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2007年2月24日 (土)

死と「火火」

死なんて簡単、誰にも出来ます。むろん、あなたにだって……怖くありません。本当ですとも、そうですね。例えて言うと小学校でやった予防注射。自分の番を列を作って待った。
「痛いだろうか」ト期待を込めて待った。あの時を思い出して下さい。

人権啓発へ向ける教育映画として上映会取り上げ「火火」ひびと読みます。主張は取り上げの骨髄バンク協力が半分。もう半分は神山清子さんの陶芸になります。モデルではなく劇に実名を出されます。作品や窯もそのものといいます。

ネットには端的に「協力ではなく神山映画にして欲しい」旨の表記があります。そこが見る方として、どう見るか難しい映画です。陶芸は知りませんが、いわゆる芸術家は、こういう面があって仮名で書かれた台本を実名へと、要請されています。

よくも悪くも名前を売らなきゃ話にならない。そういう商売だから大体そうなります。名前や作品が本物だとノンフィクションになるかトいうと、そうはなりません。映画はあくまで劇映画、田中裕子主演であり高橋伴明監督作です。

撮影中に田中さんが事故に遭い松葉杖つくと、それに合わせて進行します。杖で息子を殴るシーンがありますが、神山さんが殴った訳ではない(笑)
卑近な例になりますが私が記事を書いた時も、いったんOKの原稿がNGになり、さらに仮名のOKになる。

――どこがまずかったか、話していただけませんか?
「いえ、どこがというのではなく、本人の出たい気持ちと出たくない気持ちが揺れて……」と家族の話です。それは芸術家の場合は、まずないようです。

白血病は正確に描かれるか? 最近の難病モノは死んでいく人をリアルには描くようにはなったが、まだ現実はアアはいかない。火火では芸術家の母と対するモノとして出てくる。息子に憑く死神として描かれてるようです。

何でも知ってる私のようですが(笑)……現実の白血病患者の友人がありました。あんな喜劇のような事はしません。だからと非難するつもりはない、ですが、これは映画です。死神は出せても死、そのものを出す訳にはいかないのです。

私も死んだ事がある訳ではない。死に掛けた事はあって死はあんなモノではない……つぶやかざるえない。つぶやきも書けばつぶやきでなくなりますが、この映画はブラックコメディに近い。そのまんま東さんに東国原英夫さんが重なるのに、それは似ています。

風のように消えていく息子と、陶芸だけでは気が済まず映画でも死後に残ろうとする母……葛藤は暗い笑いを生みます。ほとんどの人が一人生まれ、日々の果てに一人死んで行きます。死とは誰にも理解されない事、忘れられるという簡単な事なのです。

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コメント

映画は知らないけど、なんとなくわかります。音楽家や芸術家で名前を公表することをためらう人はごく僅かでしょうね。とくに売名行為ではないにしろ、「これを創ったのはオレだ!」みたいな気持ちはみんな持ってると思います。名前を残すことが目的ではないにしろ、名が出ることを名誉とも感じる人もいます。作品にサインを入れるの、あれってそういう行為だと思いますよ。でも映画は所詮映画で、ドキュメンタリーといえども映画。仮に僕の映画が出来るとしたら自分で主演したいです(笑)。本質的に露出狂が多いんだろうと思いますね。

出ましたね。芸術家……本人はそうではないトいっても、このコメントは内なる声でありますなあ(笑)いやいや。露出狂や自己顕示ではなく死ぬ事が受け入れられない。それは芸術家でなくとも、書いてるようにある。あると思いますから理解は出来るト思います。かなり直しがあって何とか公開に漕ぎ着けた記載です。アッシュさんの反応を予測する余裕はありません。書いたように疑問点はあるのですが、面白い映画でした。DVDも出ているようでレンタルされているト思います。

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