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2009年1月

2009年1月31日 (土)

経済、来年の今頃

Aso

日経ビジネスオンラインが会員制ではあるものの、フリーとは知らなかったので、全く読んでいませんでした。障害者集団スウェーデン・サムハルの記事が面白かったので、その後も日経ビジネスを読んでいます。

HATAさんのかけはしⅡ」http://hata001.blog41.fc2.com/

これで感じるのは、いわゆる新聞記事と経済状況の捉え方が違う。TVニュースも国内外で分けるから、内外では経済が違うように感ずるのですが、国内と国外でそれほど違うはずはないので、国外の不況が長引くと、国内不況も尾を引くことになる。

書くまでもない当たり前です。ところが実際のニュースの流れ方に格差があって、内外で別なことが起こっているような違和感がある。それはそうです。派遣切りや内定取消ニュースの後にグルメとダイエットが出て来る。

もっと今、与党のやりたい事は……給付金と消費税のアップ、

「差し当たり2万円あげるから後で沢山、返してね」

どういう意味か? ト聞くと、

「いいようにして上げるから任せて」言うようなもんです。これは矛盾する、消費者金融でないと言えないほど矛盾する。

さっぱり判らないではガリレオにもなれない。これからの経済どうなるのか……私はこんな解読をしました。日本の代表、トヨタの株、あります。今、3000円くらいです。

トヨタ株は2年前、8000円近かった。来年の今頃、幾らになるか。

日本経済は2年前、8000円くらいに評価されたのです。今は3000円くらいに評価されている。来年の今ごろ、私はもう少し下がると思います。2000円台ならいい方と思います。トヨタと日本経済をイコールで考えます。

その理由を言いますと、8000円の頃にトヨタが作った車はレクサスという高級車でした。3000円の今年、トヨタが発表した車はIQという軽自動車のような普通車です。価格もその位の差があると思われます。それがすべての象徴と思われる。

私は会社に車で行く時代は終わったと思います。お出かけや買い物は軽自動車でもないと困るのですが、通勤はバイクになるでしょう。現実もそうだし比喩としても……少なくとも、この何年かはネ。じゃあ、グルメやダイエットはどうなるのか? 世界に冠たる日本の文化は?

だって派遣が切られる状況は続くんです。食うや食わずでグルメもないでしょう。そう書いたようにトヨタ社員は今、障害者集団スウェーデン・サムハルに学んでいる。それを生かすノウハウが身について、日本社会に貢献できる時代は、少し先ではありませんか。

それでも悲観する事はないと思う。しばらく物は売れません。売れないと物の値段は下がります。TVとかパソコンとか車とか、どんどん安くなっています。売ってある物はコストダウンで貧相にはなるけど、大筋は似たような物です。

全額の三分の二から、やがて半額、待っていると下がって行きます。欲しかったけど買わなかった。買えなかった人はおめでとうございます。多分、待てば待つほど安くなります。韓国の不動産はすでに半額になったと聞きます。

そう多分、とりあえず半額になるのを待ちましょう。ならなかったらとか、半額を越えて下がったらとか、そういう事は私に聞かないで下さい。聞くんなら麻生さんに聞いて……

2009年1月30日 (金)

入力と出力

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インorアウトを入力と出力と考えて、そのまま書き出します。私の場合、まとまった原稿はデスクトップで定着します。少し前には95ノートを併用していて、最近これが面倒になっています。ワードのスタンバイまで時間がかかり、原稿完成まで手間取る。

着想から完成までのスピード、時間は上がっている。昔はこのノートで不自由はなく、のんびりブログも書いたのです。どうも忙しくなって、処理能力は上がったよう……好意的に言えば、いえボケはじめても、まだ自惚れは消えないか?

メモ、発想、アイデアの次元から完成まで……一気に行く事はまれで、最初のメモはどこかに書き止め、私の場合、メモの蓄積を待つのです。そうすると95でもXPでも結局、ノートは最初から最終まで、アイデアの度に何度も空けるのは面倒です。

ある段階から最終に向かうのはいいとして……最初を始める機械はケータイの方がいいか? これがどうも疑わしい。なぜなら野口悠紀雄さんが手帳派でケータイは使っていないらしい。勝間和代さんもカツマーといって女性信者が多いらしいが、ケータイ派ではなさそう。

勝間さんは「TVってヤツは」に出てきてノートと手帳と自転車が必帯という。持ってはいるのだろうけど、ケータイに言及がない。メモやアイデアに勝間さんも、手帳を使うらしい。ちょうどソコにauから連絡があって、会議録機能などが便利な新型機と買い換えないか? という。35千円くらいらしい。

専用録音機、会議録はもう少し安い。アイデアめもについてはケータイも裏技があり、私が思いつきます(笑)考えれば誰でも思いつき、技と言うほどの事はありません。超簡単、それはケータイから自宅の留守電に吹き込むのであります。

書店の店頭で立ち読みしながら、気になる3行をちょいとパクリます。同じところを3度読み……私のケータイは小さめで目立たないので……やっぱり怪しいか(笑)ページごと写真に撮る人もいるそうです。写メールは解像度が足りないので無理。

タイミングよくコメントに、こういうのが返って来ます。

「(前略)大事な用件だったら大変なのにね、、そういう時こそ携帯ですな。

使ってますか? 携帯。

知り合いに友達(知人)が一人もいない奴がいて、

自分で自分にメール出してたなあ……あれは悲しい」

悲しいか淋しいか、パクリ3行、独創メモ、泣くか笑うか、はたまた両方を一時に出来るか……まあ色々あります。障害の身体には自転車は無理です。車は使わない勝間さんのマネは出来ません。とりあえず95を止めて、98Winのノートを買って来ました。

電源その他、何もないという友達のノートパソコン。買った時は30000円だったとか。単なる98ノートが? 大袈裟で悪い冗談のように聞こえます。そういう時代もあったのです。そして、こういう時代もある。ノートは義理買い、ケータイはお断り。

95でも98でも同じだろうって? だったらカツマー式に手帳を買わないのか? 買いません。老い先頼みとするのは他人より自分、自由より自立を目指します。メモならレシートの裏側にだって書ける……どこに書き付けるかではなく、どんな価値に結びつけるか、ではないでしょうか。

(参考、勝間和代公式ブログ)

2009年1月29日 (木)

夏目房之介の講座~知の戯画化によるナンデモロジー~

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夏目房之介の講座~知の戯画化によるナンデモロジー~という本を例の店から買ってきました。こういう訳の判らない本は定価で買うのもバカバカしく。かといって気にはなり読まないでいるのも我慢ならず、とかくこの世は……違います。

房之介と言っても漱石さんには直に結びつきません。マンガの方でのご活躍だそうで、私はよくは知りません。ただ顔を見ると、なるほどそういう感じがあります……かなり失礼な事を書いております。本人もお祖父さんには傷ついたそうです。

子供の頃から漱石の事を言われるのが死ぬほど厭で、トラウマがあるそうです。遺族および家系は、それは気になるとは思います。私も、その方が通りがいいのでコウボリアンからの鞍替え、漱石ファンという事にしてあります(笑)

房之介さん、漱石に似るとまで言わないにしても奇妙な共通が……どうつながりがあるか言いますと、物事を視覚的に正確に捕らえ記憶が確かな点と思います。明治8年に元武士が売り出したアンパンをクリームパンと比較して論じる……お手並みは漱石ゆずり……漱石はそんなバカな比較はしませんが(笑)

明治にパンは最初、流行らなかった。メシの代わりにパンを食べる習慣がなく、定着しない。私はバゲットを食べますが普通は食パンが食べられます。食パンはフワフワで、フランスパンもフワフワのは、よく売っていますが、本物は固いのです。

それはどうでもいいが……明治にパンは最初、固かった。で、売れない。で、皮がフワフワの万十のようなアンパンをこしらえて、これが当たった。ちなみに漱石も食パンの耳を落として、短冊に2つに切って火鉢で炙って食べました。

それでアンパンは和洋折衷で、クリームパンは西洋化を進めた形と房之介さんはそういう。私はどっちでもいいような……奇妙な話を読む訳です。甘いという意味で、お菓子化している点は同じなんです。大差はない。

房之介さん、甘いの好きか思うと嫌い。先祖漱石に習って酒も飲めないらしい。好きでもない菓子パンを題材に講話するあたりが妙ですな。私はガス展で米粉パンを作った時に、アンパンとカレーパンを作りました。米粉のパンは2食分にしてまだ余り、クリームパンも当分は私は食いたくない。

パンはバゲットに限る。石のように固くて噛みしめるとイースト菌の匂いがする、パンが美味しいというのは元々はそういう事と思うのです。が、今も多くの人に受け入れられない……のではないか? 別にどうだっていい事であります(笑)

この手の本は読んだからドウという事はありません。今、流行の雑学という事になります。昨夜、司馬遼太郎を読む人に会いましたが、あれも少し古い雑学です。歴史を好きなように解釈するんです。この場合、アクセントを「歴史」に置かず、「好きなように」に置きます。

こういう本も間違うと、菓子パンがアクセントになってアンパンやクリームパンにコリまくり、読んだ人がでっぷり太ったりします。仕舞いには糖尿と血圧が高くなったり……くれぐれも、ご用心召されませ。

2009年1月28日 (水)

風と共に去りぬ~別れがたき人へ~終章

Kazetomo_2 自分は友達と同じでよい、そう思える人はいいでしょう。私が黄色い車を買った時、

「これは……」と友達が言いまして、私がなぜト聞くと、

「うしろ指さされる」という意味の事をいうのです。

――流行りそうな色で、流行りそうな形でしょ?

今でなく2006年の末か、翌年、初めの頃の話です。ま黄色の車はありましたが、黄色に近い黄緑は例がなく、今の流行りではなく近く流行りそうという選択を、私はしたのですが、友は評価しません。

いえ単純に友達は、単に派手という意味の反対かも知れません。私は派手な車に乗りたいのではなかった。今いえば、その選択は半分あたり、もう半分は当たりませんでした。多分ですが、もう数年すると全部あたるでしょうか?

「風と共に去りぬ」は小説で読み、映画でも見ましたが、あまり印象に残りません。書かれるのが南北戦争の前後で、直接に訴える所がないせいか……しかし、あれ好きな人は好きです。スカーレット、バトラー、アシュレー、メラニーと典型化も見事です。

知りませんが、多分、ミッチェルさんは実際にはアシュレータイプの男と結婚して、もしバトレータイプの男と結婚していたら……想像して書いたのでしょう。結局、多くの女性はメラニータイプで、恋人としてならバトラーに色気を示すのですが……

落ち着く所に落ち着いて、その後で、もしバトラーとト運命を想像する。夢のための夢であり、そこに自分を参加させる訳ではない。それは熱を出して寝ているはずの男が、雨の中、傘さして出てくるようなモノです。ご熱心のお里が知れます。

亡くなられた民主党の代議士さんに「風共」が好きと言われた方がありまして深作欣二監督に軽蔑されました。何だか判らないものに期待してみる。判らない男だから結婚して付き合って、ズタズタになってみる。生きるとは物語の続きを追うのではない。

とすると「こころ」には隠された意味があるのではないか? 現在の3部構成では「先生の遺書」が最後です。これが新聞発表では最初だったらしい。遺書の内容を補完する形で他の2部が書かれたとすると、先生の死後、あの奥さんはどうなるのでしょう。

Kの死後、先生とお嬢さんが結びついた。私と奥さんも、先生の死後に結びつくのではないか。そういえば生前の先生を心配する、奥さんと私は親密で、十分そういう風に読めます。それは花とアリスが、宮本君を奪い合った後、新たな関係を作り直すのに似ています。

私とは誰か、先生とは誰か、Kとは誰か……全部、漱石自身です。漱石の過去を代表するのが先生でありKです。明日を代表する部分が私です。奥さんも今はかってのお嬢さんではなく、先生と私の前に立っている一人の女性と解釈すべきでしょう。

現実のモデルもあれば、それはそれで面白い詮索ですが、表層ではないか。女性に香水を送っても本を贈ってもCD送っても、いいではないですか。香水は三四郎に出てくるヘリオトロープ、本は私が……だから、それは、どうでもいいのです。

内面を詮索するとは最初から、そういう事を指していないのです。今回シリーズは、ここまでとします。そういう訳で、私は風と共に……マーガッレト・ミチェル。

2009年1月27日 (火)

漱石「こころ」~別れがたい人へ~その2

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漱石の「こころ」は男女のやりとりがないので、女性からはつまらないと言われます。三四郎の方がまだましとの評判です。評判が一番いいのは虞美人草で、それは女性が主人公だからでしょう。あまり女性と漱石の噂はやらない方がいい気がします。

こころは男女の直接のやり取りはなく、男同士のやり取りに変えてある。私は十分な気がします。映画「花とアリス」では男女のやり取りもありますが、女性同士のやり取りも多い。女同士と言っても脚本を書いたのは、岩井監督、男ですがね。

男女のやり取りを、直接、書いてもらった方が工夫せずに直に応用できるからでは……実用書として使うと、ハーレクインロマンスも必ずしも実用書では、ないのか。まあハレロマが好きな人は「風と共に去りぬ」を読んでもらうしかないでしょう。

「こころ」の中の、私は友人に去られ、先生を見つけます。これは代用であって、幾つも違わない年上の同性を捕まえて先生と呼ぶのです。この導入部は「三四郎」も似ていて、三四郎は、看護婦と連立って目立つ女性、美禰子に目を奪われます。

これに先立ち、三四郎は列車で女に遠まわしにセックスを誘われ、小心に手が出せなかった体験があります。後悔まじりに異性を自覚した三四郎の内面は、二重の意味で美禰子に向かいます。同じように「こころ」の私は先生を追い、先生の中に入り込んで行くのです。

つまり見たいという気持ちには性欲が隠れる。アリスが宮本君を見かけてカメラを持ち出す行為は本来、男のもので、蒼井さんというより岩井監督の男を感じます。そして見られたい気持ちには、見られたくない気持ちで裏打ちされる。

その葛藤よりも何よりも人が人に魅かれる気持ちには、それほど性差が重要ではないのでは? 見られたい見られたくない葛藤が起きたら、それは見られる事でしか越えられません。葛藤が起きない前の時間に、もうもどる事は出来ません。

列車の女と看護婦と美禰子と、三人の女性を分け、分離する材料も力も、若い三四郎にはない。それを見分けろという要求に無理がある。しかし気がついた以上は越えなければならない。その力がない者が越えて行く、越えようする時と場所が……

同性愛の人が、こころを読んで漱石の同性愛の傾向を指摘したそうです。漱石はその育ちから、親を特定できなかった。別れがたい友人を、同性であれ異性であれ率直に、家に連れて帰れなかったのです。屈託した愛情はやがて同性愛に向かったかどうか?

たとえば女の子がスカートを短くして髪を染める。性が優先されたのです。その意味する先には、もう両親は視界に入らなくなる。親友といえども友は意味を失っていく……当たり前であり危険でもある。自立とは自由の自と、独立の立を合わせた言葉です。

すべての人が家を出て自分を模索しなければならない。会社を家の変わりに上司を両親の変わりに、自分の管理を頼む訳にもいかない。スカートを友達と同じ長さにしても、ヘアスタイルを同じにまとめても、やがて納得がいかなくなる。厳しく自己を問われる、そういう時代なのです。お父さんにもお母さんにも、それは判らない。

姜尚中さんが何を言ったのか。よく知りませんが……姜尚中さんはまだ読んでいないです。大体そういう事と予測するので、本屋に行っても買うの忘れるからです。え? 同級生と思って舐めてるんだろう、め、滅相もない(笑)続く

2009年1月26日 (月)

映画「花とアリス」~別れがたい人へ~その1

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映画の題が「花とアリス」でゾッとしません。 が、鈴木杏さん蒼井優さん他の豪華主演というので見ました。二人は親友で郭智博君をみそめる……聞いたような始まりで、つまり郭君は外人の友と連立っている。これ漱石の「こころ」の書き出しと同じです。

杏さんの演じる花は、親友の好きな男を取りに行く……といってもアリスは何の行動も起こしておらず、花の行動はそれほど罪の色を帯びません。しかし鈴木さんの猛然とした演技は……花の中の凶暴性を感じさせます。この映画は基本、コメディです。

コメディですが親友同士が殺意に至る場面も含み、所々シリアスに描出します。一人の男を二人が奪い合うに関しては、はや中年の域に達しており、コメディの表層は裂けます。裂けた物語をなおコメディにまとめたのは監督の手腕なのか、限界なのか?

その罪とも言えない罪、嘘で人を裏切るところから、罪は花の中に蓄積を始め、アリスも宮本君も見えなくなって行きます。姜尚中さんは最近、友情しか信じるものはないような主張があり、漱石のこころを取り上げるのですが、映画の花の行為を指すのか。

小学校で、いえ幼稚園でも何でもいいのですが、最初の友達が出来て、その子を家に連れて来る時の感じを覚えていますか。小学生が小学校が終われば、家と幼稚園の間の、寺の境内廃屋空き地そんな場所しか、別れがたい二人に行く所がない。

二人の場所は結局、家に帰るか、その友達の家に向かうしか選択枝がないのです。行き場所を失くした妙な気分を覚えていますか? その友達が熱をだして、いえ映画の中では宮本君が花の家に行きます。家には花のお母さんがいて下着姿で出て来ます。

ここで家には性の意味があって、花は薬を買いに自分の家を出ます。外には雨が降る。雨は花の動揺を意味し、死に至るほどの重大な事態を暗示します。雨の中、公園ではアリスがレインコートでバレーを踊っている……

この夢のようなシーンをつなぎ合わせると、夢は意味を失ってしまう。宮本君の熱は死の熱である為に、花の中に深い罪悪感を呼び覚ますのであって、その宮本君が傘をさして歩き出したら、花の罪悪感も失われてしまう。となると花は、ただ厚顔無恥になるのであって……

美しい夢は夢に過ぎず、朝起きて記憶を原稿用紙に書き連ねてみても、詩にも小説にもならない。夢の中で美しかった事は、用紙の中で汚らしい文字になって現実にもどる。性的な欲望を性欲というのですが、性欲そのモノは美しくはない。

花はつまり宮本君に恋ではなく性欲を自覚する。友達を家に連れて帰ることには、何か後ろめたい感覚があって、異性同姓に限らずためらわれます。別れられないほどの友達を作ることは、それ自体に父母への背信の意味があるのではないでしょうか。

鈴木さんと蒼井さんというのは、上手いのか単に美しいだけなのか判りませんが、とりあえず見せますねえ。脚本演出の岩井監督はここに自覚がないと思うなあ。岩井監督は漱石、読んでいるのかしらん(連続3回)

2009年1月12日 (月)

ブログ閲覧方法が変化します

■q-ringブログ全体がbbiqに移行します。若干の期間お休みとなる予定です。

■データ移行期間中(1月13日-1月25日)のブログ閲覧は
ブログのURLを直接ご入力いただき、ブログを閲覧できます。
入力アドレスは以下のとおりです。
「hataさんのかけはし」http://blog.q-ring.jp/hata1
更新は行えませんが期間中も読みたい方はURLを記録下さい。

■なお1月26日データ移行後の新アドレスも変化します
「hataさんのかけはし」http://hata1.blog.bbiq.jp/blog/ と、なる予定です。
ついでながら念のために、このURLも記録下さい。     以上、hataでした。

■私だけがブログ移動するのでなく、q−ringのサイトごとの移行です。q-ringとは九州電力が作ったサイトであります。九電はbbiqという電話会社を立ち上げ、子会社化していく訳で、ここのサイトもそれに合わせて専門bbiqへ移行するのです。

HATAさんの……

前から思っていたのですが、サイトがデータ消失したらどうなるのだろうト……個人ではむろんハード・ディスクのデータ消失したことはあります。あれはどうしようもなく諦めるしかありません。実をいうと、それでブログ始めた所もあります。

メモや考えた事をことごとくブログに出して置けば、忘れてもブログ検索をかければ一発で出てきます。安心です。人に知られてマズイような事は出せませんが、講演会を聞いたメモなどは出してしまってイイ訳です。

講演メモはむしろ人気があります。どういう人が見に来られるのか。相当な人が来られます。アクセス解析を逆にたどると講演者の知らない面など、知る事が出来ます。A4紙で封筒を作るという、引用先の作者に訪問を受けたりもします(笑)

A4封筒は更にひねって、4つ折りを入れる封筒とすると、少し余裕が出来ます。つまりA4を3つに折って入れる封筒を作るから無理がある。4つに折るとハガキくらいの大きさになる。この4つ折を入れる封筒なら完璧で出来ます。

11センチ×16センチの封筒です。サンゴー封筒をアレンジすると簡単に出来ましょう? アイデアに対抗してアイデアをひねる面白いし、勝っても負けても気持ちがいいのです。まあ特許の段となると面白いでは済まないのかも知れませんが……

ハンバーガーを作る記事で、OX、オックス・テールのカレーを作る話を出しました。狂牛病が怖いので私は食べなくなりましたが、OXテールは今も売っているようです。自分で食わない物の作り方は抵抗がありますが、豚の尻尾なら大丈夫でしょう(笑)

それで作るかどうかは別にして豚の尾も売ってはいます。私は豚の軟骨や豚足でのカレーならお勧め出来ます。あなた作れます? そういうのも、お教えしなければいけません。私なら簡単に出来ます。簡単にお教えも出来ます。その内、やりましょう。

こういった事は書く事で広がります。情報というのは力であります。秘密にして私だけが持っていても力ですが、オープンにして出してしまうと別な意味で力になります。たちまち4つ折封筒や豚足カレーに化けましたでしょう?

実はそういう話ではありませんで、最初に書いたようにサイトに不安を感じ、試しに2つ目のかけはしを作ってあります。データ喪失対策にはなりませんが、休載期間中にもし何かを発表したくなった時にと言う訳です。

ブログなんて物はいくらでもフリーで出来てしまう。いい時代です。記事は古いのが、ひとつしか入っていません。タイトルは、
「HATAさんのかけはし�」都合により大文字になりましたが、
http://hata001.blog41.fc2.com/ での仮営業になります。

2009年1月11日 (日)

月のつづき

あまりは知らない人と映画を観に行って、後で映画の話をします。上映中は話しません。上映中は一人と同じという説があります。言えますなあ。最近は終わっても何も話す事がない映画もあります。あれはスピルバーグ監督あたりからでしょう?

「ああ面白かった」
「面白かったです」それでもう、お仕舞いになります。
たとえばジェラシックパークですと、恐竜がやたら追っかけて来ます。本当の恐竜がいても、あんなには追わないト思うのですが、本当には居ませんから文句もいえない。

追っかけて来るから逃げるだけです。逃げるだけで終われば、隣席とも話す事はありません。そこは当たり前です。それでホッとするような、がっかりするような部分があります。他を必要としない自己完結といいます。

トリックとかSFとかCG、コンピュータ処理が発達して、あの手の映画が多くなった……(笑)ウソですよ。本当は前からあったのです、昔過ぎて覚えていない。こっそりお教えします。お岩さんとか、化け猫とかの怪談が構造的には同じです。

昔のお盆映画はほとんどスピルバーグさん式であります。天地茂さんなんてお化けとの共演がお上手です。
「出たな、お岩。斬られて刀の錆びになれ」なんてね。眉の間にシワを寄せると、お岩さんが座敷の隅にいるような気になる。

恐竜なんて実体がありません。ないものと心交わすことは出来ません。お化けとも心交わしておりません。
「怖かった」そういう他はありません。それで終わる。自己完結とは心が退化して働いていない所に問題があります。

前に月の話を書きました。私が言う月とは他人と、誰かと見た月という意味です。映画を観るように誰かと観る。ないしは観た映画の話をする。対象化というのですが、それがないと観た意味は薄れます。

自分の見方と他人の見方を照らし合わせ、その違いを吟味する。それが心の営みというモンでしょう。たとえば昔の松竹映画で、
「あら月がきれい」と女性が言ったら、単に月が見える意味ではありません。相手方に話しかけている訳です。

大体、相手方は男です。父親や自分の子供にそんな事はいいません。多くを知らない男が傍にいて話しかけている。
「あなたの傍にいて気持ちがいいわ」くらいの言外の意味があります。

「ああ、良い月ですね」と男が返すとします。何かの意味で悪い月というのはありません。これにも言外の意味があります。
「私もあなたの傍でよかった。この、ご縁を発展させたいものです」そういう感じでしょう。自分の内側と外側とで対話が進んでいます。

心が活動し発展する、そこに意味があります。別に気が向かないなら止めてもいいのです。何でもかんでもスピルバーグ式、ホラーとコンピュータ画面ばかりでは発展が望めません。驚くだけでは心の働きとして足りません。

他人と対面して心が働かないとどうなるか……またにしましょうか?

●画面は、心を働かせる遊びと思われます。こういう遊びはしません。流行りません。

2009年1月10日 (土)

唐さんの事なら

唐さんの事なら用意があります。団塊の世代で唐十郎も寺山修二も鈴木忠志も知らなければ、それはモグリというもので、別に演劇にかぶれてなくとも、赤テント黒テントは知っていたのです。年末の深夜映画で「シアトリカル」というドキュメンタリがあって……

演劇的という意味の映画、いうなれば「行商人ネモ」のメイキングオフです。それを観て書いておこうという気になりました。昔、アンダーグラウンドを略してアングラと言ったのですが、新派新劇に対してのアングラ芝居の代表が唐さんでした。

さらに新劇が規制の台本を使ったに対し、唐さんは台本を自分で書くわけです。私が観たのは「風の又三郎」73年くらいと、もう一本は「ユニコン物語」か、定かでありません。唐さんは貧乏体験があって今もノートに小さな文字の横書きで書くそうです。

作家は下書きをせず、データマンと言われる調査を使うのが普通です。そんな事の出来ない弱小で、誰とは言いませんがネットで検索をする人もありますです。唐さんは長崎の島を「西南端だよな」と聞きます。周囲に唐組のスタッフや俳優がいて、聞く訳です。

ネモがいた長崎、それを日本、最南端と修飾したい。こだわりは偏執的です。悪く言っているのではありません。それが面白さに変化していく……唐さんは舞台を踊るように動き、歌うように話す。そのセリフと動きは内に内にと向かっていく。

まあ役者に夢中になるのは女性の特権、私は男、それと判るだけで夢中にはなれません。唐さんは小山の大将、山がなければ輝けない。たとえば商売道具の赤テントが古くなって、痛んだ時も自分では工面できなかった。

察して赤塚不二夫さんが750万円出したそうです。ホントは気が小さいと思います。公演前に客の行列を見に来る。誰かと連れ立って何処かに行く素振りで、客種を見て覚悟を決めるらしい。夜叉奇想だったか熊本が初演でした。

客を見ても覚悟が決まらなかった。時間になってもテントが開かない。私は係に聞きました。係は、
「座長がゴネてるらしいの。女の割合が多すぎる。俺の芝居は娘っ子に見せるもんじゃねえ……って!」私が大げさに肩を落とすと係は声を出さずに笑いました。

映画の中でスタッフが不用意に唐さんに聞きます。
「役者って何だって……俺は出てくる」唐さんは突然、出かけます。カメラはそれを追います。洗濯機のある部屋、組の水周りある部屋の奥に、唐さんは入って行ってシャワーを出す。

服のままシャワーを浴びる、唐さんの姿をカメラが追う。
「これが役者だ」濡れた顔でいう唐さん。部屋から唐組のメンバーが追ってきて、唐さん唐さんと口々に声をかけます。
「おい、お前たちも浴びろ」
メンバーは服を脱いで、シャワーするんですがネ。つまり唐組の中では唐さん絶対な訳です。

唐さんの一挙手一投足を支える形で演劇が成立します。熊本に来た時も子飼橋のあたりでテントを張りました。夕暮れの頃にテントを跳ね上げ、白川の風景を芝居に取り込みます。向こう岸から三下役の俳優さんが走って来るのです。

ド肝を抜かれて客は拍手をします。そのジャブジャブという白川の水音が凄まじく記憶に残っています。芝居のタイトルは消えましたけどね。偏執的はいいとしても、あまりに回りにツケを回すのは、どんなものかと思います。あれ以来、私は唐さんの芝居を見ていません。

行商人ネモ BS2 9月1日(土) 午前0:05〜2:05(31日深夜)
長崎県の生月島にある紳士服店「フタタビ」に勤めていたネモは、ジュール・ヴェルヌの書いた小説「海底二万里」をこよなく愛する男。ある日「フタタビ」は大手のスーツ屋に買収されてしまいます。会社とその仕事に誇りを持った人々も去り、ネモも退職金代わりにズボン75体を持って生月島を後にするのです。75体のズボンと共に旅に出たネモは流しの縫いっ子・松浦ミシンと東京・何処横丁で再会します。ミシンは発注ミスをしてきわどい償いを迫られる友人の身代わりを申し出てこの横丁にやってきたのでした。一方ネモは、かつて勤めていた会社「フタタビ」の宣伝部のボードビリアン・舌巻や会社に出入りしていたハンガー業者のエリマキトカゲらと巡り会います。75体のズボンを行商し続けるネモとミシンの前に「フタタビ」の買収元であるエリツキ達が現れ、そのズボンを売らすまいと立ちはだかるのでした。
(井の頭公園内 木もれ日原っぱ・2007年)作・演出:唐十郎
出演:唐十郎、十貫寺梅軒、鳥山昌克、久保井研、辻孝彦、稲荷卓央、藤井由紀、赤松由美、丸山厚人、多田亜由美、高木宏 ほか