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2006年10月28日 (土)

ラフカディオ・ハーン

ラフカディオ・ハーンなら少し知識があります。先に書いた「夢の中の女」は「怪談」へのオマージュです。いえ、聞くところによると漱石の「夢十夜」がそうだというので、オマージュへのオマージュという事になる。

書いて見るとハーンの、もやもやした感じは払えた気がします。解けないから謎、解いてしまうとトリックはいつも簡単です。解けたトリックは、別な謎につながります。だが小説の謎は解けても現実は小説ではない(笑)そうですねえ。

河島弘美さんの「ラフカディオ・ハーン」を読んで思うのは、漱石との相違は何なのだろうトその事であります。熊本では今もそうですが、ハーンほどの人気は漱石にはない……そういう答えがありますが、ではそれはなぜか? 最初の質問、相違に戻る訳です。

河島さんも指摘しますが、ハーンの文章の冴えはうっすらと見えて来る。最初の光景にあります。第一印象です。ハーンはその描写が巧みなのです。しかしト私は疑問を持ちます。ハーンは目が悪かったのです。物事ははっきり見えない。見えない目で何を見ていたか?

は〜い、この問題に関してなら私は河島さんより第一任者です。このブログを読む人はご存知ですね(笑)ハーンはリアルに現実を書くのでなく、現実を目前にした期待を書いた。今までの世界は自分を受け入れてはくれなかった。だが、この新世界なら……と。

風景ではなく心の中の期待を見ていた。それはその後どうなるか。ハーンは例外なく裏切られ、憎まれ口をいう事になります。類型です。それはハーンが見えなかった事と関係があります。見えなければ不都合は起きます。障害です。体だけでなくハーンは心にも不都合を抱えた。

視覚障害者専用の世界のどこにもなく、不都合に対応するには知るから始めるしかない。知はどんな意味でも未知ではない。なぜハーンが未知に希望を持ち、知に絶望したか。身障者なら簡単に理解出来ます。見えない自分を知る事がみじめだった。

ハーンはみじめさを書きたくなかった。みじめさを闇に葬り、期待の輝きを書こうとした。河島さんの本の表紙に、ハーンが描いた絵があります。大きなトランクを提げた太っちょの男の後姿、一枚の自画像は、ハーンの文を解きほぐす手がかりでした。

ハーンは、著作に入れるイラストを何枚も描いています……漱石もそうなのです。「こころ」の装丁は自分でやりました。岩波の漱石全集はそれを再現して作られました。これは両者とも視覚からイメージを得た事を物語ります。

おそらく後年になるとハーンは視力が落ちていった。その代償にハーンのやさしさが日本人を魅了して止まなかった。みじめな国に希望があると書いたからです。漱石はなぜ嫌われたか? 対応させればこちらの謎も解けそうですが、それはまた別な話としましょう。

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