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2008年7月

2008年7月31日 (木)

陰日向に咲く 劇団ひとり

劇団ひとりさんの「陰日向に咲く」を読んでいます。短編小説集の最初の1編が「道草」という。仕事に忙しい社員で、なかなか自分を持てない。若い主人公は自由にあこがれ、ホームレスに扮装してしばしのホームレスになってしまう。

道草は簡単にいうとそんな話になります。作りが似ているのでは安部公房さんの箱男、もっとなじみのある話はリア王……ただリアを読んでホームレスを想像する人はいなくて、言われて初めて気がつく人さえあります。

三女コーデリアの気持ちをもっとくんでいたらト、家庭悲劇として見る女性も多く。高齢者の心の衰え、人間の、特に男の宿命と理解するには説明が足りません。人間そのものの持つ不条理というと、これまた何割の理解のある事やら。嵐の夜に部屋もなくさまようとなれば、これはホームレスでしょうに……

箱男も、人間の自由を求めて家を出るのですから、まあホームレスでしょう。これに対し、なかば趣味のホームレスでは……まあ、成り立たない訳ではない。私なら、いつも仕事に追われるサラリーマンがある夜の帰り道で、一個の石になった。

街灯に照らされる歩道でこぶし大の石になった。そんな話にします……それだと昔は不条理劇が出来たのです。タイトルの道草とも、かなりの線で重なりましょう? でも私はそこまでしか、理解が出来ません。確かにここに出て来るホームレスは日本的に物持ちです。

日本のホームレスは実際にもそうと聞いています。多分、石にはなれない。別に石にならないと認めない、そういう事を言っている訳ではありません。面白いと聞いて買ったのに、面白くないのはなぜか。もう少し追求をします。

コンビニ弁当が展開のキーワードになるあたり、リアリティにつながるような、つながらないような……すぐそばに人が居るのに孤立している。孤立の原因は思われたい自分です。ああ思われたい、そう思われたくない。

「ああ」と「そう」の間にグラデーションというか、どうにもならない距離があって悲劇になったり喜劇になったりします。他人から見れば、それはどうでもいい事です。それが全存在をかけたプライドにも絡んでいくのです。

ホームレスという言葉の前に、昔、人間蒸発がありました。家族や友人、知り合いから自分を隠し、知らない別の町で違う行き方をしてみる。その時代にはパチンコ屋の店員になるのが一般でした。自分を抹殺寸前まで追い詰めるのです。

道草のサラリーマンより……たとえばDVに会った家を出て友達の部屋を泊まり歩く少女の方に、私は共感を覚えます。劇団ひとりさんの屈託した芸人の心情というか、反映なのでしょうが、私の身障者の心情より深いとは思えません。

それでオチも笑えない。筆者は若いしなあ、うーん、どうなんだろ。身障者の場合は、蒸発もホームレスも自殺も、難しいでしょうねえ。当たり前ですが、それぞれ障害があるでしょう……ああ所謂、お笑いの笑いがスンナリ笑えないのには、それは私だけか? 多分、障害の現実を感じるからです。

食ってる米の値段を比較してみても正しくは出て来ないけれど、格差はある。私はこのブログで格差がないと主張しているのではない……そう思います。そうか、見えない格差をまざまざと見せ付ける文章が、必要なのか?

2008年7月29日 (火)

受講ノートその後

前に書いた「受講ノート」を最近、皆さんに読んでいただいているようです。田口教授の講義を受けた後、感想を交えて書いたもので、どこを面白がってもらえているのかは、判りません。別に読んでもらって苦情ではありません。ありがとうございます。
○2006年6月12日「受講ノート」まだの方はブログ内検索で。

エンデさんのモモや夕鶴には社会主義的な理想郷があり、村上春樹さんの小説には、その影響がない気がする。まあ、そういった感じを書いています。最近は小説「蟹工船」が見なおされ、若い人が共産党員になるなどの風潮があり、その絡みとも思います。

社会、共産主義的な理想郷というのは、皆が平等であれば社会全体に幸福が訪れるという考えです。たとえば皆のサイフに10万円づつ入れたとしますと、使い方は様々になります。ヘタに使う人、上手に使う人、器用に使う人、不器用に使う人……そして格差が生まれます。

サイフの中が同じならイケ面の男の方がいいという女性もありましょうし、せっかくなら金離れのいい男がいい女性もありましょう。手の指の長い男がいい人もありましょうし、身障者ではない方がいいという人もありましょう。いやいや、10万円づつ皆同じに分ける係の、その男がよい。そういう人もありましょう。

私が言いたいのは皆を同じにしようと思っても、結局、同じにはならない。女性にモテたいという願いは、共通する男の思いではありますが同じになった試しはありません。どの国に行っても、どの時代でもモテる男は10人に1人で、だいたい同じ人に限られます。

女性も大体、そういう結果になっている。それはいくらサイフの中から揃えようとしても幸福感では揃わない。詳しく調べる訳にもいきませんが、おおよそは見えています。社会主義になると身障者がモテるようになる、そんな事はありません。それはそれ、これはこれという事です。

一方、女性の間にはセレブ志向があって最近それが、どうやら破綻したらしい。ジワジワと貧乏が押し寄せて来る感じが、一種の絶望感となっているのでしょうか? どう頑張ってもセレブといえる状況にならない。その感じは決定的になっているのでしょうか?

男のセレブ志向はないか? ない事もありません。メイド喫茶が証明したようにメイドが欲しい男はあるようです。メイド喫茶の女性版もあるようです。女性専用喫茶店でありまして、メイドの店員が女性の客を迎える。
「お帰りなさいませ、お姫さま」というそうです。

お姫様喫茶というそうで、女性は気持ちがよくなる。どちらにしろ自分を全的に受け入れて欲しい、その願望を達成したい。私?……私はそういうのは別にありません。私の部分を受け入れられる……気持ちがよくな、な、そう表現するとおかしな意味になります。

意見の一部でも受け入れて頂ければ幸せと、そういう感じです。今なお、この問題は解決がないのです。昔のブログを読んで頂いて幸せと、そう言いたかっただけです。

2008年7月28日 (月)

多細胞と性は?

頭のよくない事を単細胞といいますが、細胞分裂しても命の数が増えない。多細胞生物が生まれたことは、今も謎だそうです。もともとは二つに分かれた細胞は全部、ふたつの命に別れた。別れてなお、ひとつという事はありえなかった訳です。

もともとをいうなら好きと嫌いも別の感情でした。好きな物と嫌いな物がふたつ重なり合う事はなかった。子供は今もそうです。好き嫌いが同じ事から生まれるなど、理解できません。まあそれがやがて、よくある事と理解されます。大人になればネ。

二つに分かれた細胞が四つに別れ、それでも別にはならず一つの単位である。ミドリムシとかアメーバーとか、そういう次元の話です。やがて多細胞生物に発達していく。あるいは複数の生物による生命体とか作ります。

女性が男親を嫌いになったり、男の子が女親を嫌いになったりします。子供も思春期の始まり、異性との出会いを準備する訳です。
「アタシ、大きくなったらお父さんと結婚する」なんて事を言い出します。もっとも男の子はあまり、そう言いませんが……

昔、私は「同級生2」というパソコンゲームをやりました。ゲームの中で、母は継母であり、血の繋がらない妹がいます。実の父は海外にあり、設定だけでゲームには登場しません。妙な設定と馴染めませんでした。

聞く所によれば、その設定はよくある設定で、端的にいえばHゲームは全部そうだという。近親相姦の決め付けはどうかとしても、ゲームの進行に母や妹との関係は重要な意味が持たされる。なにしろHゲームな訳ですから……

細胞分裂に伴い、やがて性の作業が取り込まれたりします。生存を複雑な展開で行うのです。寄生生物、共生生物、寄生や共生を試みるようになります。同じ生物でも雌に寄生する雄というか、雄を支配する雌とかが出てきます。

一緒にするのはどうかとは思いますが。熊本市でも市制だよりに出ています。今月の市制だよりにはDVの講座の知らせがありました。九州はドメスティック・バイオレンス、DVが多い所です。よくよく気をつけないといけません。DVとは暴力による支配です。

暴力によらなければいいのか? 了解が取れればと思います。男女のことはある意味支配、別な意味被支配、両方のバランスが取れて了解が済めばいい……一般論としては、むしろ女性が強いのです。尻に敷かれると言いますが、ね。一人者はよく判りません。

多様な行き方を試みるという意味で、アメーバもDVも同じ事になります。言っておきますが私は多細胞生物を肯定し、DVを否定します。論理的ではないかも知れません。が、いいんです。嫌いは好き、好きは嫌い、いいは悪いの始まり、悪いはいいの始まり……そして多細胞とは性の始まりにも近いと、私は思います。

2008年7月27日 (日)

「知の現在」立花隆

本を読んだ後で私は考えます。立花隆といえば昔、TV講座がなかったか? 教育TVに人間大学という番組があって、その時、立花さんは講師になりました。あのVTRは残っていないか? おお、ありました。96年7月から9月「知の現在」です。

知の現在も当時は面白くありません。見始めたので習慣で見たのですが楽しくはなかった。ちょっとかけてみましょう……その理由がすぐ判ります。立花さんはトークが上手くない。「あの、アノ、アノ、その」と感頭詞ばかりが行列する、悪い講義の見本であります。

おまけに字が汚い。投影機を使って映像を見せます。キーワードもひとつ、ひとつプレートに書いて行きます。云っただけでは同音異語と間違う場合があり、書くのは重要ですが普通、予測される単語を書いて置いてもらいます。それ自分で書くのです。

もう一つ、気がついたのは立花さんレジメを使わない……これにはどういう意味があるか。判りますか? 私の場合ですが発表会では精密なメモというか、進行表を作って、どこからここまでは3分、ここからそこまで2分と刻んでおいて、カード式に一枚づつ仕上げ、全体で10分15分の話を組み立てます。

立花さん、それをほぼ全部、頭の中に作っています。私と頭の精度、構造が違うと思われます。その変わり、私は「あのう」も「その」も一言もなく、立板に水を流すように10分なり20分間を流す訳です。これは自慢しているのでなく、そうしないと私、心配なのです。

正直言うと間が持たない。沈黙が怖い、あの、その云っていられないのです。落語にも、この形式がありまして、立川談志さんの落語はそうです。志ん生風の語り聞かせ、間を聞かせるのは難しい。間ですから何もない。聞き手に自分だけで想像させる。

志ん生は私出来ません。次々と言葉をくりだして止めない。相手が聞き切れない早口で言葉を耳にあふれさす……自信のない技といえないでしょうか。あのう、の、うの音が消えてもまだ、聞く人が聞いている。お茶かなんか一口飲んでも、まだ聞いている。

聞いていると思う。立花式って自信じゃありませんか……まあ、そういう事を考えながらVTR聞く訳です。落語はそういうのが名人なのですが、これは講義になります。立花さんの講義は、その辺を考えながら聞くと面白いですねえ。

洗練された話術がなくとも講義は出来る。立花さんは講義をしたくて勉強した訳ではない。字が汚くとても板書は出来る。習字を習いに講義を受ける訳ではない……板書は慣れればキレイになります。話術も放送局かなんかの講座を受ければいい。

本当に大事な事は……勉強家の立花さんでも板書や話術は勉強していないという現実。この現実が意味することとは……「知の現在」全12回を聞いたら、また何か書くかもしれません。面白そうだもん、私は全部見ますよ。あなたも見たいですか? ダメ見せません!

2008年7月26日 (土)

コーヒーメーカー

部屋に友人がコーヒーメーカーを持ち込みます。押入れの奥から出てきたそうです。私はもっぱらドリップ専門でコーヒーメーカーは使った事がないので、そう言います。すると、
「まあ、いいだろう」と友人の返事です。
「まあ」とは使い方が判らないの意味か? ネット検索すればいいのに。

取説が見当たらないので聞きます。友人も、それがないと言います。やはりト私は思います。メーカーに水だけ入れて慣らし運転を始めます。コーヒー粉はまだ入れません。メーカーは動き出し、ろ紙に湯をかけます。

「コーヒーは入れないの?」
――まだあと、これは慣らし運転だから……
湯が出来あがったら、また水を入れて慣らし運転を続けます。湯の匂いをかいで、私はやはりと呟きます。

友人は私のマネをして、何か匂うか確かめます。
――匂う?
「いや、判らん」
――これはいつ頃の器械? 古くない?
「古い。10年くらい前の」

――そういう物を持ち込まんでくれ。
「使った事がないから、いいだろう」
――正しくは15年前。今のはメイドインなんとかで全部、外国製だが、これはジャパン。国産!
「あ、そう。じゃあ安心だ」

そうこうする内に2回目の水が湯になり、新しく涌水をいれてコーヒーを設定します。
――安心して古臭いプラスチックの匂いのするコーヒーを飲んでくれ。
「臭いの?」
――多分ね。コーヒーは匂いに敏感で、紙フィルターは紙臭いという人もいるのです。

「フーン、オレは判らん」
――みたいだな。こちらもその線で作っている。
「オレの分を先に作るとか?」
「それも考えたが湯の沸き具合から見て、1人分だけ立てるのは無理。おそらく3人分くらい立てないと、まともなのは立たない」

そうネットにも書いてあります。メーカーは大雑把です。湯をドパドパかけます。このペースを落としたいのですが調節は出来ません。多分、大味になります。温度計で湯の温度まで調節するドリップと違います。心をかける、心がける。

藤岡弘さんが「おいしくなれ」と呪文をかけるようにはいかない。みんな忙しいから、誰の手も取らずに作ってくれるコーヒーメーカーとは、まあ手抜きコーヒーです。手を抜けるだけ抜いておいて、味だけ同じにはならない。判り切った話です。

私の最新テクニック、赤ちゃんの手袋ドリップを作って、メーカーの味と比較します。
「う〜ん!」
――持って帰れよな。そんな器械。
「いや、君にやるよ。ウチには同じの、カミさんがもう一つ持っているんだ」ジャン、ジャン

2008年7月25日 (金)

そして明日が……

嫌なことがあった時はどうしようもない。それも一つではなく二つ重なった場合は、ダメージが大きいです。地震で被害があった訳ではありませんが、私の場合こんな日は、障害がらみの思い出したくない事が、色々と脈絡もなく蘇ります。

ただ嫌な事という他に何の関係もありません。関係者には悪いけれどお祭りの予告を書かせてもらいます。そういう事でも書かないと何も書きたくない気分になりそう。あしからず、私としては、これは対処法のひとつです。

熊本市でジャズフェスです。これは何十年も前の話でなく、数日先の話です。去年もちょっと試みはあって、それが盛会で、今年は本格的にプログラム化されたジャズフェスです。というか広範囲に7ヶ所の路上パフォーマンスをされます。従って基本、無料。

このサイトでは告示の欄があるのですが、昨日、入らなかった。いえ私が出来なかった。ネタにさして頂きます。
8月2日 土曜日 通り町〜サンロードにかけての商店街。
JAZZ  OPEN 2008 問い合わせ先 �096-328-2424
http://www.artplex.jp/performer/index.html
音楽はジャズが中心ですが、フラメンコとか、ポップス風とか……ある訳です。完全にパフォーマンスで、音楽ではないのもあります。詳しくは上記HPで見て下さい……とは、いうものの、これ判り憎いですよねえ。

私の推薦をひとつあげるなら園田智子DUO、これがいつ、どの会場なのか判らないのです。後で電話かけようと思います。

熊本って宣伝ヘタなんです。なぜヘタか、県民性がひとりヨガリで古い、いまだにパソコン嫌いとか原因はあるのですが、あまりはっきり云うと怒られますので、ここでは何も云いません……え、もう云った? いえいえ大した事は言っていません。

とは言うものの希望は失われます。目的は届かない……よくある事です。珍しくない。いつも事、皮肉に構えるのはつまらない。何も思わないでは寂しい。私は救いは求めず、三行警句を考え、その不謹慎を許してもらう。

TVが寄付を募れば少しは応じて、今日という日をやり過ごす。明日なにか始まりそうでも深く期待しない。また何かあったとしても深くは傷つかない。そういう事にしませんか? そういう事に……そして明日がやってくる。

2008年7月24日 (木)

「華」アッシュやまだ

伝統というと難しいのですが、難しく考えなければ簡単になります。一方であまり簡単にすると間違えにもなる。用心はしないといけません。基本的に西洋の楽器は私たちは歴史がない。浅いという意味です。

私はもうすぐ60になりますが、学生時代にギターがブームになりました。ギターはむろん西洋楽器で、音楽室にありません。学校にあったのはオルガンと縦笛、ハーモニカ、アコーディオンくらいです。ピアノはありましたがピアノは授業に使われません。

グランドピアノは学校のイベント用、少し大事に扱われました。自宅にピアノといえば、そういう家もなくはないが小さいピアノでした。同年輩で趣味の楽器でドラムをやってる人は、一人。ない事はないが簡単にいうと、まあ良家の人です。プロはむろんいません。

遅れましたが、これはアッシュやまださんの「華」の感想です。そういう訳でギターを買った友達はいたが、ドラムを買った人は知りません。揚水さんがギターを買うのに苦労した話を聞いた事があります。それから泉谷しげるさんはギターの技術が習得できないで役者に向かう。

私なども楽器がダメで原稿用紙に向かった(笑)それはどうでもいいが……和楽器については違う背景がありますが、洋楽器でないと楽器ではない。端的にいうと、そうなります。歴史がないので憬れた、行き詰まる面も多い訳です。全面ではない。

たとえば渡辺貞夫さん、ナベサダは家が琵琶の家元です。それにサキソフォンは接木で、一時はフルートをやられた。どちらにしろ和楽器の根に洋楽器を接いでいる。もっと後年になるとそれぞれ状況は違うのですが、基本は同じかと……洋と和を埋める作業が必要になって来ます。アッシュさんの試みもそう思われます。

アッシュさんの「華」というのは短い曲で、何度きいても中に入っていけない。それで3度4度と続けて聞いてイメージを膨らませます。アッシュさん自身も音楽はイメージを詞で捕えるらしい、私らには詞のない音楽は特に難しい。そういう面があります。

詞と音楽を重ねて訴える音楽がフォークになります。歌謡曲は違うのか? 似たようなものと云う人もあります。詞と曲の共通性が云われたのがフォークで、時代への訴えがあった。それが主張という事です。

アッシュさんの場合、主張がある。詞を書いて自身で朗読しながら演奏すれば、主張の理解には無理がない。私はそう云っています。昔はクラシック演奏は説明が一切なかった。最近は演奏家が曲名、紹介から解説まで自分で加えるのが普通です。

曲の説明で主張ではない……いいますが、どうでしょう? 演奏家の言葉を観客はすごく熱心に聞いています。今の観客は楽章間で拍手をしたりします。クラシックの習慣を知らないし、基本的に曲を始めて演奏会で聞く場合が少なくない。

悪くいうと準備不足、よく言うと違う意味では素直です。演奏家は伝統のなさに行き詰まる。観客は初心にもどっています。大変かもしれませんが、これは双方に新たな理解が成り立つ、いいチャンスかもしれません。

華って何? どこでこの曲と繋がるか? どんどん聞けばいいのですね。私が聞くと自由に解釈していい、そういう発言内容ですが、それでは困るト。説明を求めたらいいです。なぜ和太鼓じゃないのか? 伝統をどう思うかとか。

そういう中から新しい音楽を聴く、新しい意味が出て来ると思います。写真は[関心空間]さんから、演奏と直接、関係ありません。カホンを主に作られた、携帯ドラムという楽器だそうです。曲の視聴は以下。
http://jp.youtube.com/watch?v=lJPiTTAEdwU

2008年7月23日 (水)

そして都合よく

誰かに都合のいい事は、私に都合のいい事ではない。絶対という訳ではありませんが大抵そうでしょ。そして私に都合のいい事は、他の誰かに都合のいい事ではありません。それで適当に折れ合う所を探す訳ですが、それも難しい時もあります。

いえね、いつも行くプールに旗が行列で立っています。パタパタと旗が何十本もあると、一種爽快、祭りです。オリンピックは祭典です。熊本でのオリンピックではありません。が、ドイツ水泳選手団は北京に行かないで、今、熊本に来ています。旗はその歓迎なのです。

選手たちは北京本番の直前までここで練習して、本番に乗り込むつもりらしい。で、この所プールの水温が低い、1度半くらいか。普通の人は震えます。老人子供は嫌がります。私はと云うと、老人ですが……今日の所はヤセ我慢して泳ぎました。

水温が低いと長くは泳げません。上がっては泳ぎ、泳いでは上がる。
「冷たいなあ」
――そうですねえ。これがホントの何とかの(笑)
などと適当な話をします。冷たい時はありましたが、これほど冷たい水ではなかった。

別にオリンピック選手と一緒に泳いだ訳ではありません。それは彼等は貸切コースで泳ぐでしょうから、同じなのは水温だけ。いやあ、冷たかったです。いつもの三分の二程度で切り上げました。何せひ弱なもんで、足がツルんです。

烏曲がりが来ないように休み休み泳いで、それでも寒くなって来て、止めてしまいます。本格的にツルと次回もツリます。何回も続けてツリますから嫌になる……その辺を考えてか身障者専用プールという人もいます。

私も健常者に比べると泳ぎは遅い。同じコースを健常者と一緒の時は、その後を泳ぐようにします。それで縁で待っていると、
「何で先に行かないんですか?」
――あなた、早いから先にどうぞ。
「いや私はそちらに合わせたい。それも勉強です。先に泳いで下さい」そういう事いう人いるんです。びっくりですね。

話のオチが見えて来ましたか? 泳ぎ終わって脱衣室に行くと変なことをしている人がいます。片足で立ってもう片足を頭の高さまで上げて、ストレッチの一種と思います。そうかと思うと腕立て伏せを始めました。髪を染めた体の白い、そういう日本人も最近います。

その人は本物の外人でした。ありゃあドイツ人かい。さりげなさ過ぎて判りませんが、選手も普通に泳ぐ時はあるみたいです。やっぱりオリンピック選手と一緒に、私は泳いで来たのですねえ……だから何だ。いえ、それだけの話です。

身障者だけのプールって気楽かもしれませんが、刺激も感激もないと思います。滅多には居ませんが身障者と一緒に泳ぎたがる健常者も最近います。コースごとレンタルして泳ぐ事もあると思いますが、普通に泳ぐオリンピック選手もいます。

身障者だけの専用プールで泳ぐのは……ま、それもいいのですが。

○行ってませんがサブプールは普通の水温と思います。

2008年7月22日 (火)

ぼくはこんな本を読んできた

「ぼくはこんな本を読んできた」というのは書評で関心を持って実物を手に取ったら、つまらなくて途中で止めました。図書室で見たのは? 今度、買って来たのと違う! 初版は95年末、翌年3月で13刷ペースでの刷新。

「あるある大辞典1」が97年末の初版で、翌年10月で19刷ですから短期では、あるあるに勝ちます。あるあるは一家に一冊の本ですが、立花本がそんなに売れたのか? 失礼、不思議に思うのですが、私もそれほど立花さんに詳しい訳ではありません。

これ広義の読書、勉強論で、やはり野口悠紀雄さんと似ます。立花さんは蔵書はリンゴ箱にしまうのが合理的という。リンゴ箱はユニット家具だから並べれば本棚になり、天井まで積めば部屋しきり、つまり壁にもなると、そういいます。

野口さんは書類整理には大きい茶封筒がいい。関係書類を入れては並べ、入れては並べ、袋ごと棚で超整理する。野口さんの口調とほとんど同じです。もっともリンゴ箱なんて現代にはありません。実際は使えない点には気をつけなければなりません。

野口さんが超勉強法を出した時、
「確かに一理あるが、ある程度、頭のいい人でないと使いこなせない方法ではないか」そういう感想がありました。八割勉強法やパラシュート法には確かに、そういう面があります。

が、もっと大きいのはテスト勉強ではない勉強法という事。もっと高く、いや現実的な目的意識で、脳は本気になる。一般に云われている勉強は受験勉強、せいぜい入社試験です。それでは具体性にかける気がします。そして立花さんの本もそこは野口さんに重なる。

立花さんが指摘しているのは、買って来た本は棚にしまってはいけない。机の上に積んで読み終えるまで、見える所に置く。つまり徹底した意識化です。むろん受験勉強法と同じ点もあり、それはなまけようとする自分との戦いでしょう。

道楽でも面白がるとその物を、アクセサリーでもないのに部屋に飾ります。折り紙の竜がとんでもない値段で売れるとか、有名人の落書きに破格価とか、価格は別な意味の意識化、自動車のパーツを部屋に飾るとか。飾るのも意識化ですね。

その変のメカニズムを立花さんはよく知っています。ただ立花さんのやった事は、野口さんよりなお、一般的ではない。立花流は私的にアレンジして使えないかと、私は思います……古典に対する考えは似ていると思います。

立花さんは「かなり時間を置かないと古典は定着しない」意味のことを言っています。私は古典は変わると思います。人類なりその人なりが変わった時に、古典の選択も変わる。なぜなら古典を決めるのは時間や人の好みではなく、志向される未来が古典を決める。

志向が変われば対応して古典も変わると思います。

2008年7月21日 (月)

名前は立花隆

立花隆という人とは私、相性がいいようです。これは好き嫌いでなく主張が同じなのでもなく、関心が重なるわけでもない。何となく見て聞いて読んで嫌な気がしません。特段には惹かれないものの付かず離れずに読んでおります。

本名は橘隆志というそうです。ペンネームへの変換のさまが目に浮かびます。橘という名は画数が多いので嫌った、あ、そうそう立原道造さんがお好きで「立」という字もお好きなんでしょう。立原隆なんて線も一応は考えたかな。

夭折の詩人とタフな立花さんでは重なりません。立花さんの特色は物事の把握が構造的なこと、立原道造さんは建築が専門で詩の作りが構造的です。私は先のブログで、山と山寺、仏像の関係から信仰に自然体験が取り込まれる、と指摘しました。

お二人に学んだのです。そういう見解は古寺巡礼の、和辻さんにはありません。哲学も哲学書だけ読んでいては見えてこない。人間が生きる事を追求したのが哲学で、生物の人間に気がつかなければ、ありようが狭いのです。

漱石は潜在意識に興味を持っていて、人間として生きる以前に動物として生きるのではないか? だから「我輩は猫である」です。立花さんもその辺にぬかりがない。田中角栄さんとサル学を同列に取り上げ勉強します。

いや皮肉ではなくて……角栄さんの周囲とボスサルの周囲とは同じ様相が広がる。つまり共通する訳です。一般に男は「最後の田中派」なんて本を読みたがりますが、サル学の明日の方によほど明日があります。そう思いません?

隆志から志はムダと取り払ってしまう。高志とか「たかし」に変える人もいます。理由はやはり画数の問題で、隆志は多すぎる。基本的には本名が嫌いではなく、立花隆にまとまったと思います。男で真中に「花」はどうかとも思います。

立花さんのキャラクターは男のオバサンで、そこまで計算したとすれば見事です。立花さんは野口悠紀雄さんと重なる部分があって、野口さんも自分の名前が好きなのです。名前だけ評しますと、野口悠紀雄さんでは少女文学です。

たとえば三島由紀夫さんとも重なりましょう? 20代前後はいいとして晩年が辛い名前です。立花隆は日持ちのする名前かもしれません。まあ、ペンネームです。何と名乗るのも勝手です。悪い訳ではありませんが、とんでもない名前を名乗る人はいるものです。

勝手な名前をじっと見て、色々に見る。本文を読む前に名前を読む、それは読む側の勝手です……とうとう今日は、名前だけで終わってしまいました。明日は「ぼくはこんな本を読んできた」の書評をしようと思います。

どこかで講演会があって、そのHPが出て、それが終わってHPは消えてしまう。この写真だけ残っていました。