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2009年11月17日 (火)

2つのフラメンコ

Gitar_2 10月19日リポート。俵英三さんのフラメンコを、路上ライブで聞いて以来、フラメンコギターを聞きます。マニタス・デ・プラタさんは落ちついた感じですが、落ちつき過ぎた気がします。

マニタスは長塚京三さんがいいト言われた時に買いましたか? 昔のことです。何を買っていいか判らず、最初に聞いたフラメンコでした。次に聞いたのがパコ・デ・ルシアさんで、これならと複数の人から、いいと言われました。

これで聞いたら誰でも納得します。マニタスに比べ、かなりショーアップしています。演奏にメリハリがあって判り易い。判り易いというのはよく言えばですがネ。悪く言うと内容がない。演奏技術はあるが演奏家の心が、もうない。

ギターは歌を伴い、歌は手拍子とステップの足拍子へとつながる。その盛りあがりがフラメンコの特色ですが、なぜそうなるか? 何が変わるのか? 変わらないのか? その辺の必然性が見えません。

演歌がなぜ終わったか? なぜフォークがブームになったか? こういった問題はいつでも何にでもあります。なぜ音楽が心に添い、また添わなくなるのか。

いうまでもなくフラメンコはスペインの歌であり、ファドはポルトガルの歌なのです。しかし歌はどこか、日本の浪花節や寺のお経を連想させます。 ポピュラーやジャズと違う、身近な感触があります。

パコ、マニタスの2つのフラメンコギターから生まれた疑問を解いたのは、ジプシーキングスのCDです。ドラマ鬼平犯科帖に使われて以来、キングスは一気にフラメンコに市民権を与えます。

以後、男はドラマに酔い、女性はカルチャークラブに通いつめます。実はキングスというグループには一次のものと、二次のものがあります。私が買ったのは一次のもので、元は2枚のレコードといいます。

一次のキングスはヒットしませんでした。解散後に再度結成されたのが二次のキングス。この違いを簡単にいうと一次キングスはマニタスに共通する。二次キングスはパコに共通するものを持っています。

たとえば一次キングスの歌詞の中には、児童虐待を示す下りがあり、それをレコード会社は正しく訳してない……Pバラカン氏の話。

一次キングスの演奏の主体は自分たちの歌である訳です。

ショーアップの過程で営業の、観客サービスに主体を置きかえる。判り易いとはそういう意味です。歌に言葉があり言葉は心のつながりに由来して行く。判り易さと裏腹に失って行くものもあります。

少なくとも一次キングスの歌は貧しく、その貧しさを歌で晴らす意味がありました。観光旅行でスペインに行けば生のフラメンコを聞くことが出来ます。ショーアップされたフラメンコ、女性がカルチャークラブで踊るフラメンコはどこにもあります。

一方、今という時代に日本も、児童虐待の現実を抱えます。2つのフラメンコと書きましたが、実は音楽は2つではない。2つの間に様々にグラデーションして、私たちの間に広がっています。

心を澄ませば演者の声が聞こえる。言葉に技術が必要ないように、その意味で音楽も技術ではない……演奏が心を失っていなければ……路上のフラメンコから再出発した私のフラメンコ旅行に、終着駅が見えそうな気もします。

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