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2006年5月

2006年5月31日 (水)

音楽をめぐって 3

演奏家の方々というのは一般に親切で、車椅子の身障者が
楽屋に行くとまず会われる、必ず会われるといっていい。私などはちょっと親切すぎでは、ト思うこともありました。そこらへんの事も聞こえ方に関係があります。

音楽は、そういう要素も頭の中でミックスして聞きます。そういう体験が1つでもあれば、その演奏も演奏家も悪くならない。私個人は体験はないのですが、いくつか見てきて全体から音楽へ音楽家への借りのようなモノを感じます。

今も高齢者は車椅子で初めて外出する時は、抵抗があるのでしょうか? 昔、身障者はコンサート通いから、外出に抵抗がなくなった、そういう人はいました。自宅のプレイヤ、レコードから会館の生演奏までの距離感は、実に面白い効果を生みます。

身障者の場合が端的にそうなのですが、一般健常者も似たような経過をたどって社会性を身につけたりします。楽屋に行きたがる人は少ないと思いますが、誰かとコンサートに行くというのは、デイトの口実によく使われますが……これ社会性でしょ?

聞いてる音楽の種類が多い、演奏が多いのはある意味で社会性が広まったトいってもいい。クラシック1本やりよりジャズもという方がいい。Jポップスだ何だかんだと広く接したに越した事はないです。

しかし音楽の視聴範囲は社会で狭まっています。音楽というのは出版と同じく斜陽産業の部類に入ります。Jポップスの誰それが好きな人は10年経っても、誰それしか言わない。ジャズもクラシックも民俗音楽もお呼びでないです。

モノラルのカセットとレコードの音を頭の中で合成して、自分だけのテイクを
作り出すような力は、視聴者の中からも消えてしまいました。サトウキビ畑の
全曲放送があると、近所のおばあちゃんは友達全部に電話をかけ、録音するように言います。CDはむろんコンサートにも行かない人が多くなっているようです。

「さもしい事せんでCDくらい買え」私は聞こえないようにつぶやきます(笑)
もっとも私も最近百円CDが多くなって、あまり人のことは言えません。広い意味での閉じこもりです。最近、どこか行かれましたか?

誰かとコンサート行かれました? CD買いました? 聞かなかった音楽を聴くようになりました? 何も広がって行かないというのは閉じこもりと違います? 気が向いたらパート4やります。

2006年5月30日 (火)

音楽をめぐって 2

今もそうかもしれませんが、若い身障者は余裕があるとレコードを買いました。極端な話、生活保護の身障者が少し余裕があるとレコードを買うんです。ただ、それはいわゆる売れ筋とは違っていたような気がします。違うといえば違う、同じといえば同じ、その微妙な感じが今日は書けるかな(笑)

五木寛之という人は今もいらっしゃいますが、初期作品群で音楽小説を多く書かれます。小説に取り込まれた音楽を見ると、ほぼ一種の音楽に絞りこまれます。キーワードは傷心です。Aロドリゲス、Aユパンキ、シベリウス……といった具合です。五木さんは過去に悪いことがあって、それを引きずる小説だったのです。

身障者のDさんが学生時代に、
「音楽の時間が嫌いだった」といわれる。その理由を聞くと、
「唱歌や童謡が嫌いだ」というので笑いました。実は私もそういう傾向にあるのです。全部がそうとはいいませんが、大半の唱歌や童謡は、過去が楽しかったと歌うのです。そして今もそうであれと歌い上げます。

Dさんは障害が理由でお母さんと生き別れています。端的に申し上げて過去に、いい思い出がない人です。その人にあると歌わせようというのは、極端にいって嘘を強制するような物です。そして唱歌は学校以外でも、まあ合唱を強います。

何事も趣味の押しつけはよくない。熊本に大庭さんという童謡の先生がおられます。国際童謡館というのをお建てになって、私も行った事あるのですが、やはり強制というか……むろん悪気はないのですが合唱の形を取る……何曲かそれに合わせた後……私は寝ました(笑)

もう行きませんが、あれは大変です(笑)音楽は音ですから聞かない訳にはいかない。身障者は全部そうかどうか判りませんが、大半は心傷ついています。過去がそうです。それで大体、傷心であり暗めの音楽が好きです。誰でも楽しい音楽を聴けば楽しくなるはず、さあ楽しく歌いましょうという理屈には、無理がある。

暗い音楽が好き、暗い歌をひとり歌いたい。誰にも知られず、ひとり聞きたい。なぜならば私の心は誰とも違う、今はそれをゆっくり確かめたい。ウォークマンの登場は暗い時代の後でした。いわば必然があったと思います。

2006年5月29日 (月)

音楽をめぐって 1

マツモトレコードが閉店したという。それでは熊本市外の方は何の事だか判らない。老舗のCDショップが店を閉じても熊本市の大勢には影響がありません。音楽をめぐる状況は何か変わったか? 演奏家の気持ちは視聴者と食い違っているのか?

演奏家の気持ちは理解できる……出来てると思う。確かにそうか、あやしいから、ちょっと書いてみよう。そういう事です。音楽を聴くのに録音を使うようになった時から、音楽の産業化が始まります。レコード、テープ、カセット、MD……ラジオ、TV、ラジカセ……ト移行して行きます。

演奏家の都合もあるのでしょうが、会館や機材との折り合いで場所と時間が決められ、視聴者はそれに合わせる訳です。もっとも視聴者が聞きたい時と、聞きたい演奏家や曲目を選びたい物も、ひとつの都合でしょう。それに合わせる形で産業化も進展して行きます。

そうしますと出会い頭の衝撃もないです。元もと音楽には衝撃があります。街角を曲がったら聞こえたジンタのリズム、その衝撃がチンドンヤの宣伝効果になりました。建物に入ったらアイネクライネナハトムジークが、朝のスーパーでオープニング音楽が購買意欲を上げます。音楽の衝動が商業利用されています。

音楽そのものに衝動はあります。路上ライブは、好みも聴かずいきなり聞こえましょう? うるさければ引き返せばいい。普通、寄って行って聞きます。そういう所に私は、音楽の元の形を感じます。

それをうまく使ったのが映画です。場面ごとに音楽が変わります。私たちは音楽で頭を切り替えて行く。主人公の側に立ったりライバル側の立場に立ったり、もっと極端に音楽で映画の主人公そのものになる。映画「ロッキー」のテーマはずいぶん流行りました。

ただ演奏家も同じ曲ばかり演奏させられるト嫌になるそうです。聞く方も飽きます。いろいろ注文も多くなります。コンサートでは、その日の演目をCDで売っています。時効になったから言いますが、私はモノラルのカセットでコンサートを録音しました。

音はひどい。しかしコンサートと同じですから記憶が直に聞けました。音が悪い割には、楽しめました。隣の席の椅子のきしみや、自分の拍手の音が、それはそれで面白い。時に感極まった演奏者が、演奏を間違える。演奏できなくなる。そういうのもありました。演奏というより人間記録です。それを人に聞かせるト、「これはスゴイ」という人があって、それでその人は演奏レコード買いに行きます。

「何だ、この前に、ここで聞いたのはレコードだと面白くない」といいます。だからといって私は責任とりません(笑)まして私がマツモトレコードつぶした訳ではありません。音楽を画一化して全部同じにすると、同じ曲が大量に売れます。でも、その後は心に残らない。トそう云いたいのです。

私がモノラルのカセットで盗んで来たのは音ではありません。音の彼方にある心です。音楽は耳ではなく脳で聞くんです。いや、音楽をとおして私の心が演奏者の心と共感するのです。CDに価格は付けられます。心や脳にどうやって値段札を張るか? それは無理というものでしょう。               続く

今日のブログはここに来られるアッシュさんへの、ほぼ宛て書です。
事前にメールしたところ、パソコンの調子が悪く書き込みが出来ないそうです。
異論反論があればメールでと申し上げています。
そういった通告(?)に対し、早速のメールが来ています。

2006年5月28日 (日)

身障者の生命保険

身障者の生命保険はむつかしい。入れない訳ではないけれど健常者と同じではありません。直近で去年、電話での保険勧誘が掛かります。TVCMでも知られる外資系保険です。
「×××です。生命保険に入っておられますか?」
――いりません……いや、私は身障者です。入れてくれないでしょ?
「はあ?」
――某共済組合ではダメでした。身障者はダメでしょ?
「待って頂けますか。調べてみたいと思います」
折り返し電話があって、
「2年間の免除期間があって、その他の病気には対応できます。56才での掛け金は月額7千円ほどになります」ト提示してきました。7千円はちょっと辛いのでお断りしました。

その前に50才の時に某共済組合に入院保険がありました。身障者である事をいうと、
「書類を出してみて下さい」とはいうが結局、ダメ通知が来ます。つまり時期的にOKの時期とNGの時期があるらしい。会社によっても担当の力によっても、身障者は保険に入れたり入れなかったり微妙に変ります。

保険は起きそうなリスクの確率から掛け金と決済額が決まりますが、通常、保険会社が儲かるようには出来ています。身障者とはリスクの高い生き方なのでしょう。私も「救急」というタイトルでも書いていますが、まあ、納得できない訳ではありません。

何でもそうですが簡単に諦めない。時々、保険会社に当たってみて、可能か不可能か調べたがいいと思います。会社の景気がいいと入れてくれません。つまり景気の悪い会社なら入れてくれるかも、かも知れません(笑)私がいい加減なのではなく保険会社の対処基準が、書いたようにいい加減なのです。

ついでに保険関係で話を続けますと、友人が保険規約を見ていました。
「こないだ胃潰瘍でちょっと入院したけど、これだと金は出ないナ。細かい字を見てると胃潰瘍がぶり返しそうだ」
――私が見ていい?

「いいよ。何か見つけてくれ」
――胃を切れば出たんだ。3日なんていわず、もう少し居ればよかったのに。
「そうそう(笑)あんなトコは3日もおれば」
――あれぇ、網膜はく離は手術なのか。網膜先孔はどうだろう?
「そういえば何かやったトいってたナ」

そうです。私は他人の規約書を読んで、自分の目を思い出したのです。家に帰って自分の規約書を調べたら出ていました。二月遅れで書類を出しました。もう1月遅れたら、お金は出ませんでした。

入ってる人は忘れないで保険金を取って下さい。

2006年5月26日 (金)

映画「小説家を見つけたら」

DVDは一般に原語音声と吹き替え、日本語字幕と原語字幕が切り替えで使うようになっています。たとえばこの映画で、
本来原語、英語字幕では、
「The firstkey to writing……」
日本語字幕では、
「文章を書くときは……」となり、
吹き替えのセリフでは、
「書くための最大のカギは……」となります。
さしづめ私が最終意訳をするなら、
「モノを書くなら、まず……」とします。

DVDは語学の習得に向いているといいます。映画の雰囲気を味わうなら字幕で、正確な理解には吹き替えで、最終的には両方を見ておく必要があります。少なくとも監督の意図を汲み取るような作品に関してはそうです。

この「小説家を見つけたら」は文学史上の伝説ともなった、ある作家と16才の少年の交流を描いたフィクションです。伝説の作家とはサリンジャー、映画の中での設定は違いますが、これは明らかにサリンジャーを頭に置いています。

サリンジャー文学の主題は救いです。監督は付属のドキュメンタリーで「ちょっと見ると老作家が少年を救う話のように見えるだろうが……」と語ります。
つまり少年も作家もお互いが救い救われる。もっといえば世界において、上流階級と下流階級が救い救われる。

男と女が救い救われる。白人と黒人が救い救われる……むろん健常者と身障者の間においても、どちらかがどちらかを一方的に救うだけでは足りないト、そう言いたいのでしょう。果たして両者は対等に互いを救いあうことが出来るか?

テーマは小説発表時、文学的な遊びと見なされました。9・11同時多発テロ以降、テーマは具体性を持って来ました。サリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」が「かいじゅうたちのいるところ」などと共に新しい必読書になっています。

あなたはDVDを持っていますか? 映画を3度みていますか? テロ以降、周囲を見る目を変えましたか? あなたの子供さんは隣人に愛されますか? あなた、サリンジャーは読みましたか? ライ麦畑はどうですか? 小説家をみつけたらトいう映画、まだ見ていませんネ?

あ、いけない。オチで身障者を書くの忘れた!

2006年5月25日 (木)

空に死す

蝶に演技をつけられるか? YESです。ブログねたに困ってバカなことを言うな、叱られそうですが私なら出来ます。もっともネタ不足もYESなのですが(笑)この写真がそうです。チャバネセセリ、弱っていましたから多分そうです。

キレイでどこもどうもなさそうに見えて弱った蝶もいます。動きが鈍く飛ぼうとはしません。時々、そういう蝶を見かけます。見かけたら、こうやって好きな所に止まらせて撮影します(笑)つまり蝶に演技をつけた訳です。

なぜ、そういう蝶がいるのか。推測ですが花クモではないかといわれています。花クモは花陰で蝶を待ちます。蝶が来ると出て行って毒針を刺し、エサにする訳です。いつもクモの思い通りにはいかず毒は刺したものの、蝶が逃げてしまう時もあります。

蝶は逃げ出したものの毒が回って飛べなくなり、時にはストンと落ちてしまう。落ちないで、そこら辺に止まる時もあります。毒でフラフラの状態であります。この写真も、どうもそういう状態らしいのです。

これにドキュメンタリーライター&カメラマンの藤原新也さんが気が付いて新聞連載に書いたことがあります。蝶は空に死ぬト、藤原さんらしいロマンティックな死への憧憬が感じられますなあ。昆虫写真家の栗林彗さんが「それは違う」と手紙を書きました。

ロマンティストはリアリストには敵いません(笑)空に死ぬ事は出来ないのでしょうか? 昔、「華麗なるヒコーキ野郎」という映画でRレッドフォードさんは空に憧れ、空に死ぬパイロットを演じました。とんでもない空中シーンをスタントなしで演じたそうです。

そのレッドフォードさんの恋人役に若いスーザン・サランドンさんも同じように空中シーンをやるのですが、役者としての意気か侠気のような物を感じます……たとえ空に死んだとしても死体は地上に落ちます。どこにもロマンティックな結末はないのです。

私はこの映画の前売券を買って、熱を出して見そびれてしまいます。次の週もそのまた次の週も映画には行けません。病院のベッドじゃあネエ。どうしようもない。飛び立ちそうに見えて飛ばない蝶、の写真……悪い冗談のように思いは重なっています。

空の上に死はない。いつも死は土の下にある……うぅーん、いや死は空の上にあるのです。それでも土の下にはなりますね、そうです。だって言うじゃありませんかドレミファソラシド、シはソラの下、土つまりド、いつもシの上じゃありませんか?

では、お約束。本日もお後がよろしいようで。


先日の教育TV「デジタル一眼レフ入門」でも接写をやっておりました。番組ではマクロレンズを付けての接写でしたが、一般にはクローズアップレンズ、交換レンズでなくフィルターです。1枚2千円前後であります。この写真では�3を使っています。
ちなみに近すぎると見えない。カメラはどれも老眼のような物、ある程度、放すか。老眼鏡をかけてやる。近くを見え易くしてあげます。凸レンズをかざしてやると随分見えるようになるカメラもあります。


2006年5月24日 (水)

映画「イルマーレ」

海辺の一軒家はロマンティックなのでしょうか? 一軒家だから淋しい。淋しさを動機に落ちる恋は楽しいでしょうか? 生きるにも動機がいる……なんて話を書いた後で、性こりもなく恋にだって動機が大事と書こうト思います(笑)

海辺の家といっても書割な訳で、ポッとあるだけ。ライフラインもガレージもないのですから……まあ、それもいい事にしましょう。ほとんどBGV、バックグランドビジュアルのような映画です。SFで宇宙船が飛び交うようなもんです。

ですから「イルマーレ」はボーッとして何度も見るといいそうです。犬や相手に了解なく、やたらタバコを吸う男が信じられないトいう意見もあります。淋しいという動機なら恋もそんなもん。犬や相手を大事にしたいのでは、ないでしょう。

「マディソン郡の橋」が流行った時、私は阿蘇のペンションで本を読みました。それを見ていたペンションのマスターは、
「阿蘇にも、木作り屋根のある橋がありますよ」といいます。
――ほう、カメラを持って見に行きましょう。

本気とも冗談ともつかぬ浮き上がった気持ちで場所を確認していると、女性客が自分も行きたいと言い出します……たとえばですがロマンティックとは、そういうことです。

マディソン郡は縮めると不倫話です。先の見えてしまった中年が、命の限界を探る話です。たまたま不倫だけど、いろんな意味で中年にはもっと可能性があるんじゃないか、文学的に長寿社会を問う始まりでした。

映画版のマディソン郡は、生臭くその部分をそぎました。あれはイーストウッド監督じゃなく、レッドフォードでやるべきとの批判もありました。実際、レッドフォードさんは「モンタナの風に吹かれて」という似たような作品を作っています。

春の、あるいは秋の、透明な光の中で人生を見つめる。自分が生きる価値や意味を問い直すなら、不倫であろうと犯罪であろうと真摯です。私もヤボは申しません。ただモデルのような女優さんを出せばキレイか? 作ったような家を見せてもらっても、表面の美しさでは、私は感動しません。

私には、はっきり失われた人生があって、それは身障者になった体験がある。それは風景を見て癒される物ではありません。淋しいと私と同じPTSDになるのか、判りません。私が感じる心の動きはもっと強いものです。それはマディソン郡の本を持ってもう一度、阿蘇に行けば、また伝わってくる実体のあるものです。

ああ、最初に出したペンションにいた女性客というのは筆のすべり、ワープロの誤変換です。ロマンティックとは、このように現実にあまりない事をいいます。ネタは割りませんがイルマーレは、まるっきりない設定なので、これはどうかな? 一応、念のために(笑)

阿蘇つながり、東海大学阿蘇研究所での天井写真

2006年5月23日 (火)

水泳パンツ

身障者と差別とか、声高に叫ぶつもりはありません。昔はともかく、今それほどの事はありません。掛値のない話を正直に申し上げると理解がいくような気がします。それでも障害がらみの不都合はあり、これが簡単でありません。

まあ身障者はめんどうでありまして、私は泳ぎに行くと500mから2km泳ぎます。少し前のCMで吉永小百合さんが毎日1km泳ぐのが理想だといっておられましたが、およそ、そういう計算にはなります。ただあちらはバタフライ、こちらはクロール、格が違います。

それでも泳がないと足がもつれる。泳ぎ過ぎると関節が痛む……もつれと痛みの間をすり抜けながら生きます。泳ぐと水泳パンツも痛みます。かなりスリ切れて来たので破けないうちにパンツを買いに行きました。この時分、男物はスポーツ店にしかありません。

メーカーのロゴの入った奴です。あれは6千円から1万の間です。それだけではダメで、インナーといって下穿き部分を別に買うようになっています。これが千五百円見当で、合わせて1万前後になります。

そこまではいいんですが、サイズが今時分、合わないのです(笑)
どこかでも書きましたが、私は下半身は細い。ウエスト70弱、80のパンツだとダブついてしまう。真夏に買えばそこそこあるんです。選択肢も広がる。判ってるんですが、それまで持ちそうもない。

泳いでる最中に後ろが破ければ、まあ、いいんですが、前でも破けて御覧なさい。目も当てられない。買わないとまずい。そういう事態なんです(笑)……で、ですねえ。違うコーナーに行きました。

ええ、そこだと70cmがあったのです。価格も三千円でぐっとリーズナブル。いえいえメーカー品ですよ。確かタイガー、タイガーやライオンは野球です。えーとジャガー、ジャガーは車です。ナンだっけ、あ、そうピューマです。他はないので選択の余地はありません。

恥ずかしい、何でだか判ります? これがジュニアコーナー、中高校生用です。妙な感じです。店員に誤解されないよう断って試着しました。大げさだって? 判りませんよ。バスの中で外れた義足を直した身障者は、女高生に露出狂と間違われ、警察も立件するんですよ。裁判でやっと無罪、そういう事件がありました、ええ。

変といえばそら変でしょう。オジサンだかオジイサンだか判らないのが中高生パンツはくんですから……誤解の多い日常を生きています、ハイ。どこで何を言われるか判りません。店員に断ってから試着しました。

お宅の旦那はどうです? ウエスト98センチ! はける水泳パンツがない! それは違う変です。メタボリック症候群でしょ。プールより内科の検査が先です。

そういう訳で、どっちが身障者だか判らないような健常者もいらっしゃる。話がよくよく落ちないうちに、本日もお後がよろしいようで。

2006年5月22日 (月)

奇跡について

奇跡についてのコメントしたいのです。世の中、飛んでもない事があるもんです。いい方の事を奇跡と言うんで、悪い方はおよそ事故で片づきます。考えようによっては奇跡というのも時々ありますが、あまり人気がありません(どうなのかな?)ブックオフの社長さんとか、高橋尚子さんの復活とか……その線です。

それは調べると地道な努力が実っているのですが、それは当然なのでカボチャのツルにメロンが成ったような話でないとウケません。
――女流バイオリニストの誰それさんは人気があります。昼からと夜から違う内容でコンサートをやる。客も入りますよ。
「おおっ、すごいね。あの人はストラッドバリウス買ってるから、1音1音が違う」
――知ってますね! そのバイオリンの支払いに追われて昼夜コンサートです。
「何だ、そうなのか。オレの車の支払いと同じだ」
――ストラッドバリウスとカローラが?
「似たようなモンだ。給料、天引きだ」
――天引きにはなりません、違うでしょう。
「桁が違うだけだ」

ひがみもありますが、よくは云いませんな。そういう訳で奇跡を信じて、奇跡を願って生きていると浅ましい。努力をバカにした所があって、ていねいではない。周囲に対して、いい加減な所が出ます。

私のように10才で、いきなり身障者になると、ある日いきなり健常者にも、もどれるような気がします。云わなくとも判ると思いますが2度ともどる事はありません。それでも怪しい薬を勧められ、判らない治療法を教えられ、いかがわしい宗教に勧誘されます。

私がというより親がこれを試します。最後の結論がもどらない。もどるというのは嘘つきです。金儲けです。ろくでなしのインチキのその他いろいろです(笑)こういうと、
「あなたも試した。私も試したい」といわれる人がいます。それは自由です。

ただ高橋さん、Qちゃんはいっています「夢を持てば、また光が見えてくる」ト、夢とは目標です。光とは自信です。高橋さんは優勝したからいいました。でも2位でも3位でも同じ事を云ったでしょう。ビリだと判りませんが(笑)

高橋さんは人が聞かなくとも同じ事を云って、北京に向かうと宣言したでしょう。資金繰りは大変になったでしょうが、多分、そうでしょう。それが自信です。何を試しても自由ですが自信は生まれない。試せば試すほど自信を失い、深い闇が残るのです。

奇跡、なぜこんな事を書く気になったかといえば……今日は、もういいでしょう(笑)

2006年5月19日 (金)

生きる動機

小説OUTのもうひとつのテーマは、女性は何をしたらいいのか? 生きる理由でしょう。43才の雅子にとって世界は閉そくしているのです。弁当工場でパートをするしかない主婦、実は会社では準社員待遇を検討中、リーダーシップ力が高いとの評価です。だが、それでは足りないのでしょう。

雅子は、下積み時代の桐野さんの反映と思われます。会社に睨まれ同僚のいじめの対象にされた雅子に、作者として思入れが大きい気がします。私、hataは学生の頃から、まあまあ成績はいい方でした。つまりある意味、雅子に似ていたでしょう(笑)

学級で1番の級長、そのライバルを演じていました。級長タイプは常に1番の義務に疲れ、孤独な顔を抱えます。私は「ちょっと代わっちやろかネ?」ト冗談をいう。優等生グループと劣等生グループが別れるクラスで、つなぎ役を演じました。今、健常者と障害者のつなぎをやりたいというのだから、変りませんナ。

さて小説の中の雅子は、結局、何をしたいのかが見えません。少し前の女性は、自分を子供に託します。自分が孫の子守をして、娘の仕事を続けさせる。自分が仕事を続けたかった思いは、娘を通して実現されます。それで満足するのです。

もう少し愚かであれば、現にヨシエは孫を見、姑の介護をします。頭がよくプライドも高い雅子に、それは出来ない。子は子、親は親なのです。時代も変りおばあちゃんは、もう家庭を見てくれません。ただ一人で家庭と仕事を両立させなければなりません。それが不満なのです。

たとえば黒木瞳の役柄のように……それは男にも基本的に同じです。でも黒木さんが本当にアアだと思います? 雅子を映画で演じたのは原田美枝子さんです。黒木さんはこの役はやらないでしょう、出来ない。つまり黒木瞳という女優は、存在自体がフィクションです。本当ではない。

男を殺し発覚を恐れてバラバラにしようとした女性、給料が安いと言ったために殺された(らしい)女性、金ヅルの男を伝いつたい行き詰った女性……発表から数年で小説は陳腐化する。現実は雅子を越えて、ヨシエを越えて悪の女性像を作り続けます。

しかし善の女性は、行き詰まり先がない。あとは昔に帰る。この小説が発表されると、その後で韓国ブームが起きます。雅子たちが目指したのは韓国だったのでしょうか? 多分、役割はあるのです。いつでもどこにでも……それでは嫌だという人が多いのです。

生きるにも理由が必要です。それはモチベーション、動機です。それがなければ死んでも差し支えはありません。普通とか当たり前とか、そういう理由も昔なら通用しました。今はどうでしょう? 普通とか当たり前とか健常者ならいえます。身障者はどうでしょう?

殺人に動機が必要なように、生きていくにも動機が大事だと思いませんか?

これは続編、正編は5月9日です。