツいところのある尾崎さんが、なぜ繊細な感じになったのか? さださんの影響を言わないと説明がつかない。尾崎さんのファンにはかなりゴツい人もいて、あの繊細なところを尾崎さんに学んでます。

そういう風に考えると単に流行歌ではない。影響元の揚水さん、あの人は初期の頃は出たトコ勝負の歌詞ですが……後期になると歌詞が出て来なくなる。すると文学、たとえば賢治さんの詩から借りて来る。

これは私の推論ではなく、揚水さんが糸井重里さんに問い合わせた。糸井さんがそう言っています。「雨にも負けずの詩はどうだったっけ……」ト図書館にも本屋にも行かず、電話で間に合わせたらしい(笑)

まあねえ。井上揚水がサングラスかけて図書館に行ったら目立ちますよねえ……そういう意味で賢治と尾崎はつながります。尾崎の歌詞を見ていけば間接ながら、賢治の詩につながるのです。そういえば詞の作りも似てきます。

流行歌といえども漫然と聞き流すことなく、こだわって調べ上げていけば、とんでもない世界に行きつきます。昔のディスクジョッキーは、そういう情報を伝えました。レコードの歌詞カードには解説がついていて、勉強のきっかけになりました。

今はジャケットも歌詞カードもない。パソコンやケータイでデータだけを買います。それで回らない機器にかける、それではオジサンは、失礼、正確にはオジイサンは落ちつかない。なぜなら昔、音楽を聴くことは音楽を通して、もっともっと遠くへ行く事でした。

ipodやMP3で音楽を聴くとそこが違う。音楽をデータとして買うなら、ジャケット写真も付加情報もつかない。ジャケがなければ何がカッコいいか、どこから音楽が発想されたか? 詞の意味を考える事どころか、タイトルを深読みする事さえない。

すると音楽は聞く人の今は満たすが、明日を開く事少ないのではないか? もっとも今を満たすにも足りない空疎な演奏の方が多い。それが実際ですが……アナログだった頃、確かに音楽は私たちの意識を回していました。

店でレコードを注文すると無かったり、売り切れて廃盤になったり……とても不便でした。私たちオジイサンの世代はその不便を食い尽くして育ったのかもしれません。回らない音楽の便利さはどんな世代を育て、また育てないのか、注目したいと思います。