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2009年9月19日 (土)

鶴田一郎さんの顔

Turuta2 鶴田一郎さんがマチカラに、経歴と時々の絵の意味を語っています。

muchcolorマチカラというのはTSUTAYA蔦屋書店のフリー誌で、TSUTAYAに行けばあります。.鶴田さんはノエビア化粧品の時に、モデルは誰かというので、大きな話題になりました。

私の結論では、鶴田さん自身という事にしました。映像上部は私が写した、鶴田展でロビートーク中の一郎さんです。1979年の撮影になります。それから時間は過ぎます。下部は現在、マチカラの映像、30年後になります。

「私は私自身のミューズ(女神)を描きたいと思っている」鶴田さんは言っています。ノエビア後、今の鶴田さんは仏画も描かれるそうです。やはり神仏かト、私は思います。鶴田さんがどういう意味を込めての、神仏というかは知らないのですが……

難しく考えない方がいい。仏画は自画像の延長、ある意味ではノエビアの延長です。何か、どこかで仏を見ないと仏画は描けない。そういう物ではなく、大抵の人は描けてしまう。たとえば小さな……4才くらいの女の子は人形を描きます。

人形は広くとらえた神仏で、その子の神様です。男は最初は人物を描きません。自動車だったり建物だったり、あれは自動車や建物が神なのかもしれません。それはさておき、神仏の形をした対象は自分であって自分ではない。

女性と話をしていると、その人の外側と内側がくっきり分けて考えられるのに気づきます。そのように振舞うが、自分は決してそうではない。自分は違う有様で生きている……そういう主張が始まります。しばらく聞いていると、また違って聞こえます。

外側と内側は、もっとキチンと別れてしかるべきだ。という主張にも聞こえて来る……その人の主張であって、現実そういう訳にも行かないのですが……どちらにしろ女性は男が感じるより、外側の自分と内側の自分を、別れて感じるという。

絵は外側ですのでポーズとして笑っていれば、普通には客観的にも、にこやかさとして成立します。しかし外ではにこやかに、内は怒りに煮えくり返っている……そういう場合もあります。ベラスケスなど一部の画家は、相反する内外の表現に関心を持ちます。

今、阿修羅像が九州に来ていて、阿修羅の後側が関心を集めています。人は幾つもの感情を一時に持つもの……その表現として3つの頭に関心が向いているト思われます。男女は違った内面の発達をするのか? あるいは統一をするものか?

鶴田さんの表現には、幾つかの自分を感じます。それは阿修羅のように別れた複数の顔を、能面のように一つに押し込めて感じられる。鶴田さんは色っぽい絵を描いてるつもりなのに、癒されると声がかかる。戸惑いつつも嬉しいそうだ。

ノエビア美女から仏画へと移行した鶴田一郎の内面は、上下写真から読み取れますでしょうか?

●風のモナリザ http://hata1.blog.bbiq.jp/blog/2007/03/post-4076.html

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鶴田一郎さんの顔を参照しているブログ:

コメント

こんばんは
絵を描くのは、疲れます。とにかく集中しないと描けません。でも、何もかもを忘れて集中できるからこそ、私は今まで絵を描き続けているのだと思います。
女の人の絵を人に見せると、「モデルは誰だ?」と必ずといっていいほど聞かれます。モデルは、私の理想ですから、hataさんのおっしゃるとおり、私自身なのかもしれませんね。
いつかは仏画を描いて見たいなぁ。

おはようございます。
予定したより突っ込んだ表現になり、どうかな? トいう気もしないではない。まあ、本人が言ってる部分とも重なります。そうなりましょうか? 聞いてどうする。
そういえばト前に書いた文章と合せました。氏の仏画は多分、ないだろうと思い検索してません……ちょっと検索しましょう。それでは、また。

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